美女ありき!エマ・ハミルトンの生涯

その美貌と男性を虜にする魅力で知られたエマ・ハミルトン(Emma Hamilton)、イギリスの英雄ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson)提督の愛人だった女性として有名です。「美女ありき」の邦題で知られる、ヴィヴィアン・リーがエマ・ハミルトン、ローレンス・オリヴィエがネルソンを演じた古い映画がありますが、本物のエマ・ハミルトンは、ヴィヴィアン・リーの氷の美女風の面持ちより、日本人受けしそうな、目がくりっとした、愛らしい感じの美人です。

チェシャー州の貧しい家庭に生まれ、鍛冶屋であったという父親を生後間もなく亡くしたため、若くして、職を求めてロンドンへ。家政婦などをして働いたのち、その美貌から、貴族の男性たちの目を引き始め、貴族のパーティーなどで、踊りを披露したりもし。愛人となった貴族の男性との間に、10代にして女児も生んでいるのです。ただし、この時の子供はそのまま、他の人間にひきとられていくのですが。やがて、貴族のチャールズ・グレビル(Charles Greville)と知り合い、彼の愛人に。これが、彼女の転機となります。

グレビルは、友人の画家ジョージ・ロムニー(George Romney)のスタジオに、17歳の自慢の愛人を連れて行き、彼女の肖像画を依頼するのですが、当時、エマ・ハートと呼ばれた彼女を人目見た瞬間、ロムニーも彼女に夢中になってしまう。他からも、肖像の依頼が入ってくる人気画家であったに関わらず、しばらくの間は、憑かれたように、エマばかりを描きまくり、ロムニーの筆によるエマの肖像は、60以上。様々の衣装を着せ、時に劇的なポーズを取らせての彼女を描いた肖像は巷でも人気となり、折しも版画の技術なども進んできており、彼女の肖像を基にした版画も売り出され、エマは有名になっていくのです。

ギャンブルなどで、借金に首が回らなくなってきたチャールズ・グレビルは、多額の持参金を期待できる女性との結婚するため、無事結婚にこぎつけられるよう、エマを手放す必要が出てくる。そこで、エマ自身には事情を告げずに、ホリデーに行っておいでと、彼女を、ナポリ駐在大使であった叔父、ウィリアム・ハミルトン(William Hamilton)の元へ送り込む。

ハミルトンも、エマの美しさに夢中になり、そのまま彼女を愛人とし、ナポリの自分の手元に置き、語学、ダンス、その他もろもろの教育を受けさせ、磨きをかけるのです。ちょっと「マイ・フェア・レディー」というか、「ピグマリオン」のようなシナリオですが。かなりの年の差があったものの、1791年に、二人は結婚し、エマは、レーディー・エマ・ハミルトンとあいなるのです。ウィリアム・ハミルトンは、古代彫刻や骨董品の収集家で、ジョージ・ロムニー同様、エマを一種の芸術品の様に大切にしたようです。

エマは、フランス王妃マリー・アントワネットの姉でもあったナポリ王国の女王、マリア・カロリーナ・ダズブルゴとも、親しくなり、ナポリの社交界、舞踏会の花形。ジョージ・ロムニーの肖像画のように、様々の衣装に身をまとい、次々と劇的なポーズを取って披露する、「Attitudes」と称された、彼女のパフォーマンスはヨーロッパ中で知られていた様で、ゲーテをも感銘させたとか。そうしたポーズを取る彼女の版画なども残っています。

1793年、この年の離れたハミルトン夫婦の前に現れたのが、35歳の、まだ偉大なる名声を勝ち得る前のホレイショ・ネルソン。エマはこの時は、28歳。初めての出会いは短く、再び2人が会うのは、5年後、1798年にネルソンがナイルの戦いで、フランス海軍に打撃を与える勝利を収め、ナポリに寄った際のこと。ナイルの戦いの勝利のおかげで、ネルソンは、一大ヒーローとして誰もが知る存在となっていました。5年間会わない間に、戦いで片目と片腕を無くし、体が弱っていたネルソン。ナポリのハミルトンの邸宅で、大歓迎を受け、エマの看病を受けながら回復。こうして始まる、2人の大恋愛物語。トラファルガーの海戦は1805年なので、二人のロマンスは、ほぼ6年間ほどの短いもの。1798年が明ける前に、ナポリでの革命の噂と、フランス軍侵略の恐れのため、ナポリ王室と宮廷人、ハミルトン夫妻、ネルソンは、シシリーへと移動。3人はパレルモに居を構え、しばし、ここで一緒に暮らすのです。

