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ハム・ハウス

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リッチモンド駅から、テムズ川沿いに歩くこと約20~30分のところに、ハム・ハウス(Ham House)はあります。(この館へ辿りつくまでの道中の風景は、 前回の記事 をご覧下さい。) ハム・ハウスは、ジェームズ1世の時代の1610年、王室の高官であったトマス・ヴァーヴァサーにより建設された館。1637年に、ウィリアム・マリー(第一代ダイサート伯)が住むようになってから、約300年間、ナショナル・トラスト所有となるまで、ダイサート伯爵家の人々の住処となります。庭園を含め、内部も、大幅な改造を受けることなく、比較的17世紀の雰囲気をそのままに残す事で知られている館です。 このウィリアム・マリーという人物は、子供の頃、ジェームズ一世の息子、チャールズ(後のチャールズ1世)のウィッピング・ボーイだったそうです。ウィッピング・ボーイなるものは、王子様が悪さをした際や、まじめにお勉強しない時などに、当の本人に代わっておしおきを受けるという、なんともいたたまれない役割の子供の事ですが、その甲斐あって、チャールズ1世との絆は深く、こんな立派なお屋敷も住まわせてもらえた上、ダイサート伯爵号も獲得。現在では、当然ウィッピング・ボーイのような習慣はなくなっていますから、自分の息子を、ウィリアム王子とキャサリン妃の王子様、ジョージのウィッピング・ボーイにして、後々は立派なお屋敷を手に入れさせようなんて企んでも無駄です。また、もともと、ウィッピング・ボーイも、貴族の息子が選ばれていたようなので、一般庶民の子供が選ばれる事もなかったわけですし。 ウィリアムの死後は、ウィリアムの一人娘のエリザベスがダイサート女伯爵号を受け、また自分の息子に伯爵号を世襲させる権利を獲得。当然、王党派であったため、ピューリタン革命とその後の共和政時代、エリザベスは、細心の注意を払ってサバイバルするのです。オリバー・クロムウェルを巧みにかわしながら、王党派と王政復古のための、スパイまがいの闇の努力も行うという、かなり肝の座った女性で、機知に富むとの評判もあったようです。彼女の2度目のだんなとなるローダデイル公も、共和政時代は、監禁状態となったものの、王政復古で、チャールズ2世が王座に着くや、政治的にパワフルな人物として返り咲き。この二人が結婚した1672年、夫婦は、自分達の身分にふさわしく、ハム・ハウ...

リッチモンドでテムズ川沿い散歩(リッチモンド・ブリッジからハム・ハウスへ)

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イギリスにリッチモンドと呼ばれる場所はいくつかあります。「強固な丘」を意味する、「Riche Mount」 がその名の由来ですが、イギリスで一番古いリッチモンドと呼ばれる場所は、北ヨークシャー州、スウェール川沿いのリッチモンドで、これは、11世紀、ノルマン朝のウィリアム1世時代に遡る町。もともとは、フランスの地名を取って命名されたようです。このヨークシャーのリッチモンドの強固な丘の上には、ノルマン時代のお城がどっしりと立って町を見下ろしています。ヨークに住んでいる際に、2,3回訪れた、好きな町です。 一方、一番有名で外国人も知っているリッチモンドは、キュー・ガーデンからもほど遠からぬ、ロンドンのリッチモンド・アポン・テムズでしょう。荘園といくつかの漁師のコテージの集落で、当時はまだSheneと呼ばれていたこの土地に、エドワード3世が館を建てた事から、この土地と王室の関係が始まります。エドワード3世が、この館で息を引き取った後、召使いたちが指輪等を抜き取って盗んだと言うエピソードが残っています。 この地がリッチモンドと呼ばれるようになるのは、更に時が経ち、ヘンリー7世の時代。チューダー朝創始者であるヘンリー7世は、数ある王室の館のなかでも、こよなく愛したこの地をリッチモンドと呼ぶようになり、アーサー、ヘンリー(後の8世)の二人の息子達は、ここで育てられます。火事で一部焼けた後、館は再建され、これが、パレス(宮殿)と呼ばれるようになり、ヘンリー7世が当時ヨークシャーのリッチモンドを有していた事から、その宮殿と周辺の地がリッチモンドと呼ばれるようになるのです。こうして、リッチモンド宮殿は、チューダー朝の君主達のお気に入りとなります。ヘンリー7世とエリザベス女王も、この宮殿にて死去。残念な事に、共和制オリバー・クロムウェルの政権下、チャールズ1世が処刑された後、宮殿は破壊されてしまいます。それでも、後の王者達もこの土地を愛し、また、多くの富裕者、有力者達、画家文化人がここへ居を構えるのです。 というわけで、現在でも城が幅を利かせているヨークシャーのリッチモンドと違い、リッチモンド・オン・テムズの名声は、城や宮殿によるものではなく、ロンドンのみならず、英国内の町の公園としては最大のリッチモンド・パークと、丘の高台からテムズ川を臨む景観によるところ大きく、過去の...

