プロテスタントの娼婦、ネル・グウィン

Let not poor Nelly starve.
可愛そうなネリーが、ひもじい思いをしないようにしてやってくれ。

これは、死の床の中で、チャールズ2世が、弟(後のジェームズ2世)に告げた言葉とされています。チャールズ2世が、自分の死後の行く末を気にかけたネリーは、チャールズ2世の数ある妾たちの中でも、おそらく一番有名な、ネル・グウィン。

エレノア(ネル)・グウィン、(Eleanor / Nell Gwyn)は、貧しい家庭に生まれたため、正確な生年月日と誕生の地、更には父親が誰であったのかも定かではないようですが、おそらく1651年の誕生とされています。幼少の頃の記録もおぼろげで、わかっているのは、1663年あたりから、ロンドンのキングス・シアターで、オレンジ・ガール(劇場の観客にオレンジを販売する女性)として働いていたこと。今では、劇場で販売される食べ物はアイスクリームが定番ですが、昔は、オレンジだったんですね。

時代は、ネル・グウィンの頃より後になりますが、ウィリアム・ホガースによる1733年の「The Laughing Audience、笑う観客」という、劇場内の様子を描いた版画があり、その中には、オレンジ・ガール達も描かれています。ネル・グウィンも、こういう感じで働いていたのでしょうか。オレンジ売り子を始めてから約1年後には、舞台に登場し、女優としてデビュー。著名な俳優であり、ネルと愛人関係にあったと言われるチャールズ・ハートにより、舞台に紹介されたという話。

シェイクスピアの時代などは、女性の役も男性がやるのが常であったわけですが、この頃から、女性が舞台に登場し始め、ネル・グウィンはそういった意味で、女優というものの先駆者のひとりであったわけです。ロンドン大火などを記録した、日記作家のサミュエル・ピープスは、綺麗な女性を眺めるのが好きなすけべおじさんであった事でも知られている感じですが、彼も、この新しい現象である、本物の女性が女役をやる、というのを見るため、劇場によく足を運んだようで、当然、ネル・グウィンにも注目するようになります。ピープスによると、「可愛く、機知に富んだネル」(Pretty Witty Nell)は、喜劇に登場すると圧巻であるが、悲劇はいまひとつ・・・であったようです。折しも、レストレーション・コメディー(王政復古時代の喜劇)と称される、女性が男装、男性が女装をする性別の勘違いなどが筋に組み込まれている事が多い、数々のどたばた喜劇が書かれ、お祭り騒ぎや、芝居、楽しいことが禁止されていたオリバー・クロムウェルの共和制時代から、解き放たれたように、巷文化に花の咲いた、ネルの様な女性には絶好の時代。

さて、ネルは、一時的に、貴族チャールズ・サックヴィルの愛人となったものの、破たん後再び舞台に戻り、やがては、チャールズ2世の愛人に。1671年に、著名劇作家ジョン・ドライデン(John Dryden)の「グラナダの征服、The Conquest of Granada」への出演を最後に、舞台を去り、王の愛人として、セント・ジェームズ・パークを望む、パル・マルに豪華な屋敷をあてがわれ、そこへ移り住みます。

貧しい家系の出であったため、宮廷の中では、ネルを卑下する人物も存在したようですが、ネルはネルで、お上品面をする人物たちに、わざと、大っぴらで衝撃的な言動をとって、更にショックを与えたり、苛立たせるのを楽しんだ趣もあります。他の妾達に比べ、権力や金銭的野心が少なく、正直で、あっけらかんとしたネルの性格を、王は特に気に入り、また、友人への情も厚く、庶民受けも良かったようです。教育を受けていないため、字は書けなかったようですが、機転にも富み。王は、ネルの顔や色気もさることながら、リラックスでき、一緒にいて楽しかった・・・というのが寵愛の一番の理由のようです。

妃であるポルトガル王室出身のキャサリン(Catherine of Braganza、キャサリン・オブ・ブラガンザ)との間には、子供ができなかったものの、チャールズ2世は、妾を沢山取ったため、私生児は沢山。ですから、イギリスの人口の半分に、チャールズ2世の血が流れているなどという冗談も出てくるのです。ネルとの間にも2人の男の子を設けており(次男は早くに死去)、現イギリス首相デイヴィッド・キャメロンの奥さんサマンサ・キャメロンも、ご先祖をたどると、ネル・グウィンとチャールズ2世に行き当たるという話です。そう言われてみると、面長のサマンサ・キャメロンとネル・グウィン、なんとなく似ているように見えてくる・・・。往々にして、政略結婚の正式な王夫婦間に生まれた子供よりも、妾に産ませた子供の方が美しく頭もいい・・・なんて事多いです。王族同士の結婚は、血縁だったりすることもあり、遺伝子の幅が狭く、スペインのハプスブルグ家なども、劣性遺伝の蓄積で、奇形を出してしまったりしていたわけですから。

