ノルマン・コンクエストとバイユー・タペストリー

ヘイスティングスの戦い 1066年10月14日、アングロサクソン最後の王、ハロルド2世(Harold Godwinson ハロルド・ゴドウィンソン)とノルマンディー公ウィリアム(William, Duke of Normandy)が、イングランドの王座をかけて戦った、ヘイスティングスの戦い。イギリスの学校の歴史の時間では、みんな覚えさせられる大切な年号です。 これに勝利したウィリアムは、軍を従え、行く先々を焼きながら、ロンドンへたどり着き、クリスマスの日にウェストミンスター寺院にてウィリアム1世として戴冠。Norman Conquest(ノルマン人の征服)のはじまり、はじまり。これにより、俗に言うアングロ・サクソン時代は終わり、イングランドの民は、ノルマン系 フランス語を喋る王様 と、数少ないノルマン人エリートにより統治される事となります。 海の向こうのノルマンディーから、ウィリアムがイングランドの王座を要求してやってきたいきさつは、ハロルド2世の前の王、エドワード懺悔王(Edward the Confessor)に子供がおらず、正当な世継ぎがいなかったことに起因します。エドワードの治世中、勢力を誇ったウェセックス伯ゴドウィン(Godwin)に牛耳られ、エドワードは、ゴドウィンの娘のエディスを妻に取っています。妻との間に子供がいなかったのは、エドワードが、キリスト教に熱心で身の純潔を保ちたかったからなどとも言われますが、ゴドウィンへの復讐として、わざと、エディスとは名目上の結婚だけで子孫を作らなかったという説もあります。 エドワード懺悔王 背景が分かりやすいように、エドワード懺悔王が王座に就くまでの過程も少々説明を入れておきます。エドワードは アルフレッド大王 を出したウェセックス王家のエゼルレッド2世の息子。母はエゼルレッドの2番目の妻で、時のノルマンディー公の妹であったエマ。エドワード幼少時、イングランドは度重なるヴァイキング(デーン人)の侵略を受け、デンマーク王であったスヴェン1世から逃れるべく、母の故郷ノルマンディーで長く過ごしていたため、ノルマン系フランス語がぺらぺらで、ノルマンディーとの絆はもともと強い人物であったのです。 父王エゼルレッド2世亡きあと、イングランドの王座についたのは、エドワードの異母兄エドモンド2世ですが...