ウィリアム・ハミルトンは、本人もネルソンを大変尊敬していた上、高齢で疲れてしまっていたのか、愛人としてのネルソンの存在も受け入れ、妙な「メナジャトワ、menage a trois」となるのです。メナジャトワとは、フランス語で「3人の結婚」を意味しますが、こういう、夫婦+愛人が共存する状態を指して、イギリスでもそのままフランス語で使われる言葉です。なぜ、フランス語なのか、フランスではこういう事が多いんでしょうか?!

1800年に、イギリスへの召還を受け渡されたネルソンは、ナポリ大使の座を引退し、イギリスへの帰還を許された72歳のウィリアム・ハミルトンとエマと共に、ゆっくりと大陸を横断して帰国。その道中、ドイツ、オーストリアなどで、英雄ネルソンを含む一行は、大歓迎を受け、当然、イギリスでも、国民は、ネルソンをやんや、やんやの熱烈歓迎。

イギリス帰国後に、エマを捨てろと迫る妻、フランシス(ファニー)に怒りを覚えたネルソンは、完璧に妻の元を去り、ロンドンのピカデリーのハミルトンの館で、ハミルトン夫婦と居を構えるのです。以後、ネルソンは妻に会うことは無かったと言います。当時、貴族達の中では愛人を取るのは当然の風潮があったものの、実際に、妻を離れて、愛人と住む人物はほとんどいなかったのだそうで、ネルソンは、そういう意味で異例の存在。それでなくとも、イギリス2大セレブの恋愛として、世間の好奇心を煽っていたところへ、火に油をそそぐような、一大スキャンダルとなるのです。現在の有名人の私生活をスクープするようなマスコミ文化は、すでに昔から存在したので、彼らの行動は新聞、パンフレットなどで報道され。

ネルソンは、再び、妊娠8ヶ月のエマを残して、海の任務に戻るのですが、上のジェイムズ・ギルレイによる諧謔画は、この際のエマの嘆きを描いたもの。妊娠していた上、少々太ってしまったというエマ・ハミルトンは、巨大な体を大げさに広げ、窓の向こうに去って行くネルソンの船を見送りながら嘆いています。これは、有名であったエマの「Attitudes」のポーズを皮肉ったもの。背後のベッドでぬくぬく眠る老人は、ウィリアム・ハミルトン。床には、ウィリアム・ハミルトンの収集した古物が転がり。

翌1801年には、エマは、ネルソンとの間の女児を出産。ネルソンの名、ホレイイショにちなみ、ホレイシャと命名。女の子にしては、非常に珍しい名だそうですが。ネルソンにとっては、初めての子供で、ニュースには大喜びをしたようです。ネルソンは、もっと人目から離れゆっくりと住めるよう、現ウィンブルドン周辺の、ロンドン南西部に家を買い、そこへ、ハミルトン夫妻、ホレイシャ、エマの母は移り住みます。1802年3月、アミアンの和約で、一時的にフランスと休戦となり、イギリスへ戻ったネルソン。1年ほどの平和の間に、多少の家庭生活を楽しんだものの、和約はあっという間に破綻し、1803年に、ネルソンは、第2児を妊娠中のエマを後に残し、海へ。これから2年と3ヶ月、ネルソンは、帰国できなかったのだそうです。船乗りの伴侶は、ひたつら待つのみですね。ウィリアム・ハミルトンは同年、死亡。生まれた次女も、生後すぐ死亡。

1805年の8月にエマの元に戻り、しばし共に最後の夏を過し、ネルソンは、再び数週間後に出発。そして、1805年10月21日、トラファルガーの海戦で帰らぬ人となるわけです。ネルソンは出発前に、遺書で、自分亡き後は、エマとホレイシャが国からの加護で生活できるように懇願しており、また死の前にも、同意向を伝えたにも関わらず、国からは一切、エマとホレイシャへの援助は出ずじまい。

