ハドリー城
「ハドリー城」作成のための油絵スケッチ(1828-29)テート・ブリテン蔵 |
At Hadleigh there is a ruin of a castle which from its situation is a really fine place - it commands a view of the Kent hills, the Nore and North Foreland; looking many miles to sea.
ハドリーには、城の廃墟があり、眺めのたいへん良い場所だ。ケント州の丘、テムズ河口の砂州、ケント州のチョークの岸壁の地などが臨め、景色はその彼方の海へと広がる。
という手紙をしたためています。
この時、彼はエンピツでの廃墟のスケッチ画を描いています。が、この訪問の際のスケッチ画の構図をもとに、実際に、「Hadleigh Castle The mouth of the Thames - morning, after a stormy night、ハドリー城 テムズ河口 嵐の夜の後の朝」と題した、大きなキャンバス画を作成し、発表するのは1829年になってからと、かなり時が経っています。冒頭に載せた絵は、この完成作のため、1828年から29年にかけて作られた、実物大、油絵のスケッチのひとつで、ロンドンのテート・ブリテン美術館にあります。完成作品の方は、イギリス外で最も充実したイギリス絵画のコレクションを持つという、米イェール大学内にある、The Yale Centre for British Art所蔵。
コンスタブルによるハドリー城のエンピツスケッチ 1814年 |
コンスタブルは、1816年にマライアと結婚。ところが、彼女は、1828年11月に、41歳の若さで、結核で死亡。愛妻家であったコンスタブルは悲嘆に暮れ、同年12月に、兄のゴールディングにあてた手紙には、
I shall never feel again as I have felt, the face of the World is totally changed to me.
僕は、もう以前と同じような感覚を持って生きていくことはできないだろう。世界の様相は、僕にとって完全に違うものとなってしまった。
と書かれています。
嵐の後の、少々不穏な雰囲気のこの絵は、これを描いた時のコンスタブルの気分を表すものであったと、よく解釈されています。
さて、コンスタブルが訪れてから、205年後の、ハドリー城跡を見に行ってきました。彼の絵の風景とは、うって変わった、気持ちよく晴れた日でした。この205年の月日の間に、写真右手丸型の南棟は、少々、石が崩れて、残っている壁が少なくなった面持ち、更に、左手の塔(バービカン)に至っては、コンスタブルのスケッチの様子から、かなり姿が変わって、3角形の物体が残るのみです。
ハドリー城が建てられたのは、13世紀に遡ります。ジョン王の忠臣であったヒューバート・デ・バーグ(Hubert de Burgh)が、1215年に、王から、この周辺の土地を与えられ、築城。第一次バロン戦争の際に、ドーバー城を守ったのも、この人です。ジョン王の死後、ジョン王の息子のヘンリー3世の時代初期は、幼き王の代わりに、かなりの権力を持った彼ですが、後の1239年には、ヘンリー3世と仲たがいのため、城と土地を取り上げられてしまい、以後、ハドリー城は、王家の所有となりますが、その後、約100年ほどの間は、王の居住地として使用される事はなかったそうです。
フランスとの百年戦争を開始したエドワード3世は、テムズ川河口というこの城の立つ場所を重要視し、1360年代には、大幅な改築を行い、城自体も、王の気に入りとなるものの、その後の君主たちは、再び、ハドリー城をあまり顧みず、1551年には、土地と共に売却され、その後、城は崩され、その素材も、売却されます。
鉛を溶かすために作られた溶鉱炉 |
城跡では、何人かの人たちが、芝生の上に、ごろんごろんと寝転んだり、風に吹かれながら、テムズ川のむこうの風景を楽しんだりしていました。
リー・オン・シーとハドリー城の間のハイキング路 |
リー・オン・シーは古くから漁村として知られていた場所で、少々その面影を残す、オールド・リーと呼ばれる場所にも足を踏み入れ、ついでに、そのまま、次のチョークウェル(Chalkwell)駅から電車に乗ろうと、更にテムズ川沿いにある歩行者専用道を辿り、河口へ向かい歩きました。
ボートが泥の上に置き去りにされた、引き潮のテムズ川の景色を眺めながら。
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