昔のロンドンのトイレ事情とグレート・スティンク

朝、トイレに座って、事を済ませた後は、立ち上がり、何も考えずに、トイレをザーッと流す。トイレの中から流され消えていくシロモノが、どこへ行くかも考えず、毎日、自動的に行う行為です。思い起こしてみれば、東京の下町にあった祖母の家は、まだ、私が幼いころは、汲み取り式便所で、時に、汲み取り専門のホースが付いたトラックに来てもらって、溜まったうんこを吸い取って行ってもらう必要があったのです。夜中、トイレに起きて、ぽっかりあいたしゃがみ式便器の黒い穴の中に、落ちたらどうしよう、なんて事も時に頭を過っていました。やがては、これも、水洗便所に取って代わられたのですが。

”Wonders of a London Water Drop ”
こんな事を思い出していたのは、19世紀後半に、総括的な下水システムが建築される以前の、くさーいロンドンのトイレ事情の記述を本で読んだのがきっかけです。トイレというものが無い時代、人は、チェンバーポットと呼ばれる容器などの中に用を足して、内容物を、家の地下にある肥溜め(cesspit)にあける、という事をしていたわけです。貧しい地域では、いくつもの家庭で共有する屋外の便所(privy)もあったようですが、これも直接掘った穴の中にぼとんぼとんと落とすか、穴の中に納まっているバケツのようなものの中にするか、肥溜めにせよ、屋外便所にせよ、定期的に内容物をなんとかしないとあふれ出すこととなります。

そこで登場するのが、ナイトソイルマン(night soil man)または、ナイトマン(nightman)。スーパーヒーローの様な名称ですが、要は、夜間にやってきて、肥溜めや便所の内容物を集め、持って行く、という仕事。このナイトソイルマンは、こうして集めたブツを、ロンドン外の農場の肥料として売っており、くさいのと汚いのを我慢すれば、回収と販売で2度お金を儲けられる商売であったようです。ロンドンのサイズがまだ小さい頃は、ロンドンの市壁のすぐ向こうには畑が広がり、田舎からロンドンに近づいてくると、畑にまかれた、ロンドン市民のうんこの匂いがした、などという話も聞いたことがあります。

肥溜めも定期的に管理していればいいものの、ナイトソイルマンに来てもらうには金がかかるとあって、ためたまま、何もしないという人も多々いたようです。挙句の果てには、それがあふれ出し、隣の家の床や、通りにまで侵入するというおぞましいハプニングも続出。特に貧しい地区の通りは、板を渡したり、レンガを置いたりして、その上を歩かないと、ぐちゃっとうんこの中に足を踏み込むような状態もあったようです。実際、ちゃんと肥溜めに空けるという事をせずに、窓からバシャーンと外へ投げ出したり、どこか外へ捨てて、砂でもかけておく、なんてことをする人も沢山いた事でしょう。また、液体は、肥溜めの底から、染み出て、地下水、やがては、テムズ川の支流などに漏れ、最終的には、ロンドン市民の飲み水でもあったテムズ川にも流れ込み。伝染病などが発生しようものなら、あっという間に、広がったのもわかります。すでに12世紀から、王は、川の汚染と肥溜め事情を何とかしようと、何度か、色々あれこれ試みていたようです。

ロンドンが拡大し、人口が増えていくにつれ、処理しなければならない肥溜めの内容物は増えるものの、それを運び出し処理する田舎はどんどん遠くなるので、ナイトソイルマンの料金も上がっていきます。そうすると、なおさら、溜めたままで、あふれ出る肥溜めは増えていき、ずるして、その辺に捨てる人も増えた事でしょう。ついには、1848年に、南米から、海鳥の糞が乾燥し堆積した物体、グアノが、肥料として大量に輸入されるようになり、農場では、人間のうんこを必要としなくなり、ロンドン肥溜め事情は危機状態に達します。そんな中、更に、最終的打撃となるのが、新しく人気となっていく、水洗便所、Water Closet・・・WCの普及です。

現在の水洗トイレの先駆にあたるようなものを発明したのは、イギリスでは、16世紀後半、エリザベス朝の宮廷人、ジョン・ハリントン(John Harrington)であったとされます。彼は、バース付近の自分の邸宅に、この水洗便所を導入。ハリントンの館を訪れたエリザベス女王が、このトイレを使用して、自分のリッチモンドの宮殿にもひとつしつらえさせたとかいう話もあります。にもかかわらず、水洗便所は、1775年に、時計技師であったアレクサンダー・カミングス(Alexander Cumings)がハリントンのモデルを改善させたWCで、特許を申請するまで、姿を消します。更に、これを向上させたデザインのものが、ジョーゼフ・ブラマー(Joseph Bramah)なる人物により、18世紀後半から大量生産されるようになりますが、ブラマー社は、第一次世界大戦あたりまでの約100年間続いたそうで、現在でも、国会議事堂内の上院のトイレには、このブラマー社による1870年代に設置された便器が、まだあるのだそうです。

