エリザベス・シダル
ジョン・エヴェレット・ミレーの「オフェリア」部分 |
リジー(Lizzie)、ことエリザベス・シダル(Elizabeth Siddal)。19世紀後半、ヴィクトリア朝イギリス絵画界に旋風を巻き起こしたラファエル前派のモデルであり、そして、ラファエル前派の中心核の一人、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妻ともなった人物です。
彼女のモデル歴の中で、最も有名な絵が、ジョン・エヴェレット・ミレーによるオフェーリアでしょう。ロンドンのテート・ブリテン美術館蔵のこの絵は、いまだに当美術館での一番人気で、絵葉書の売り上げもナンバー1であるという話です。ついでながら、この絵は、夏目漱石の「草枕」の中で、何度か言及されますが、漱石は、ロンドンへ留学しているので、この絵を実際に見た、最初の日本人の一人かもしれません。
デヴェレルの「十二夜」の下絵、リジーのヴィオラは左手 |
ナイフ職人の娘としてロンドンで生まれたエリザベス・シダル。もともと彼女自身、アートや詩に興味があったようです。やせ型のすらりとした彼女は、アメリカ出身の画家であり、ラファエル前派のメンバーとも関係が深かったウォルター・デヴェレル(Walter Howell Deverell)に見出され、彼女のモデルとしてのデヴューは、デヴェレルがシェークスピアの「Twelfth Night」(十二夜)の一シーンを描いた1850年の絵。男装をしているヴィオラとして描かれています。デヴェレルは、この作品の4年後に、若くして病死。
この後、彼女は、ウィリアム・ホルマン・ハントの「A Converted British Family Sheltering a Christian Priest from the Persecution of the Druids」(1850)という長たらしい名前の絵や、 シェークスピアの「ヴェローナの二紳士」を基にした「Valentine rescuing Sylvia from Proteus」(1851)、そして、やはりシェークスピアの「ハムレット」で、川に身を投げ、重いドレスに川底へ引きずられて死にゆくオフェリアを描いた、ジョン・エヴェレット・ミレーの「Ophelia」(オフェリア、1852年)などに、モデルとして登場。
「オフェリア」全体 |
さて、この「オフェリア」ですが、ミレーは、周りの自然は、サリー州の田舎の風景を実際に描きますが、溺れていくオフェリアは、リジーに、水をはった風呂おけの中に横たわってもらって描くという事をします。この際、水は、モデルがこごえないよう、風呂おけの下に、ろうそくをいくつか立てて、多少温めるという手段を取ったのですが、いつのまにか、その火が消えてしまい、ミレーは、描くのに夢中で、それに気が付かず、リジーはリジーで、モデルとしての義務感から、段々冷えていく水の中で、我慢してポーズを取り続けます。真面目な人だったのかもしれません。おかげで、大風邪をひいたリジー。父親が怒って、ミレーに、医者代金を全額払ってくれなければ、訴えてやると食ってかかったという逸話が残っています。まあ、彼女の決死のプロ根性のおかげで、エリザベル・シダルと言えば、このオフェリアの絵ですね。彼女の容姿も一番忠実に描かれているといいますし。
エリザベス・シダルによる「Lady AffixingPennant to a Knight's Spear」 |
やがてエリザベス・シダルは、ロセッティから絵の指導を受け、絵を描くようになり、以来、モデル業より、自分で描く方に力をいれます。ロセッティとは、中世の騎士道ロマンスなどのテーマを共に愛し、それなりにお互いの作品を刺激しあったと言いますが、見る限りにおいては、それほど上手い画家ではないですね。画風はやはり、初期のロセッティ風。批評家でありラファエル前派の支持者であったジョン・ラスキンは、彼女の作品をほめていたようですが。
ロセッティとリジーは恋仲になり、彼は、彼女を描いた無数のデッサンを残しています。が、束縛を恐れた彼は、のらりくらりと、結婚になかなか踏み切れず、二人が結婚するのは、知り合ってから10年近く経った1860年の事。
結婚後、彼女は子供を死産。鬱気味となり、当時は、鎮痛剤として至極簡単に入手でき、多用され、中毒者も多かった、アヘンチンキの取りすぎで、1862年に死亡。事故死として記録されるものの、自殺であったとされます。体は比較的弱く、もともと、きまじめというか、鬱の気もあったのでしょうが、そこへ、アヘンチンキの常用で、精神が弱くなっていたのかもしれません。
