ダーウィンの楽しい我が家、ダウン・ハウス
進化論なるものを世に発表した「種の起源」(On the Origin of Species)の著者、チャールズ・ダーウィン(1809~1882年)が、その半生を大家族と過ごした田舎家が、ケント州ダウン村(Downe)にあるダウン・ハウス(Down House)。「種の起源」も、この家で書かれています。田舎・・・などと言っても、ロンドンのゾーン内ですので、ロンドン内の乗り物パスであるオイスターカードで行ける圏内です。オーピントン(Orpington)、またはブロムリー・サウス(Bromley South)駅から、それぞれ、バスで、20分ほど。
チャールズ・ダーウィンは、父方の祖父に、自然哲学者エラスマス・ダーウィン、母方の祖父に陶器ウェッジウッドの創始者ジョサイア・ウェッジウッドを持ちます。彼の妻となるエマ・ウェッジウッドは、いとこにあたり、彼女の父方の祖父が、やはりジョサイア・ウェッジウッドです。ダーウィン家もウェッジウッド家も、裕福でありながら、リベラルで、インテリ、奴隷制度に大反対を唱えていた家風です。
エマと結婚する前に、ダーウィンは、結婚すべきか否かをきめるために、結婚に関して良い事と悪い事のリストを作ったとされます。良いことは、「生涯の伴侶ができる」などを挙げ、悪い事は、「自由な時間と、本に使用できる金銭が少なくなる」などを挙げたようですが、最終的に「生涯の伴侶」という魅力が勝ったようです。これは、良い決断となり、幸せな結婚生活で、生まれた子供の数は計10人(うち3人は幼くして死亡)。幼い時、病気がちな子が多かった事に関し、また最愛の娘アニーを10歳で亡くした事に関して、ダーウィンは、いとこと同士の結婚という血の近さのためではないかと気にしていたそうです。私が、一緒にここを訪問した友人は、同僚の一人が、ダーウィンの子孫だと言うのですが、これだけ子だくさんだったので、子孫も沢山いるでしょうね。
結婚後、二人は、ロンドンの大英博物館に近いガワーストリートに居を構えたものの、もっと静かな田舎家を求め、ロンドン郊外のダウンにて、当館を購入。ダーウィンは、当時、ダウン・ハウスを「古くて醜い家」と称したそうですが、たたずまいが気に入り、1842年に引っ越し、徐々に家族のニーズに合わせて改造と増築を行い、1882年に亡くなるまでの、40年間をダウン・ハウスで過ごすことなります。
色々、各地で貴族の館などを訪ね歩きましたが、ここはあくまで、大型ではあるものの、ヴィクトリア朝の裕福な家族が住む「楽しい我が家」という感が強く、きらびやかさ、豪華さより、家族にとっての居心地の良さ、ひいては、科学者としてのダーウィンが研究にうちこめる落ち着いた雰囲気が漂う場所です。
庭に面する、ゆったりとしたダーウィンの書斎は、本当に何時間も物事に没頭できる感じで、うらやましい限り。ダーウィンは、かなりの手紙魔で、一説によると、1日10枚書いたという話もあります。世界各国の自然観測者、収集家と手紙でやり取りをし、ネットワークを広げ、インターネットが無かった時代、こうしたまめな手紙で、世界中の情報や標本を集めたそうです。たまたま、昨日、テレビで、ポルトガル領マデイラ諸島の自然に関するドキュメンタリーをやっていたのですが、その番組内で、ダーウィンは、「種の起源」の中で、マデイラ諸島については、自分で実際に訪れたガラパゴス諸島よりも頻繁に触れているのだ、という話をしていました。というのも、マデイラ諸島に住んでいた収集家と親しく、彼との手紙のやり取りにより、島という隔離された環境の中で、その場に適した独自の特徴を持って進化する動植物に関する情報や標本が入りやすかったからだとか。
庭も、子供たちが駆け回ったり遊んだりできる芝生の部分、エマがお花を育てられる花壇や菜園など、あくまで、広い家族の庭で、これは綺麗と目を見張るような美しい庭園ではありません。
また、ダーウィンにとっては、庭も、貴重な研究場所で、庭の散歩をしながら、多くの植物昆虫の観察を行い、人生の最後に書かれたみみずに関する著も、この庭での研究観察の蓄積です。この本に関しては、過去の記事「ダーウィンとみみず」を参照ください。
温室には、ランや食虫植物のコレクションがあり、こちらも、ダーウィンにとっては研究室となります。
庭のむこうには、ケントの田園風景が広がっていました。
ダーウィンは、当館の寝室で亡くなるのですが、この寝室のベッドの片側には、2,3段の小さな階段のようなものが備え付けてありました。年を取ってきてから、よっこらしょとベッドにもぐりこむのが大変だったのでしょうか。ちなみに、館内は写真禁止であったため、内部の写真はありません。
エマと子供たちに看取られての死で、これも、「結婚する決断をして、良かったね」というやつです。ただし、本人は、ダウンの教会の墓地に埋葬される事を望んでいたようですが、彼の科学者仲間や友達が、そうは問屋が卸さない、とウェストミンスター寺院に埋葬となります。
さて、ダウン・ハウスへと行くバスは、ダウン・ハウスのすぐ前で止まるものも、ダウン村の教会の前で止まるものもありますが、行も帰りも、ダウン村から乗り降りしました。ついでに教会の内部も見学して。ここからダウン・ハウスまでは、徒歩10分もあれば着きます。
ちなみに、ダウンという村の名前は、北アイルランドに存在するカウンティー・ダウン(County Down)と区別するために、1850年代から、最後に「E」をつけて綴るようになりますが、家の名前ダウン・ハウスは、ダーウィンは、その後もずっと「E」をつけないまま綴っており、現在に至っています。
