ハンプトン・コート宮殿
ロンドンのウォータールー駅から、電車で約30分、テムズ川沿いにあるハンプトン・コート宮殿(Hampton Court Palace)。一応はロンドンのゾーン6圏内に位置するのですが、地下鉄でなく、電車に乗るとなると、それだけで、気分的に、ちょっと遠出。
今年の5月の終わりに、このハンプトン・コート宮殿を訪れました。これは私には、2度目の訪問となります。最初にここを訪れたのは、30年近く前で、記憶に残っていたのは、チューダー朝に建てられた正面のゲイト・タワーの様子と、広大な庭に植えられている巨大キノコの様な木の形のみ。内部の様子は、ほとんど頭から吹き飛んでいました。
ここで、ハンプトン・コート宮殿の歴史をざっとまとめると・・・
まず、この地にあっ中世のマナーハウスを、1515年に、大々的に改築したのは、ヘンリー8世時代の、聖職者、政治家であったトマス・ウルジー枢機卿(Thomas Wolsey)。当時、高価でお洒落であったレンガが使用されています。彼の最盛期には国内で、王の次に重要な人物であったので、贅を極め、海外からの大切な客を接待し、数々の催しも開かれ、ヘンリー8世も大好きな邸宅となり、妻キャサリン・オブ・アラゴンと共に良く訪れたのです。が、アン・ブリンに惚れてしまい、キャサリン・オブ・アラゴンをやっかい払いしたくなったヘンリー8世。キャサリンとの結婚の無効をローマ教皇から取り付けることができなかったウルジーは、王の怒りを買うのを恐れ、ハンプトン・コートをヘンリーに献上。それでも、ウルジー、最終的に没落してしまうのですが。
こうして、ハンプトン・コートは50以上もあちこちに宮殿を有したヘンリーのお気に入りの場となります。ヘンリーは、ウルジーの建物に更なる増築を行い、新妻と、この宮殿で楽しいひと時をすごす・・・のもつかの間、世継ぎとなる男児を産む気配のないアン・ブリンはやがて処刑。ヘンリー8世の3番目の妻ジェーン・シーモアとの子供、エドワード6世は、この宮殿で生まれ、ジェーン・シーモアは、出産後すぐ、やはりここで死亡。4番目の妻、アン・オブ・クリーブからの離婚のサインをしたのも、5番目の妻キャサリン・ハワード、6番目で最後の妻キャサリン・パーと結婚したのもここ。アン・ブリン同様、斬首刑にあったキャサリン・ハワードは、浮気の罪で、しばらく、当宮殿内で尋問を受け、軟禁され、やがて、この宮殿からテムズ川を渡る船でロンドン塔へと、処刑されるべくどんぶらこ。
チューダー朝の後、しばらく、見放され、古びてきた感じであったハンプトン・コートですが、名誉革命で、オランダからやって来た王様ウィリアム3世の時代、ウィリアムは、ケンジントン宮殿同様、クリストファー・レンを雇い、古い宮殿の一部を取り壊し、自分たちの居住に相応しい新し建物を増設。当初の予定では、ウィリアムは、チューダー朝の建物を全部打ちこわし、丸々新しい宮殿を建てる予定であったのが、金欠で、一部だけとなります。これが、逆に幸いして、観光客は、現在、チューダー時代のヘンリー8世のハンプトン・コート宮殿と、ウィリアムが建てたバロックのハンプトン・コート宮殿の2つの顔が楽しめるわけです。ウィリアム3世は、愛妻メアリー2世が死んでしまった後は、意気消沈。ハンプトン・コートの庭園内で落馬し、ケンジントン宮殿にて息を引き取ります。
ジョージ王朝になってから、セレモニーなどが大好きであった、ジョージ2世と、妻キャロライン女王が、また少々宮殿に手を加えていますが、世継ぎのジョージ3世は、ハンプトン・コート宮殿を嫌い、居住しなくなり、以後、王家の館としての使用は止まります。やがて、ヴィクトリア女王が、ハンプトン・コート宮殿の庭園と、ステート・アパートメントを、一般公開はじめたことから、イギリスの一大観光地のひとつとして、現在に至っています。
チューダー朝建物の内部では、当時の衣装を来た人たちが、歩いているのに出くわします。この人たち皆、役になり切っていて、廊下をすれ違った時、道を聞いたりしても、昔の宮廷人風に答えてくれました。ちょっとした王室のドラマなどを見せる余興もあり、最初はこれを見ていたのですが(上の写真)、時間が40分とわりと長いもので、他を見る時間がなくなると、途中で、こっそり抜け出しました。