北から眺めるロンドン・スカイライン今昔

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ロンドンのプリムローズ・ヒル(Primrose Hill)は、 リージェンツ・パーク のすぐ北にある公園。中世の時代は、鹿やイノシシもいた森であったのを、エリザベス朝に木々が取り除かれ牧草地となります。プリムローズ・ヒルという名前は、かつて、この地一面に咲いていたプリムローズからきたもの。 他の有名なロンドンの公園に比べると比較的小さめですが、この63メートルの丘の上から、南斜面を臨んだ地平線には、遮るもの無く、ロンドンのスカイラインが一面に広がります。私が前回ここに立った時は、当然 シャード なども無く、地平線から突き出す建物の数はもっと少なかったはずです。そして、時代をもっと戻せば、木々のかなたに望めるのは、セント・ポール寺院のドームと、今は高層ビルの陰に潜む多くの教会の尖塔だけだったのでしょう。 セント・ポールのあるシティー西側は、寺院のドームの眺めの阻害にならないように、高層ビルの建設には規制がかけられているようですので、昨今の新しい高層ビル建設は、主にシティーの東側に集中します。どれだけ奇抜な形のビルを作れるか・・・の競争のような感じで、次から次へと、妙な建物がにょきにょきと地平線から生えてくる感じです。 今話題の新しいビルは、地階に比べ、上階が外に突き出している、頭でっかちのビル・・・人呼んでウォーキートーキー(トランシーバーの意)。上の写真の左手のものです。今年の夏のとある暑い日、このウォーキートーキーの上階のガラスに、お日様がぎらぎらと照りつけ、その反射した日差しで、ビルの下にとまっていた高級車の一部が溶けてしまった、というお笑いの様なニュースがありました。虫眼鏡で日の光を集め、紙に焼き穴を開けた、子供時代の化学の実験を思い出した次第。 1964年に完成したテレコムタワー(上の写真右)は、建設当時はロンドンで一番高い建物でしたが、今やご老公様で、「最近の若い者は背が高いのう。」というところでしょう。ちなみに、一番上の写真でテレコムタワーが、一番背が高く見えるのは、距離が他の高層より近いためですので、あらかじめ。 上の絵は、18世紀後半に描かれた、風刺画家アイザック・クルックシャンクによる「パスタイム・オブ・プリムローズ・ヒル(プリムローズ・ヒルでの余暇)」。すでにこの頃から、ロンドンの景色を楽しむ丘として、この絵の様に...