例によって、観光客は、みな、車で行くようで、電車とバスでおっちら観光に来たのは私たちくらい。帰りには、館内のカフェで給仕してくれたおねーさんが、同じバスを使っていましたが、他の観光客はバスにはいませんでした。
ダウン・ハウスの公式サイトは、こちら。
チャールズ・ダーウィンは、父方の祖父に、自然哲学者エラスマス・ダーウィン、母方の祖父に陶器ウェッジウッドの創始者ジョサイア・ウェッジウッドを持ちます。彼の妻となるエマ・ウェッジウッドは、いとこにあたり、彼女の父方の祖父が、やはりジョサイア・ウェッジウッドです。ダーウィン家もウェッジウッド家も、裕福でありながら、リベラルで、インテリ、奴隷制度に大反対を唱えていた家風です。
エマと結婚する前に、ダーウィンは、結婚すべきか否かをきめるために、結婚に関して良い事と悪い事のリストを作ったとされます。良いことは、「生涯の伴侶ができる」などを挙げ、悪い事は、「自由な時間と、本に使用できる金銭が少なくなる」などを挙げたようですが、最終的に「生涯の伴侶」という魅力が勝ったようです。これは、良い決断となり、幸せな結婚生活で、生まれた子供の数は計10人(うち3人は幼くして死亡)。幼い時、病気がちな子が多かった事に関し、また最愛の娘アニーを10歳で亡くした事に関して、ダーウィンは、いとこと同士の結婚という血の近さのためではないかと気にしていたそうです。私が、一緒にここを訪問した友人は、同僚の一人が、ダーウィンの子孫だと言うのですが、これだけ子だくさんだったので、子孫も沢山いるでしょうね。
結婚後、二人は、ロンドンの大英博物館に近いガワーストリートに居を構えたものの、もっと静かな田舎家を求め、ロンドン郊外のダウンにて、当館を購入。ダーウィンは、当時、ダウン・ハウスを「古くて醜い家」と称したそうですが、たたずまいが気に入り、1842年に引っ越し、徐々に家族のニーズに合わせて改造と増築を行い、1882年に亡くなるまでの、40年間をダウン・ハウスで過ごすことなります。
色々、各地で貴族の館などを訪ね歩きましたが、ここはあくまで、大型ではあるものの、ヴィクトリア朝の裕福な家族が住む「楽しい我が家」という感が強く、きらびやかさ、豪華さより、家族にとっての居心地の良さ、ひいては、科学者としてのダーウィンが研究にうちこめる落ち着いた雰囲気が漂う場所です。
庭に面する、ゆったりとしたダーウィンの書斎は、本当に何時間も物事に没頭できる感じで、うらやましい限り。ダーウィンは、かなりの手紙魔で、一説によると、1日10枚書いたという話もあります。世界各国の自然観測者、収集家と手紙でやり取りをし、ネットワークを広げ、インターネットが無かった時代、こうしたまめな手紙で、世界中の情報や標本を集めたそうです。たまたま、昨日、テレビで、ポルトガル領マデイラ諸島の自然に関するドキュメンタリーをやっていたのですが、その番組内で、ダーウィンは、「種の起源」の中で、マデイラ諸島については、自分で実際に訪れたガラパゴス諸島よりも頻繁に触れているのだ、という話をしていました。というのも、マデイラ諸島に住んでいた収集家と親しく、彼との手紙のやり取りにより、島という隔離された環境の中で、その場に適した独自の特徴を持って進化する動植物に関する情報や標本が入りやすかったからだとか。
庭も、子供たちが駆け回ったり遊んだりできる芝生の部分、エマがお花を育てられる花壇や菜園など、あくまで、広い家族の庭で、これは綺麗と目を見張るような美しい庭園ではありません。
また、ダーウィンにとっては、庭も、貴重な研究場所で、庭の散歩をしながら、多くの植物昆虫の観察を行い、人生の最後に書かれたみみずに関する著も、この庭での研究観察の蓄積です。この本に関しては、過去の記事「ダーウィンとみみず」を参照ください。
温室には、ランや食虫植物のコレクションがあり、こちらも、ダーウィンにとっては研究室となります。
庭のむこうには、ケントの田園風景が広がっていました。
ダーウィンは、当館の寝室で亡くなるのですが、この寝室のベッドの片側には、2,3段の小さな階段のようなものが備え付けてありました。年を取ってきてから、よっこらしょとベッドにもぐりこむのが大変だったのでしょうか。ちなみに、館内は写真禁止であったため、内部の写真はありません。
エマと子供たちに看取られての死で、これも、「結婚する決断をして、良かったね」というやつです。ただし、本人は、ダウンの教会の墓地に埋葬される事を望んでいたようですが、彼の科学者仲間や友達が、そうは問屋が卸さない、とウェストミンスター寺院に埋葬となります。
さて、ダウン・ハウスへと行くバスは、ダウン・ハウスのすぐ前で止まるものも、ダウン村の教会の前で止まるものもありますが、行も帰りも、ダウン村から乗り降りしました。ついでに教会の内部も見学して。ここからダウン・ハウスまでは、徒歩10分もあれば着きます。
ちなみに、ダウンという村の名前は、北アイルランドに存在するカウンティー・ダウン(County Down)と区別するために、1850年代から、最後に「E」をつけて綴るようになりますが、家の名前ダウン・ハウスは、ダーウィンは、その後もずっと「E」をつけないまま綴っており、現在に至っています。
例によって、観光客は、みな、車で行くようで、電車とバスでおっちら観光に来たのは私たちくらい。帰りには、館内のカフェで給仕してくれたおねーさんが、同じバスを使っていましたが、他の観光客はバスにはいませんでした。
ダウン・ハウスの公式サイトは、こちら。
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