エマは、ウィリアム・ハミルトンの遺産からいくらかの年金を受け取り、ネルソンは、彼らが住んだ家をエマに残したものの、家を、ネルソンの思い出にふさわしく、綺麗に管理するために多額を使い、また、ネルソンの貧しい友人などに援助を頼まれた際は、断れずに金を与えてしまったそうで、すぐに雪だるまの様に増えていく借金に首が回らなくなるのです。1814年には、ついに、債務者監獄入り。監獄から出されてすぐに、エマは、他の債権者から逃れるため、ホレイシャを連れて、フランスのカレーへ流れて行き、その後すぐ、1815年1月に死亡。49歳。

ホレイシャは、母の死後、イギリスへ戻り、ネルソンの妹たちと暮らし、やがて、近所の牧師と結婚。ノーフォークの田舎で静かに生活を送ったそうです。

映画「美女ありき」の英語のタイトルは、「That Hamilton Woman」(あのハミルトンという女)。これは、ナポリにネルソンと共に海軍の一員として訪れていた、ネルソンの妻の連れ子が、イギリスの母宛に「あのハミルトンという女が、いつも彼(ネルソン)にくっついている」と、書く手紙の中の言葉から取ったものです。

映画の始まりは、若さも美しさも失い、落ちぶれ果てたエマ・ハミルトンがフランスのカレーで、店から酒のボトルを盗もうとしてつかまり、監獄の中で一緒の女性に、自分の過去の話をする・・・という形式を取っています。彼女が語る物語は、エマが母親と共に、愛人チャールズ・グレビルによって、ナポリの彼の叔父の元へ送られて到着するところから。

上の絵は、やはりジョージ・ロムニーによるものですが、「美女ありき」の中では、この絵はウィリアム・ハミルトンが、購入したものとして登場していました。顔が少しだけ、ヴィヴィアン・リー風に直されていましたが。

多少、メロドラマチックなところはありますが、良く出来た名画です。一番思い出に残るシーンは、1799年の大晦日のラブシーンですかね。行く年のために8つの鐘、来る年のために8つの鐘がなるのを聞きながら、「古い世紀と新しい世紀にかけて君にくちづけをした。」なんてネルソンの台詞、くさいかな、とも思いつつ、いいなあ、という感覚の方が強く。

Emma: 1800. How strange it sounds.
Nelson: What a century it's been. Marlbrorough rode to war, and Washington crossed the Delaware. Louis XVI, and Marie Antoinette. The last of the Sutarts. Peter the Great. Voltaire. Clive of India. Bonaparte...
Emma: Nelson.

エマ:1800年。なんだか不思議な響きだわ。
ネルソン:波乱の世紀だった。マールバラ伯爵が戦場へ赴き、ワシントンがデラウェア川を渡った。ルイ16世とマリー・アントワネット。スチュアート家の最後。ピョートル大帝。ヴォルテール。インドのクライブ。ナポレオン・ボナパルト・・・
エマ:そして、ネルソン。

とひとしきり、18世紀歴史のおさらいも入り。

この映画内に登場するネルソンの妻フランシスは、彼女の実際の肖像に良く似た、怖そうな顔をしています。気の毒ではあるけれど、そりゃ、エマ・ハミルトンを選ぶよな・・・と納得してしまいました。顔もさることながら、エマ・ハミルトンの方が朗らかで、一緒にいて楽しかったのもあるかもしれませんし。

キス・ミー・ハーディー」の、瀕死のネルソンの言葉でも有名なトマス・ハーディーも登場し、事実はわかりませんが、トラファルガーの勝利と、ネルソンの訃報をエマに知らせに来るのも、彼でした。

カレーでのエマ・ハミルトンの昔話は、エマが、ハーディーからネルソンの訃報を受けた段階で終わり、「それから?その後はどうしたの?」という聞き手の問いに、エマが「それからと、その後など、存在しないわ。」と答えて、映画はジ・エンド。実際に、エマはこの後すぐ死亡するわけですし。6年間のロマンスで、そのうち3年近く、ネルソンは、ナポレオン戦争で不在。それでもお互いの人生を変え、フランス革命とナポレオン戦争という激動の時代をバックグラウンドにした、後の世に語り継がれるインパクトの強い物語です。

原題:That Hamilton Woman
監督:Alexander Korda
言語:英語
1941年

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