チャールズ2世の妾達の中で、ネルの他にも、よく名の知れた女性は、まず野心的でわがまま、ヒステリーだったと言う、バーバラ・ヴィリヤーズですが、彼女は、ネル・グウィンが王の妾になった頃には、少々年で、ネルの出現にかなり嫉妬したものの、その後すぐお祓い箱。王の愛情をめぐって、ネルの本格的ライバルとなるのは、フランス貴族でカトリックのルイーズ・ケルアイユ。カトリックの一味が、イギリスの政権を脅かそうとしているという噂がはびこるなか、ルイーズが、一般に不人気であった事を心得ていたネルは、ルイーズのお澄ましぶりを、冷やかしたり、コケにしたりすることも多々。有名なエピソードに、ネルが、オックスフォードの街を王家の紋章のついた馬車で通っていた時、馬車に乗っているのがルイーズ・ケルアイユだと勘違いし、罵りを上げる人民たちのただ中、ネルは馬車の窓から顔を出し、

Pray good people be silent, I am the Protestant whore.
「ねえ、皆、落ち着いて、ほら、私は、プロテスタントの娼婦よ。」
と挨拶し、群衆から、やんやの喝さいを浴びた、というものがあります。

この話の信憑性はともかく、当時の諧謔紙などで、ネル・グウィンを指して、「the Protestant whore、プロテスタントの娼婦」と描写するものがよくあったようです。

カトリックに改宗したチャールズ2世の弟ジェームズが、王座につかないような工作をする政略に、ネルも陰で加わっていた、という噂もあるものの、ジェームズは、チャールズ2世の「Let not poor Nelly starve.」の病床での依頼に忠実に、1685年2月のチャールズの死後も、ネルを経済的に援助。ネルは、パル・マルの館で1687年11月に、約36歳という若さで死亡。現トラファルガー広場のわきのセント・マーティン・イン・ザ・フィールド教会(St Martin in the Fields)に埋葬されます。死後の遺産の一部を、慈善などにも残し、これでもまた、他の妾達と比べ、太っ腹で、心広い女性のイメージを後世に残すのに役立っています。

ということで、ロンドンのウェスト・エンドで「ネル・グウィン」という芝居がかかっており、なかなか評が良かったので見に行ってきました。

オレンジの売り子から、働いていた劇場でチャールズ・ハートに見込まれ、女優としてデヴュー、そのあけっぴろげで正直、明るい性格が王に気に入られ、妾となり、王の死後、再び舞台に戻るまでの様子を描いています。

お色気ジョークが沢山あり、史実とは、色々、違うところは、当然ありますが、楽しめました。ジョン・ドライデンが、劇場付属の作家として登場していますが、今ひとつ、オリジナリティに欠けた、苦心しながら劇作を行う作家として描かれていて、いつも、シェークスピアの作品からアイデアを頂いている風に描かれており、これは、ちょっと気の毒でした。ライバル劇場に客を取られ、話題性をもりあげるための、苦肉の策として、コベントリーの街を裸で馬に乗って闊歩したという伝説のレディー・ゴダイヴァを主人公にした劇を書き、ネルを裸で登場させよう、などというアイデアを出したりもし。

チャールズ2世は、愛人の他に、スパニエル種の犬、キング・チャールズ・スパニエルをこよなく愛し、沢山飼っていた事でも知られますが、キング・チャールズ・スパニエルも一匹舞台に登場し、犬好きのイギリス人観客の間から「あら、可愛い」ってな感じで、「うー、あー」とため息の声があがっていました。

バーバラ・ヴィリヤーズやルイーズ・ケルアイユも、その短所を誇張し、漫画のようなキャラクターとして描写されて登場。彼女らを主人公にした劇、というのはちょっと想像できないところからも、現在に至るまで、人物としてのネル・グウィンの魅力と、根強い人気が察せます。

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