ヘンリー8世のグレート・ホール(大広間)。ヘンリーが、アン・ブリンのために3年かけて改築したもの。仲睦まじかったころの二人は、ここで笑い興じてダンスなどもおどっていたのです。ハマービームと称される木製の天井は、ウェストミンスター宮殿(現国会議事堂)内にある、14世紀に遡るウェストミンスター・ホールの影響を受けています。壁にかかるタペストリーは、聖書からのアブラハムの物語を描写したもので、金糸が組み込まれ、今は少々色が薄れているものの、かつては大変鮮やかで、当時、軍船が一隻買えるのと同じ金額であったそうです。また、このホールでは、1603年のクリスマスから、1604年の新年にかけ、シェークスピアの劇団が、ジェームズ1世の前でパフォーマンスをしています。
大広間で、王様女王様になったつもりで特等席に座っている観光客もいました。
グレート・ホールの隣にあるのは、3番目の妻、ジェーン・シーモアのためにヘンリーが作ったグレート・ウォッチング・チェンバー。豪華天井には、ジェーンの紋章も見られます。男児出産の2週間後に死亡したジェーン・シーモアの心臓と肝臓は、宮殿内のロイヤル・チャペル(ここは内部写真撮影不可)の聖壇に収められているという話です。また、この部屋で、5番目の妻、キャサリン・ハワードは死の宣告を受けています。このため、ハンプトン・コートでは、夜中、慈悲を求めて泣き叫びながら、廊下を走るキャサリン・ハワードのお化けがでるのだそうです。
グレート・ホールに運ばれてくるご馳走を大量に調理していたのは、大規模なチューダー・キッチン。現存する16世紀の台所で最大のもの。最低600人の宮廷内の人物に、日に2回食事を出すことができるように作られており、労力はもちろん、これだけの人間を食べさせるには、かなりお金もかかったでしょう。
巨大暖炉では、豚などの動物の丸焼きがいくつも、ローストされていたのですが、肉がこげないように、ローストが串刺しされている鉄棒を回し続ける必要があり、それでなくても、むんむんと熱い台所で、火の近くで、これを回し続けるのは、かなり重労働。宮廷に働く人間には、毎日約4.5リットル(!)のビールの配給があったそうですが、この係りの人物は、汗をどっぷりかくため、無制限のピールを飲むことができたのだとか。お試しで、観光客のひとりが、これを、くるくる回していました。
さて、チューダー時代から、ウィリアム3世の時代の建物へ移動。各部屋に王座が置かれてあり、たとえ、そこに王が座っていなくとも、宮廷人は、王座にむかってお辞儀をするのがしきたりであったそうです。
部屋の片側は、廊下が走り、奥へ行けば行くほど、アクセスが限られていき、最後の方の王の寝室などへのアクセスは、ごく一握りの信頼を受ける人間のみ。
こちら、ウィリアム3世が使用したという携帯トイレ。座る部分は、お尻にやさしいベルベットでできているんですが、ちょっと触りたくないなー。王様たるもの、おトイレタイムもひとりではなく、用を足した後、おしりを拭くための布を持って待機する係りのものがいたのだといいます。臭い事もあったでしょうが、これぞ、王と親密になれるチャンスの大きな仕事。
ジョージ2世の時代に、ウィリアム3世の宮殿に少し手が入れられていますが、妃であったキャロライン女王の影響が強く出ているそうです。
キャロライン女王、当時の人にしてはめづらしく、お風呂が非常に好きであったとかで、昔の日本のふろおけみたいなものもありました。ジョージ2世と彼女は、仲睦まじい夫婦であったものの、王が、次々と妾を取り始めると、キャロライン女王は、悲しさからか、チョコレートを含め、色々と甘いものに走り、かなり太ってしまうのです。
キャロライン女王も愛したチョコレート(当時はドリンク)が作られていた、ジョージ王朝時代のチョコレート・キッチンなるものも見れます。
さて、宮殿内から外へ出ると、
そうそう、このキノコのように刈り込まれた木は、前回の訪問から覚えていました。
16世紀に遡る室内テニスコート。
昔のテニスは、壁などを利用してもいいことから、どちらかというとスカッシュのような感じもあります。ヘンリー8世も若かりし頃は盛んに、ゲームに興じたそうです。