保険のロイズ・ビル

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17世紀後半、イギリスに紹介された新しい飲み物、コーヒー。その人気のたかまりと共に、ロンドンのシティー内に、次々と店を開いていく コーヒー・ハウス の数々。1688年に、エドワード・ロイドが開いたコーヒー・ハウス、「ロイズ」(Lloyd’s)もそのひとつです。このロイズ・コーヒー・ハウスの開店が、保険市場として世界的に有名なロイズ・オブ・ロンドンの歴史の幕開けとなります。 海上保険なるものは、中世ロンドンの金融を牛耳っていたイタリアのロンバルディアの銀行家達がイギリスに導入したものとされます。海上保険以前の海外貿易は、それこそ、「ヴェニスの商人」の題材になるような、危なっかしいものであったでしょう。 エドワード・ロイドのコーヒー・ハウスが船長、船主、貿易商たちが集まり、航海の情報を交換、収集ができる場所として評判となると、やがては、ロイズで、適当な海上保険を探し、かける場所としても定着していきます。1713年のエドワード・ロイドの死後も、海洋国としての勢力を伸ばしていたイギリスにおける海上保険の重要性から、ロイズ・コーヒー・ハウスは、海と貿易関係の顧客とそれに関わる取引の場として、繁盛を続けます。世界初の新聞などと称されることもある、ロイズ・リストも発行され。 1771年には、新しい建物へ移るべく、79人の商人、船主、海上保険業者、ブローカーたちが集まり、資金を出し合うのですが、これが、ロイズが一人の経営者から複数の人間により管理経営される保険市場としての第1歩となります。1774年から、現在のバンク駅正面、イングランド銀行のむかいに位置する、ロイヤル・エクスチェンジ内に居を構え、19世紀後半より、海上のみならず、他の保険の取引も開始されます。 1928年には、新しくロイズ専門のビルが建築されます。ライム・ストリート1番にある、現在の、缶詰のようなロイズの建物は、リチャード・ロジャースにより設計、再建され1986年にオープン。(上の写真は現ロイズ・ビルの小型模型です。) 内部を広々としたオープンスペースとするために、エレベーター、トイレ、ごみ捨て、エアコン、下水管、電気回線の類を全て建物の外側に設置。コーヒー・ハウス時代も、ロイズは何度か場所を変えていますが、これは、ロイズの8番目の住処です。 これが、建物の外側にあるエレベー...

スタンド・バイ・ミー

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また夏が終わります。学校の夏休みも終わりに近づき、草木の緑が段々その色を失いつつあります。 シリアの化学兵器使用に対する報復処置としての爆撃が、この週末あたり決行されるか否かが微妙であったアメリカ。イギリスの議会で、イギリスがアメリカとともに、シリア政府に対し軍事的報復をすることが却下されたのを受けてか、昨日、オバマ大統領が、シリアへの報復に関して、議会の承認を得る意向を発表し、ひとまずは、軍事介入騒ぎは持越しとなりました。イラクの苦い経験がありますし、常にともに行動を起こしていたイギリスからのサポートが今回は得られないとあって、これは、賢明な判断だと思います。ああいう、さまざまな宗派が入り乱れる複雑な土地での軍事介入は、事を悪化させるはめになる事がほとんどですし。 かくて、アメリカは、議会で軍事介入の是非が討論され、結果が出るまで、遠くの国に爆弾を落とすことも無く、普通のレイバー・デー・ウィークエンドとなった模様です。また夏が逝く、とアメリカの大きな空を仰ぎながらバーベキューをする家庭も沢山あるのでしょうか。(ちなみに、イギリスでは、レイバー・デーなるものはありませんので、明日の月曜日は平日です。念のため。) ***** アメリカの、レイバー・デー(9月の最初の月曜日)が近づく、夏の終わりの日々、というと、映画「スタンド・バイ・ミー」を思い出します。12歳の少年仲間4人が線路沿いを歩いて死体を捜しに行く・・・という簡単な筋の映画でした。ラジオから流れ出る当時のヒット曲をサントラとして。久しぶりに、レイバー・デーを前にしてみて見ましたが、何回見ても、ぐっとくる良い映画です。 映画の初めは、大人になり小説家となったゴードンが、少年時代の親友であり、弁護士として働いていたクリスが、レストランで、喧嘩を仲裁しようとし、刺されて死んだという記事を読むことから。亡くなってしまったクリスを思いながら、ゴードンは、初めて、死体、というものを見た、遠い夏の終わりの出来事を回想するのです。 1959年の夏の終わり、小さな貧しい町、キャスルロック。両親のほこりであった兄が春に交通事故で死亡して、なかなか立ち直れない両親から、ほぼ無視状態になっていたゴードン(ゴーディー)。近郊の町から行方不明になっていた少年が、電車に跳ねられ、線路沿いで死んでいるとの情報をも...