彼女は、外出から戻ったロセッティによって発見され、発見時には、もう手遅れ。この日、ロセッティは、やはりラファエル前派のモデルであり、軽薄ながらも、もっと肉感的な女性ファニー・コーンフォース(Fanny Cornforth)と浮気していたという説もあります。いずれにせよ、ファニーとの関係は、リジーの死亡前から始まっており、ファニーは、ロセッティは自分と結婚してくれると思い込んでいたようで、ロセッティとリジーの結婚には、かなりのショックを受けたと言います。ファニー・コーンフォースは、大柄の人で、その上、ロセッティと知り合ってから、ますます、むくむくと太っていき、ロセッティは、ふざけて彼女を「象さん」(エレファント)などと呼んでいたと言います。かくなる自分も、若き頃は、ロマンチックな感じの美男子風であったのが、年と共に、太り続けて、デブおじさんと化してゆくのに。
ロセッティがリジーの死後、最後に彼女の姿を、思い出としてキャンパスに残すのが、「Beata Beatrix」(祝福されるビアトリーチェ 1870年)。イタリアは、フィレンツェ出身の詩人、ダンテ・アルギエーリ(1265-1321)が、幼い時から片恋をし、話を交わすこともなく、愛し続けた女性ビアトリーチェが、若くして病死してしまった時、ダンテは嘆き悲しみ、彼女との出会いと、絶えることない思慕、彼女の死などを詩と文章で綴った「新生」という作品を発表。ロセッティは、亡くなったリジーと自分の嘆きを、ビアトリーチェを失ったダンテに置き換え、リジーを死んでしまったビアトリーチェに仕立てた絵を描いています。背景右側には、その姿を見守るダンテ・アルギエーリ、左手に、ビアトリーチェの命の炎を手にする天使。もともと、ロセッティの名前、ダンテ・ゲイブリエルというのは、イタリア人の父親がダンテ・アルギエーリを敬愛する事から息子につけた名前。上部にはフィレンツェのポンテ・ヴェッキオが描かれています。こちらも、ロンドンのテート・ブリテン美術館蔵。
ロセッティによる「エリザベス・シダル」(1855年) |
リジーの死への、罪の意識と嘆きとで、ロセッティは、未発表の自作の詩を集めたノートを、リジーの棺桶に入れて、彼女の遺体と共に、ハイゲイト墓地西地区にあるロセッティ家の墓に埋葬。が、この7年後、詩を発表しようとした際に、このリジーの棺にノートを入れてしまったのを悔やみ、それを取り戻すために、友人に頼んで、棺を掘り上げるという事をしています。本人は、立ち会うに堪えられなかったのか、この時ロンドンから離れていたというのが、また情けない。棺を掘り起こした友人は、「リジーの遺体はそのままで、髪だけはのびており、髪がノートにからみついていた。」と、信ぴょう性が全くない話をしています。余談となりますが、死後にも髪が伸びるという話は以前にも聞いたことはあり、コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア・マルケス著の「愛そのほかの悪霊について」(英語タイトル:Of love and Other Demons)という小説の最後も、死んだ少女の髪が長く伸びていたという描写が非常に印象的でした。
墓掘りまでして取り戻した詩をまとめ発表した詩集は、批評家に叩かれ、神経を病み、不眠症などにも悩まされるロセッティの精神状態を、ますます危ないものにしたようです。
ロセッティは、リジーの死後、ファニーをかこい、しばらく関係を続けますが、次には、友人ウィリアム・モリスの妻ジェーン・モリス(Jane Morris)に無我夢中になり、恋仲になるという浮気者。刹那的で、結婚して女性を幸せにできるタイプではなかったのでしょう。同じラファエル前派の画家、ジョン・エヴェレット・ミレーが、批評家ジョン・ラスキンの夫人であった、エフィー・グレーと、スキャンダルの後、結婚し、幸せ家庭を築くのと対照的に。
次第にロセッティは、リジーがアヘンチンキに溺れていったように、鎮痛剤の抱水クロラール中毒となり、外界との接触を避けるようになっていき、最終的には、健康回復の期待をかけて出かけた、旅先のケント州のバーチントンという村で死去、妻や家族から離れて、その地の教会墓地に埋葬されます。
人間、何が幸不幸になるのか。エリザベス・シドルは、比較的、貧しい家庭に生まれて、画家のモデルとして、魅惑的な芸術の世界に足を踏み入れ、名だたる画家からのサポートを受け、自分の姿が、永久にキャンバスの中に残りながらも、家庭内の不運、浮気者で、気ままなな伴侶などなどの事で、傷心し、自殺する。それでも、この世界に踏み込まずに、自分の好きな事に熱中できるような糧もなく、日々を過ごすのに苦労しながら、人知れずに終わったであろう人生よりは、充実したものであったでしょうに。
う~ん、絵のモチーフと同様に、なかなかヴィクトリアン的にドラマチックですね。
返信削除背景に描いた川を探すドキュメントを日本のテレビで見ました。意外にロンドンに近く、サッと行けそうでしたが、他に見るべき名所も無いので、訪れる事も無いでしょう。
そんなドキュメンタリーをやってたのですか、日本人好みの絵かもしれません。確かに、この川の景色、ミレーなりのこだわりがあったのかもしれませんが、うちの近くの小川のほとりでも似たような場所探せそうです・・・。
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