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映画「女王陛下のお気に入り」とアン女王

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スチュアート朝最後の君主、アン女王の治世を舞台とする映画、「女王陛下のお気に入り」(The Favourite)を見に行きました。宮廷に仕える二人の女性、セーラ・チャーチル(Sarah Churchill)とアビゲイル・ヒル(Abigail Hill)が、アン女王の寵愛、ひいてはそれに伴う政治力をめぐって、女の戦いを繰り広げるコメディーで、国の方針が、この3人の女性の関係によって、影響を受ける様子を追っています。 3人の女性たち、アン女王は普通のおばさん風女優オリヴィア・コールマン、セーラ・チャーチルは、ちょっとした男装もいかしていたレイチェル・ワイズ、そしてアビゲイル・ヒルは、大きな目玉のエマ・ストーンが演じています。オリヴィア・コールマンという人は、ノーフォーク州の ノリッチ 出身なのですが、ノリッチで有名な、辛子の製造業社コールマンズ(Coleman's)と関係があるのかと思ったら、関係はないようです。同じ土地で、同じ名前が多いという事は時々ありますしね。 一応、歴史ドラマ風ではありますが、史実とは違う事を取り入れたり、さらには憶測に基づいて書かれており、歴史もの映画の全てに言えることかもしれませんが、半分は作りものと思って見ていた方が無難です。ただ、チューダー朝のエリザベス1世やヘンリー8世がらみの映画やテレビドラマは星の数ほどあるので、アン女王が主人公というのは画期的です。 ***** 時代背景をなんとなく知っておくために、アン女王と、映画の元となっている、彼女の時代の史実を、簡単に、下にまとめておきます。 アン女王は、姉のメアリーと義理の兄ウィリアム3世亡き後、1702年に女王となり、君臨する事12年間。1707年には、合同法(Act of Union)により、スコットランドがイングランドに統合され、グレート・ブリテン王国となるため、彼女は、グレート・ブリテンの初めての君主ということにもなります。いわゆる ユニオンジャック が国旗として使用されるようになるのも、この時から。 夫君は、デンマーク出身のカンバーランド公ジョージ。ウィリアム3世などからは、「箸にも棒にも掛からぬ男」の様に見下されていたようですが、政略結婚にもかかわらず、夫婦仲は良好であったようです。17回(一説では18回)の妊娠を繰り返しながら、流産、死産が...

ピルボックス

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田舎の風景の中にぽつねんとあるビルボックス ピルボックス(pillbox)というのは、もとは、ピル(錠剤)を入れるための、小型の携帯容器を指す言葉です。今日のブログのテーマの「ピルボックス」は、イギリスの海岸沿いや、川沿いを歩いていて、時にお目にかかる建築物で、日本で言うトーチカにあたり、防御用の陣地の事です。 1940年に、ナチスドイツがイギリスに侵略する、という恐れがあった際、その防御用に、こうしたピルボックスがイギリス全土、1万8千以上建設されることになります。ドイツ軍が、海から、また、川を上って侵略してきた場合、この小さな空間に入って、開口部から、機関銃などによる攻撃を行い、敵の進行を妨害・阻止するのが目的。 計7つの基本デザインが考案され、各地で、都合に応じて、この基本デザインに多少の変更を加えながら、建設。まだ、多くのこうしたピルボックスが、あちこちに残っており、全国つずうらうらのピルボックスを比較してみると、それなりの郷土色があるようです。 以前訪れたサマセット州海岸の村 ポーロック では、ゴロゴロ石でこしらえた味のあるものがありましたが、こういうのは稀で、ほとんどはコンクリート製。 頻繁に見かけるのは、コンクリート製の6角形のもので、やはり6角形が、一番多いモデルのようです。時に四角形のものにも出くわしますが、円形タイプはほとんど見ないです。 なぜ、こうしたトーチカがピルボックスと一般に呼ばれるようになったかというのは、多少、異論があるようですが、最も信じられている説が、第一次世界大戦の時代に作られた、円形コンクリートの防御基地が、当時、薬を処方販売する際に使用された、段ボール紙でできた小型容器に形が似ていたため、というもの。そして、その名が、そのまま、引き続いて、第二次世界大戦に築かれた、6角形、長方形、四角形などのトーチカにも使用され、現在も、ピルボックスと呼ばれ、親しまれています。 幸い、ナチスドイツの侵略は起こらずに済み、ほとんど、本格的に使用される事は無く終わったものばかりでしょうが、今や、そのまま、風景と一体化し、頭に髪の毛のごとく草をはやしているものもあります。 戦争中に、こうした防御に必要な土地は国によって徴発され、ピルボックスが建築されたわけですが、戦後、土地は以前の所有者に戻され、...

