ハドリー城

「ハドリー城」作成のための油絵スケッチ(1828-29)テート・ブリテン蔵
イギリスの画家、ジョン・コンスタブル(John Constable)が、エセックス州、テムズ川北岸にあるハドリー城(Hadleigh Castle)の廃墟を訪れたのは、ただ一回だけ、今から205年前の、1814年の夏の事です。コンスタブルは、幼馴染であり、後に妻となるマライアに当てて、

At Hadleigh there is a ruin of a castle which from its situation is a really fine place - it commands a view of the Kent hills, the Nore and North Foreland; looking many miles to sea.

ハドリーには、城の廃墟があり、眺めのたいへん良い場所だ。ケント州の丘、テムズ河口の砂州、ケント州のチョークの岸壁の地などが臨め、景色はその彼方の海へと広がる。

という手紙をしたためています。

この時、彼はエンピツでの廃墟のスケッチ画を描いています。が、この訪問の際のスケッチ画の構図をもとに、実際に、「Hadleigh Castle The mouth of the Thames - morning, after a stormy night、ハドリー城 テムズ河口 嵐の夜の後の朝」と題した、大きなキャンバス画を作成し、発表するのは1829年になってからと、かなり時が経っています。冒頭に載せた絵は、この完成作のため、1828年から29年にかけて作られた、実物大、油絵のスケッチのひとつで、ロンドンのテート・ブリテン美術館にあります。完成作品の方は、イギリス外で最も充実したイギリス絵画のコレクションを持つという、米イェール大学内にある、The Yale Centre for British Art所蔵。

コンスタブルによるハドリー城のエンピツスケッチ 1814年
エンピツのスケッチ(ロンドンV&A博物館蔵)は、縦8・3センチ、横11・1センチと、かなり小さいもので、これをもとに、できあがった油絵は、更に右側に構図を伸ばして、テムズ川を挟んだケント州の岸の風景も取り入れています。が、実際に、この場を訪れたのが、一度だけとなると、記憶と想像によるものが大きかったでしょう。

コンスタブルは、1816年にマライアと結婚。ところが、彼女は、1828年11月に、41歳の若さで、結核で死亡。愛妻家であったコンスタブルは悲嘆に暮れ、同年12月に、兄のゴールディングにあてた手紙には、

I shall never feel again as I have felt, the face of the World is totally changed to me.

僕は、もう以前と同じような感覚を持って生きていくことはできないだろう。世界の様相は、僕にとって完全に違うものとなってしまった。

と書かれています。

嵐の後の、少々不穏な雰囲気のこの絵は、これを描いた時のコンスタブルの気分を表すものであったと、よく解釈されています。

さて、コンスタブルが訪れてから、205年後の、ハドリー城跡を見に行ってきました。彼の絵の風景とは、うって変わった、気持ちよく晴れた日でした。この205年の月日の間に、写真右手丸型の南棟は、少々、石が崩れて、残っている壁が少なくなった面持ち、更に、左手の塔(バービカン)に至っては、コンスタブルのスケッチの様子から、かなり姿が変わって、3角形の物体が残るのみです。

ハドリー城が建てられたのは、13世紀に遡ります。ジョン王の忠臣であったヒューバート・デ・バーグ(Hubert de Burgh)が、1215年に、王から、この周辺の土地を与えられ、築城。第一次バロン戦争の際に、ドーバー城を守ったのも、この人です。ジョン王の死後、ジョン王の息子のヘンリー3世の時代初期は、幼き王の代わりに、かなりの権力を持った彼ですが、後の1239年には、ヘンリー3世と仲たがいのため、城と土地を取り上げられてしまい、以後、ハドリー城は、王家の所有となりますが、その後、約100年ほどの間は、王の居住地として使用される事はなかったそうです。

フランスとの百年戦争を開始したエドワード3世は、テムズ川河口というこの城の立つ場所を重要視し、1360年代には、大幅な改築を行い、城自体も、王の気に入りとなるものの、その後の君主たちは、再び、ハドリー城をあまり顧みず、1551年には、土地と共に売却され、その後、城は崩され、その素材も、売却されます。

鉛を溶かすために作られた溶鉱炉
この際に、再使用を目的に、鉛の窓枠を溶かすために作られた、小さな溶鉱炉が、まだ残っていました。残った部分の城は、そのまま朽ちていき、更に、南側の城壁は土砂崩れなどの被害にもあい、消え失せ。現在は、イングリッシュ・ヘリテージという歴史的建造物保護組織により管理されています。

城跡では、何人かの人たちが、芝生の上に、ごろんごろんと寝転んだり、風に吹かれながら、テムズ川のむこうの風景を楽しんだりしていました。

リー・オン・シーとハドリー城の間のハイキング路
私たちは、ロンドンのフェンチャーチ・ストリート(Fenchurch Street)駅より、電車で約45分の、リー・オン・シー(Leigh on Sea)という駅から、えっちらおっちら丘を登って歩いて行き、帰りもまたテムズ川と、それに並行して走る鉄道を片手に見るハイキング路を辿り、リー・オン・シーへ戻りました。

リー・オン・シーは古くから漁村として知られていた場所で、少々その面影を残す、オールド・リーと呼ばれる場所にも足を踏み入れ、ついでに、そのまま、次のチョークウェル(Chalkwell)駅から電車に乗ろうと、更にテムズ川沿いにある歩行者専用道を辿り、河口へ向かい歩きました。

ボートが泥の上に置き去りにされた、引き潮のテムズ川の景色を眺めながら。

コメント