カフェで買ったサンドイッチとドリンクを、フォーマルなプリヴィー・ガーデンのベンチで食べました。1702年にデザインされた通りに忠実に再現されているガーデンですが、何でも、ウィリアム3世は、この庭園が終了する前に死去してしまい、造園に携わった多くの庭師や技師は、後継者のアン女王から、約束された通りの金額のお金をもらえなかったのだそうです、気の毒に。また、この後すぐに、もっと自然な感じのランドスケープ・ガーデン(風景式庭園)が流行りとなっていき、こうした幾何学的フォーマルなガーデンは、以後、人気がなくなっていきます。
今年は、18世紀ランドスケープ・ガーデンデザイン界のスーパースターであり、1716年生まれのケーパビリティー・ブラウンことランスロット・ブラウンの生誕300周年ですが、1768年に、彼が植えたとされる巨大なブドウの木(Great Vine)を収めた温室もあります。
このブドウの木は、世界で最長のものだそうで、ギネスブックのお墨付き。今でも9月には、甘い黒ぶどうが実を収穫しています。温室内の屋根の内部を覆いつくす、これだけの、うねうねとした枝がひとつの幹から伸びているというのは、やはりすごいものです。
有名なハンプトン・コートのメイズ(Maze 生垣で作った迷路)は、閉館の時間も迫る、一番最後に入りました。係員の人にメイズの入り口までの行き方を教えてもらった際、「グッド・ラック。今日中に、ちゃんと出てこれるといいね。」などと背後から言われました。内部では、フランス人の子供たちが何人も、きゃーきゃー言いながら、同じ場所を行きつ戻りつ、何度も走り回っており、私たちも、多少、何度か道が行き止まりになり、後戻りしたものの、無事、閉館前に脱出。メイズの中で夜を明かすことなく済んで良かったなと。駆け足で、もう一度チューダー朝の部分の館内を見直したあと、
宮殿の正門を出て、
テムズ川を渡り、駅へと向かいました。
とにかく大きいですので、上に挙げた以外にも、見るものは沢山あり、効率良く回らないと、見逃すものもあるかと思います。私たちは、12時半ころに到着して閉館までいましたが、それでも、もう少し時間があればと思いましたので。初めての人は、一日がかりのつもりで行った方が良いかもしれません。
また、カフェは時間帯によっては混みますし、広大な敷地内、数も少ないので、サンドイッチや飲み物を持参して、庭で食べるのもいいかもしれません。
今年の5月の終わりに、このハンプトン・コート宮殿を訪れました。これは私には、2度目の訪問となります。最初にここを訪れたのは、30年近く前で、記憶に残っていたのは、チューダー朝に建てられた正面のゲイト・タワーの様子と、広大な庭に植えられている巨大キノコの様な木の形のみ。内部の様子は、ほとんど頭から吹き飛んでいました。
ここで、ハンプトン・コート宮殿の歴史をざっとまとめると・・・
まず、この地にあっ中世のマナーハウスを、1515年に、大々的に改築したのは、ヘンリー8世時代の、聖職者、政治家であったトマス・ウルジー枢機卿(Thomas Wolsey)。当時、高価でお洒落であったレンガが使用されています。彼の最盛期には国内で、王の次に重要な人物であったので、贅を極め、海外からの大切な客を接待し、数々の催しも開かれ、ヘンリー8世も大好きな邸宅となり、妻キャサリン・オブ・アラゴンと共に良く訪れたのです。が、アン・ブリンに惚れてしまい、キャサリン・オブ・アラゴンをやっかい払いしたくなったヘンリー8世。キャサリンとの結婚の無効をローマ教皇から取り付けることができなかったウルジーは、王の怒りを買うのを恐れ、ハンプトン・コートをヘンリーに献上。それでも、ウルジー、最終的に没落してしまうのですが。
こうして、ハンプトン・コートは50以上もあちこちに宮殿を有したヘンリーのお気に入りの場となります。ヘンリーは、ウルジーの建物に更なる増築を行い、新妻と、この宮殿で楽しいひと時をすごす・・・のもつかの間、世継ぎとなる男児を産む気配のないアン・ブリンはやがて処刑。ヘンリー8世の3番目の妻ジェーン・シーモアとの子供、エドワード6世は、この宮殿で生まれ、ジェーン・シーモアは、出産後すぐ、やはりここで死亡。4番目の妻、アン・オブ・クリーブからの離婚のサインをしたのも、5番目の妻キャサリン・ハワード、6番目で最後の妻キャサリン・パーと結婚したのもここ。アン・ブリン同様、斬首刑にあったキャサリン・ハワードは、浮気の罪で、しばらく、当宮殿内で尋問を受け、軟禁され、やがて、この宮殿からテムズ川を渡る船でロンドン塔へと、処刑されるべくどんぶらこ。
