チューダー朝レンガの館、レイヤー・マーニー・タワー

Layer Marney Tower
エセックス州レイヤー・マーニー(Layer Marney)にある、レイヤー・マーニー・タワー(Layer Marney Tower)を訪れるのは、これで2回目です。1回目の訪問は、2007年の夏ですので、もう、かれこれ9年前。レイヤー・マーニー・タワーは、15~16世紀にイギリスで建てられたレンガつくりのゲートハウスとして、一番背が高いものとされています。

Layer Marney Tower, 2007
前回の訪問の際は、ゲートハウスの左手に巨木が生えていたのですが、外からゲートハウスがはっきり見えるようにするためか、この木は除去されて無くなっていました。今回の訪問は、周辺に菜の花咲く4月の終わり。

かつてこの地を流れていた小川、レイヤー川から名を取り、周辺の土地は、ただ単にレイヤーと呼ばれていたものを、1066年のノルマン人の征服と共にノルマンディーからやって来たマーニー家は、この辺りに土地を得ると、レイヤーの後に、自分たちの家名をくっつけてレイヤー・マーニーとし。この周辺には、他にも、レイヤー・ブレトン(Layer Breton)、レイヤー・デ・ラ・ヘイ(Layer De La Heye)など、レイヤーの後ろに、それぞれ土地を獲得した、ノルマン人貴族の家名をくっつけた地名が残っています。

このレンガの屋敷が建てられたのは、ヘンリー8世若かりし時代の1520年代前半のことで、時のマーニー家頭首、ヘンリー・マーニーによるもの。ヘンリー・マーニーはヘンリー8世の重臣で、1520年には、贅をつくし、カレー付近の平原で執り行われた、ヘンリー8世と、フランスのフランソワ1世との会合(The Field of the Closs of Gold 金襴の陣 )にも参加しています。この頃は、まだヘンリー8世の離婚騒動は始まっておらず、よって、イングランドはまだローマ法王との関係が強いカトリックの国。

イタリア・ルネサンスの影響も手伝い、イタリア風の建物などが、王侯貴族の間でファッショナブルとなってきた時代です。ヘンリー・マーニーもそんなこんなで、館のところどころに、テラコッタを使用したイタリア風のモチーフをほどこしています。当時は、テラコッタと言えば、イタリアでしたから。上の写真は、塔のてっぺんのテラコッタ製ドルフィンの装飾。この辺りは、石が切り出せない地質のため、石が貴重にして高価であったので、レイヤー・マーニー・タワーのテラコッタは、石にも見える薄めの色で仕上げられています。

レイヤー・マーニー・タワーが建てられてから、時が経ち、ヘンリー8世が、アン・ブリンとの結婚のためローマと決別して、イギリス国教会が設立されると、今度は、イタリア風のものを館に反映させたりするのは、ファッショナブルどころか、「あいつは、法王派の、カソリックじゃないか?」と疑いの眼で見られたりするので、ご法度となっていくのですが。

レンガの建物というと、中世初期の時代までは、ローマ時代の建物の廃材レンガをリサイクルして作られたものがほとんどでしたが、15世紀中ごろから、徐々に、新しいレンガを焼いて作る事も行われるようになっていきます。上述したように、エセックス州は、大々的な建物建設のための石を切り出せる地形ではない上、土壌は、クレー(粘土)層であることが多いため、レンガ作りには適していたわけです。この頃は、大体の場合が、粘土は、建設される建物の近くで掘り出されていたようで、レイヤー・マーニー・タワーの敷地内にある池が、館建設のための粘土を掘り起こした跡地ではないかという話です。

この池では、孵ったばかりの、クート(coot)という水鳥のひなが、ボール球のような姿で泳いでいました。上の写真ですが、ちょっと見にくいですかね・・・。上部やや左の赤い丸が、ひなの頭です。

ヘンリー・マーニーは、館の完成を見ずに、建設が始まって間もなくの1523年に亡くなってしまいます。建設をつづけた息子のジョン・マーニーも、その2年後の1525年に、男児の相続人を残さず死亡し、マーニーのお家はここで途切れ、館は、やはりヘンリー8世のもとで使えたブライアン・チューク(Brian Tuke)の手に渡ります。チューク家所有の間に、家臣の館にお泊りするのが大好きだったエリザベス1世も訪れ、この塔内のどこかの部屋に宿泊したそうです。その後、いくつかの家族の手を経て、現在の家族の所有となったのが1958年。