トイレをたずねて三千里

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イギリスのトイレ協会によると、イギリスで一番最初に公衆便所が設置されたのは、1852年の2月。ロンドンはシティーのフリートストリートであったということです。この公衆便所の到来は、新聞にも報道され、シティー内でもビラが配られ宣伝されたということ。初期の頃の女性用の公衆トイレは、ドアに1ペニーのコインを挿入して鍵をかける方式のものが多くあったため、今でも、「トイレに行く」と言うのに、時に「スペンド・ア・ペニー」(spend a penny、1ペニーを使う)という婉曲表現を用いる事があります。私も、わりと使う表現です。私が、初めてイギリスに来た時は、ドアの錠のところに、10ペンスを挿入するタイプのものがありましたが、今では、ほとんどこの形式のトイレは見かけません。 いつだか、イギリスの消費者社会がいかにして始まったか、という内容の本を読んでいる時、デパートにトイレが設置されるようになってから、女性が、お出かけ、お買い物に町中に繰り出す頻度がぐっと増えた、と書かれていたのを覚えています。それはそうですよね。 私も、ロンドンのよく足を運ぶ区域では、大体、どこにトイレがあるか、というトイレマップが頭の中に納まっていて、行きたくなった時は、「ここからだと、あそこのトイレが無料だし、一番近い・・・」という情報を引き出すことが出来ます。また、位置を覚えておく以外に、夜は閉まるトイレが多いため、何時から何時まで開いているか・・・というのを把握しておくのも必要。以前、土曜日の朝に、いつもだったら開いているトイレに行こうとし、着いたら閉まっていた・・・やられたっ!そのトイレは、週末は10時にならないと開かないと、その時気づき、大慌てで、別の場所の有料トイレまで駆けて行ったのでした。街中のトイレなどが夜間閉まるというのは、夜、良からぬ連中の巣窟になってしまったり、こもって麻薬などをやる者が出てきたり、施設の破壊行に走る輩もいるからでしょう。 トイレの場所を熟知している事は、とても大切な町歩きサバイバル能力だと思います。ロンドンに比べ、トイレ地図が私の脳に納まっていない外国の町では、これが結構、問題となりますから。以前、母が遊びに来たとき、パリに連れて行ったのですが、ルーブルを出て20分くらい経ってから、「おトイレ!」などと言うのです。パリのおトイレマップは私の脳にはインプット...

ダフネ・デュ・モーリアの「鳥」

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昨日のニュースによると、今年の夏は、人間に襲い掛かるかもめの数が増えており、RSPB(王立野鳥保護協会)へ、「迷惑かもめ何とかならんか」の電話が殺到しているとか。かもめの子育て時期が、少々遅れた年であり、比較的暑い天気が原因だという話です。子育て期のかもめは、かなり気が荒くなるといいます。ラジオの報道では、ヨークシャー州海岸沿いに住む老女が、外に出る度にかもめの襲撃を受けるので、ドアから外に出るときは、頭に金属の水切りボールを被っているという話を紹介し、更には、イングランド南西部コーンウォール州のセント・アイブスで、ホリデーを楽しむ人たちや住人たちの、暴れん坊かもめに関するインタヴューなどもありました。そのうちの一人の女性は、「かもめの数多すぎるのよ。ゴミ箱の内容物を全部かきだしたりして冗談じゃないわ。大掛かりなカル(集合的に害のある動物を殺すこと)でもしてくれないかしら。」などと強硬意見を述べていましたが・・・ イギリスで、かもめの数は減少しているそうです。大型で、ロンドンなどの街中でも見かけ、それこそ人間のごみなどもあさるから、目に付きやすく、どこにでもいる・・・なんて気がするだけで、上昇しているのは、かもめの数ではなく、人間と、その人間の営みが生み出すごみの量なのでしょうね。イギリスは、ヨーロッパの中では、人口上昇率がかなり高い国ですし、世界人口もあがる一方。比較的小さい国で、人口が増えるばかりだと、野生との衝突が増えるのは必至。そして、大胆で、大型、見た目が怖いかもめのような鳥は、悪者になることも必至。最近のかもめに関する別のニュースでは、ランカシャー州の滑走路で、飛行機のエンジンなどにかもめが巻き込まれる危険性を考慮して、周辺のかもめを殺すことが決まったそうです。 飛行機墜落の恐れほどの危険性の無い、かもめのごみあさりに関しては、食べ物をポイ捨てするのも人間で、この強硬意見おばさんなども、ファーストフードなどを子供達と一緒に、むしゃむしゃっとやって、食べられないと、ゴミ箱にぽいっとしているかもしれない。かもめも、自分の子供に餌をやるのに死に物狂いなのです。人間が自分達の行動を省みずに、一方的に野生を悪者にするのも考え物です。かもめは、餌が見つけられなければ、雛は死ぬ。自分の子供を自分で育てられない窮境になったら、政府が多少の助けを出してくれるイ...