1851年に、ハイドパークで行われたロンドン万博では、ジョージ・ジェニングス(George Jennings)なる製造業者が、宣伝も兼ね、万博開催中、ハイドパーク内に、公衆便所を設置。万博を訪れた大勢の人間が、このWCを使用するに至り、これを引き金に、WCを家に設置する富裕者層が急増したようです。1860年代になると、今度は、トマス・クラッパー(Thomas Crapper)なる人物がトイレ事業に進出し、大量生産を開始。俗語で「Crap」というのは「うんこ」の事なので、なんとも名前にぴったりの事業を始めたものです。

さて、テムズ川が、以前にも増して、ぷんぷんと悪臭発する一大下水と化すのが、このWCが導入され、人気を増してから、というのが皮肉です。要は、下水システムをしっかり作る前に、水洗便所が普及してしまったため、流れた汚物は、すべて、テムズ川へ流れ出ていたのです。我が家は綺麗になり、肥溜めを持つ必要もなくなった代わりに、テムズ自体がロンドン市民の肥溜めとなった・・・ということ。喉元過ぎれば熱さを忘れる、で、目の前から消え去ると、意識からも消え去る。なのに、ロンドンの水道会社は、ほとんどが、テムズから水を取って、それを売っていたというので、恐ろしや。1848年、更には1853年と、コレラが蔓延し、各年、ロンドン内だけで、1万人以上の死者を出しています。一番上に載せた絵は、雑誌パンチに1850年に掲載された風刺画、"Wonders of London Water Drop"(ロンドンの水滴内の驚異の生き物)。

下水、衛生問題を何とか、解決しようという動きはあったものの、当時のロンドンは、それぞれの地域で、方針がばらばら、まちまち。大きく包括して、方針を立てる組織がなかった。そこで1855年に、誕生するのが、メトロポリタン・ボード・オブ・ワークス(Metropolitan Board of Works)、現在のグレーター・ロンドン・カウンシル(大ロンドン地域全体を代表する地方自治体)の先駆者的組織です。

非常に暑かったという、1858年の夏、テムズの悪臭はついに耐えられない状態にエスカレートし、使用が開始されたばかりの、おニューの国会議事堂では、政治家たちは、鼻を抑えないと議論もしていられない状態に陥り、一時は、国会の場所をテムズ川上流のヘンリー・オン・テムズに移動させる話まで持ち上がる。この一大事は、人呼んで、グレート・スティンク(大悪臭、Great Stink)として歴史に名を残すことになります。まだ、この頃まで、悪水を飲むことによって発生する病気の数々は、悪い空気を吸う事によって起こると一般に信じられており、くさいだけではなく、これは健康を害することにもなるとの懸念も強くなり、とにかく、国会に影響が出るに及び、ついに政治家たちが、これはなんとかせねばと動き出し、やっとの事で、メトロポリタン・ボード・オブ・ワークスが、大ロンドンエリアに、総合的、一大下水システムの建設を行う事にゴーサインが出るのです。

この立役者となる、メトロポリタン・ボード・オブ・ワークスの、技術者の長がジョーゼフ・バズルジェット(Joseph Bazalgette)。バズルジェットの祖父は、もともとはフランスからの移民。ブルネル親子などの、他のビクトリア朝の著名技術者に比べ、彼の築いたもののほとんどは、地下にあるため、さほど知られていない人物なのですが、7年かかった、ロンドン下水施設完成により、多くの人命がコレラなどから救われた事を考えると、勝るに劣らぬ功績。彼が作り上げた地下の下水トンネルは、150年以上経った今でも、良好なコンディションだという事。最近建てられた家などは、完成2,3年で、どこかおかしくなってくるというのに。昔の技術者の誇りと意地は、早く、安く、適当に、の現在の態度と大幅に違うのです。

ロンドンの地下鉄エンバンクメント駅のすぐそばに、ジョーゼフ・バズルジェトの記念碑があります。彼の胸像の上に書かれたラテン語は、"Flumini Vincula Posuit"、「彼は、川に鎖をかけた」というような意味だそうです。川を汚染から救ったという事でしょう。彼の記念碑の後ろには、臭くも、汚くもなくなったテムズ川が、どんぶらこっこと流れています。

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