現段階では、入場料は7ポンド。チケット売り場のある、屋敷の入り口へと向かうドライブ(私道)のわきの平原では、風変わりな、茶色っぽい毛色の羊たちがくつろいでいました。

生まれたばかりの茶色の子羊も、大きな木の根のそばに横になって、ちょっとしたカモフラージュ。

レイヤー・マーニー・タワーの見どころは、塔の頂上からの眺め。ゲートハウスの中心の入り口ホールから中へ入り、

くるくると階段を上ってルーフテラスへ。

他の建物は、地平線まで、ほとんど目に入りません。

ノット・ガーデンのパターンも上からだと良く見えます。

こちらは、9年前の夏に、やはりルーフ・テラスから取ったもの。小麦の収穫などが始まっていて、景色の色は緑と茶色が混ざり合っていました。

イギリスは、地震は非常に少ない国ですが、1886年に、この周辺で比較的大きな地震があり、レイヤー・マーニー・タワーも、かなりの被害を被っています。こういった手の込んだ感じのツイストした煙突なども、くずれ落ちたのかもしれません。いずれにしても、きれいに再生されています。

前回訪れたときには、まだまだ、館の内部は改造進行中の感じで、雑然としていましたが、今回は、多少、前来た時よりも綺麗になっていました。と言っても、まだまだ向上の余地ありですが。まあ、普通の家の修理でも、多額がかかるので、このスケールのものは、金も時間もたっぷりかかってしまう事でしょう。歴史的建築物なので、政府から多少の援助金は出るようですが。一般公開の入場料の他に、結婚式のべニューとしての貸し出しもしています。

ゲートハウスの南側にあるロング・ギャラリーと称される建物は、以前は厩であったそうです。前回来た時は、結婚式の準備のため入れなかったと記憶しています。

夏は、ロング・ギャラリーの南壁に面した花壇もカラフルで綺麗でした。

前回の訪問では、噴水などのそばには、ラベンダーの紫も咲いており。

敷地内には、にわとり、やぎ、羊などを飼う納屋もあり、納屋は、敷地内で一番古く、ゲートハウスより前に建てられたものであるそうです。3月中旬に生まれたという子羊たちが、お腹をすかせて「めーめー」と鳴いており、近づくとミルクをくれるのかと、大挙して近づいて来ました。その鳴き声が、本当に、まるで、誰かがふざけて羊の真似をしているように、「めー、めー」だったのが、可笑しかったです。花壇の花やラベンダーは、今回の訪問では見れなかったものの、季節柄、池のクートの雛や、こうした子羊たちを目撃し、それぞれの季節、それぞれの味はあるのです。

敷地内南部にある、レイヤー・マーニーの教会は、ノルマン時代に建てられた教会を壊して、館と同じ時期に建設されていますから、屋敷とマッチした外観。。一般人が使用していた南側にある正面入り口の他に、屋敷のある北側にも入り口があり、お屋敷の住人たちは、一般人とは別に北側から入っていたようです。

館の創始者、ヘンリー・マーニーの記念碑も、イタリア風テラコッタで作られています。この記念碑は、ミケランジェロの鼻をパンチして砕いたことで知られ、ウェストミンスター寺院内のヘンリー7世の記念碑を作成した、ピエトロ・トリジャーノ(Pietro Torrigiano)などの、イタリアの職人が作ったものという噂があるものの、実際のところは、こうしたイタリア職人から技をならった、イギリス職人によるものである可能性の方が高いようです。

ロンドン内の館で死亡したヘンリー・マーニーの死体は、大々的な葬儀の行列を従えて、ロンドンから、エセックスの村々を通過し、はるばるレイヤー・マーニーまで運ばれて来たのだそうです。

さて、レイヤー・マーニー・タワー内のカフェで一服した後、ジャム工場で名の知れた近郊の村チップトリー方面へ向かいハイキングをしました。振り返ると、菜の花畑のむこうにレンガの塔が、かなり長い間見えていました。

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