チューダー朝の後、しばらく、見放され、古びてきた感じであったハンプトン・コートですが、名誉革命で、オランダからやって来た王様ウィリアム3世の時代、ウィリアムは、ケンジントン宮殿同様、クリストファー・レンを雇い、古い宮殿の一部を取り壊し、自分たちの居住に相応しい新し建物を増設。当初の予定では、ウィリアムは、チューダー朝の建物を全部打ちこわし、丸々新しい宮殿を建てる予定であったのが、金欠で、一部だけとなります。これが、逆に幸いして、観光客は、現在、チューダー時代のヘンリー8世のハンプトン・コート宮殿と、ウィリアムが建てたバロックのハンプトン・コート宮殿の2つの顔が楽しめるわけです。ウィリアム3世は、愛妻メアリー2世が死んでしまった後は、意気消沈。ハンプトン・コートの庭園内で落馬し、ケンジントン宮殿にて息を引き取ります。
ジョージ王朝になってから、セレモニーなどが大好きであった、ジョージ2世と、妻キャロライン女王が、また少々宮殿に手を加えていますが、世継ぎのジョージ3世は、ハンプトン・コート宮殿を嫌い、居住しなくなり、以後、王家の館としての使用は止まります。やがて、ヴィクトリア女王が、ハンプトン・コート宮殿の庭園と、ステート・アパートメントを、一般公開はじめたことから、イギリスの一大観光地のひとつとして、現在に至っています。
チューダー朝建物の内部では、当時の衣装を来た人たちが、歩いているのに出くわします。この人たち皆、役になり切っていて、廊下をすれ違った時、道を聞いたりしても、昔の宮廷人風に答えてくれました。ちょっとした王室のドラマなどを見せる余興もあり、最初はこれを見ていたのですが(上の写真)、時間が40分とわりと長いもので、他を見る時間がなくなると、途中で、こっそり抜け出しました。
ヘンリー8世のグレート・ホール(大広間)。ヘンリーが、アン・ブリンのために3年かけて改築したもの。仲睦まじかったころの二人は、ここで笑い興じてダンスなどもおどっていたのです。ハマービームと称される木製の天井は、ウェストミンスター宮殿(現国会議事堂)内にある、14世紀に遡るウェストミンスター・ホールの影響を受けています。壁にかかるタペストリーは、聖書からのアブラハムの物語を描写したもので、金糸が組み込まれ、今は少々色が薄れているものの、かつては大変鮮やかで、当時、軍船が一隻買えるのと同じ金額であったそうです。また、このホールでは、1603年のクリスマスから、1604年の新年にかけ、シェークスピアの劇団が、ジェームズ1世の前でパフォーマンスをしています。
大広間で、王様女王様になったつもりで特等席に座っている観光客もいました。
グレート・ホールの隣にあるのは、3番目の妻、ジェーン・シーモアのためにヘンリーが作ったグレート・ウォッチング・チェンバー。豪華天井には、ジェーンの紋章も見られます。男児出産の2週間後に死亡したジェーン・シーモアの心臓と肝臓は、宮殿内のロイヤル・チャペル(ここは内部写真撮影不可)の聖壇に収められているという話です。また、この部屋で、5番目の妻、キャサリン・ハワードは死の宣告を受けています。このため、ハンプトン・コートでは、夜中、慈悲を求めて泣き叫びながら、廊下を走るキャサリン・ハワードのお化けがでるのだそうです。
グレート・ホールに運ばれてくるご馳走を大量に調理していたのは、大規模なチューダー・キッチン。現存する16世紀の台所で最大のもの。最低600人の宮廷内の人物に、日に2回食事を出すことができるように作られており、労力はもちろん、これだけの人間を食べさせるには、かなりお金もかかったでしょう。
巨大暖炉では、豚などの動物の丸焼きがいくつも、ローストされていたのですが、肉がこげないように、ローストが串刺しされている鉄棒を回し続ける必要があり、それでなくても、むんむんと熱い台所で、火の近くで、これを回し続けるのは、かなり重労働。宮廷に働く人間には、毎日約4.5リットル(!)のビールの配給があったそうですが、この係りの人物は、汗をどっぷりかくため、無制限のピールを飲むことができたのだとか。お試しで、観光客のひとりが、これを、くるくる回していました。
さて、チューダー時代から、ウィリアム3世の時代の建物へ移動。各部屋に王座が置かれてあり、たとえ、そこに王が座っていなくとも、宮廷人は、王座にむかってお辞儀をするのがしきたりであったそうです。
部屋の片側は、廊下が走り、奥へ行けば行くほど、アクセスが限られていき、最後の方の王の寝室などへのアクセスは、ごく一握りの信頼を受ける人間のみ。
こちら、ウィリアム3世が使用したという携帯トイレ。座る部分は、お尻にやさしいベルベットでできているんですが、ちょっと触りたくないなー。王様たるもの、おトイレタイムもひとりではなく、用を足した後、おしりを拭くための布を持って待機する係りのものがいたのだといいます。臭い事もあったでしょうが、これぞ、王と親密になれるチャンスの大きな仕事。
ジョージ2世の時代に、ウィリアム3世の宮殿に少し手が入れられていますが、妃であったキャロライン女王の影響が強く出ているそうです。
キャロライン女王、当時の人にしてはめづらしく、お風呂が非常に好きであったとかで、昔の日本のふろおけみたいなものもありました。ジョージ2世と彼女は、仲睦まじい夫婦であったものの、王が、次々と妾を取り始めると、キャロライン女王は、悲しさからか、チョコレートを含め、色々と甘いものに走り、かなり太ってしまうのです。
キャロライン女王も愛したチョコレート(当時はドリンク)が作られていた、ジョージ王朝時代のチョコレート・キッチンなるものも見れます。
さて、宮殿内から外へ出ると、
そうそう、このキノコのように刈り込まれた木は、前回の訪問から覚えていました。
16世紀に遡る室内テニスコート。
昔のテニスは、壁などを利用してもいいことから、どちらかというとスカッシュのような感じもあります。ヘンリー8世も若かりし頃は盛んに、ゲームに興じたそうです。
カフェで買ったサンドイッチとドリンクを、フォーマルなプリヴィー・ガーデンのベンチで食べました。1702年にデザインされた通りに忠実に再現されているガーデンですが、何でも、ウィリアム3世は、この庭園が終了する前に死去してしまい、造園に携わった多くの庭師や技師は、後継者のアン女王から、約束された通りの金額のお金をもらえなかったのだそうです、気の毒に。また、この後すぐに、もっと自然な感じのランドスケープ・ガーデン(風景式庭園)が流行りとなっていき、こうした幾何学的フォーマルなガーデンは、以後、人気がなくなっていきます。
今年は、18世紀ランドスケープ・ガーデンデザイン界のスーパースターであり、1716年生まれのケーパビリティー・ブラウンことランスロット・ブラウンの生誕300周年ですが、1768年に、彼が植えたとされる巨大なブドウの木(Great Vine)を収めた温室もあります。
このブドウの木は、世界で最長のものだそうで、ギネスブックのお墨付き。今でも9月には、甘い黒ぶどうが実を収穫しています。温室内の屋根の内部を覆いつくす、これだけの、うねうねとした枝がひとつの幹から伸びているというのは、やはりすごいものです。
有名なハンプトン・コートのメイズ(Maze 生垣で作った迷路)は、閉館の時間も迫る、一番最後に入りました。係員の人にメイズの入り口までの行き方を教えてもらった際、「グッド・ラック。今日中に、ちゃんと出てこれるといいね。」などと背後から言われました。内部では、フランス人の子供たちが何人も、きゃーきゃー言いながら、同じ場所を行きつ戻りつ、何度も走り回っており、私たちも、多少、何度か道が行き止まりになり、後戻りしたものの、無事、閉館前に脱出。メイズの中で夜を明かすことなく済んで良かったなと。駆け足で、もう一度チューダー朝の部分の館内を見直したあと、
宮殿の正門を出て、
テムズ川を渡り、駅へと向かいました。
とにかく大きいですので、上に挙げた以外にも、見るものは沢山あり、効率良く回らないと、見逃すものもあるかと思います。私たちは、12時半ころに到着して閉館までいましたが、それでも、もう少し時間があればと思いましたので。初めての人は、一日がかりのつもりで行った方が良いかもしれません。
また、カフェは時間帯によっては混みますし、広大な敷地内、数も少ないので、サンドイッチや飲み物を持参して、庭で食べるのもいいかもしれません。
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