トリングの自然史博物館

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トリング自然史博物館 2013年の夏、 チルターン丘陵のハイキング へ出かけた際、ロンドンのユーストン駅より電車で45分ほどのところにある、ハートフォードシャー州のトリング(Tring)という駅から歩き始めたのですが、先週、このトリングの町内にある自然史博物館へ足を運びました。 トリング自然史博物館(The Natural History Museum at Tring)は、現在は、ロンドンにある 自然史博物館 の管理下で分館となっていますが、そもそもは、19世紀後半に、金持ちの個人収集家が始めた動物学博物館。その金持ちとは、ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(Lionel Walter Rothchild)、有名な銀行家ロスチャイルド家のご本家の一員です。本人、ウォルターというミドル・ネームで呼ばれる事を好んだそうで、ウォルター・ロスチャイルドとして知られています。 ウォルターは、7歳で、両親に「僕は動物学博物館を作る」と宣言。10歳で、蝶、甲虫、魚、鳥、小動物などの収集を初め、18歳で、ケンブリッジにて動物学を勉強、21歳の誕生日に、父親から、トリング・パークに、博物館を建てるための土地とお金をプレゼントとしてもらったのだそうです。いいなあ。そして、1892年、24歳の時に、博物館の一般公開が開始。 ウォルターは、ロスチャイルド本家の長男であったため、1889年から1908年まで、家業である銀行業に従事する事を余儀なくされるものの、銀行家としての才も、熱意も無かったようで、1908年には、父親から、もうやらんでもよろしい、とのお許しが出たようです。1915年の父の死後は、一時的にロスチャイルド銀行の経営は、弟チャールズに受け継がれますが、彼が2年ほどで体を悪くした後は、銀行業は、もっと金融の才のある従弟たちにより経営。ちなみに、この弟チャールズも昆虫学者で、日本を訪れており、日本が非常に気に入っていたのだそうです。ウォルターは、子孫を残さなかったため、ロスチャイルド男爵号は、チャールズの息子によって引き継がれます。ウォルターはまた、1910年まで、保守党国会議員でもありました。ウォルターの死後、1937年に、博物館は、大英博物館へ寄付され、上述の通り、今は当時、大英博物館の一部であった自然史博物館の管理下となっています。 町の...

霧の中の動物たち~その辺旅行のすすめ

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日本の幼馴染から、メールで、イギリスの冬は青空が見えるのか、と聞かれました。なんでも、友達が南ドイツの山岳部を旅行して、青い空を背景に3000メートル級のオーストリアの山並みが見え、とてもきれいだったと聞かされ、そういう所に行ってみたいと思ったのだそうです。イギリスには、3000メートル級の山並みもなければ、冬季の青空も稀。まだ、東京あたりの方が、青空が見える回数は多いはずです。 今年の元日に、家の近くの田舎の散歩に出た時の様子を ブログ記事 にしました。丁度一年ほど経った本日も、灰色の空の下、しかも昼にもなろうというのに、霧の立ち込めた田舎道に散歩に出ました。じとっとしめって、雲が垂れこめた、毎度おなじみ、典型的イギリスの冬の日。比較的暖かかったですが。 歩き始めて、まず、お目にかかったのは、2頭の牛。つぶらな瞳のまつげは白でした。 こちら、威風堂々、横向きポーズ。 木製のゲートを超えて、次に現れたのは、馬たち。普通の馬一頭と、かわいいポニーが2頭。皆、冬用ジャケットを着用。 馬は、必ずと言っていいほど、近づいてくるので、柵から、かなり離れたフィールドの端にいたのに、瞬く間にそばにやって来て、私のすぐそばで、草をバリバリ食べ始めました。 最後に遭遇したのは羊たち。羊は、私が歩いているのに気づくと、起き上がって、こっちを見たりするのですが、馬と違い、臆病なのか、寄っては来ない。でも、ずーっと、視線を感じます。遠巻きに、見えなくなるまで、こちらの様子をうかがっていました。 散歩の後は、近くの町のティールームで、ランチ。これで、結構、幸せな一日。 私も、海外旅行は時々、行きたくなりますが、空港の混雑ぶり、ホテルにチェックインするまでの行程、また、慣れない枕で寝ることなどを考えると、段々、億劫になって来て、若い時ほど、「さー、色々海外行ってみないと!」という強い気持ちは薄れて来た、というのはあります。日本で生まれながら、海外に住んでいるわけですが、人生の半分以上生活している場所は、もう海外とは、呼べないですしね。 以前、 スノーマン 作家のレイモンド・ブリッグズが、「混み混み空港が嫌だから、海外旅行なんてほとんど行かない」というような事をインタヴューで言っていたのを思い出して、「わかる。」という気持ちも強くなって...

9つの聖書日課とクリスマスキャロル

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クリスマスイブの午後3時からは、毎年、BBCのラジオで、ケンブリッジ大学の キングス・カレッジ・チャペル から、9 Lessons and Carols(9レッスンズ・アンド・キャロルズ、9つの聖書日課とクリスマスキャロル)が生放送されます。そして、少々遅れた時間に前もって録音されていたヴァージョンがテレビで放送。(上記写真は、キングス・カレッジの 公式サイト より。) これは、9つの聖書からの抜粋の朗読と、聖歌隊によるクリスマスキャロル演奏が交互に行われるという式典。キングス・カレッジ・チャペルでのサービスは、いつも、聖歌隊メンバーのソロによる"Once in Royal David's City"でおごそかに始まります。9つの聖書の抜粋の朗読は、まず聖歌隊のメンバーから始まり、徐々に、教会内での階級が高い人物が順番に読む形となります。イギリスのみならず、他国でも放送される、超人気のキャロル・サービスとあって、中に入って見ようなどと思うと、もう数日前から、寒い中、寝袋抱えて並ぶ覚悟で、クリスマスイブの朝に配布されるチケットをゲットする必要があるそうです。 クリスマスイブに、この「9つの聖書日課とクリスマスキャロルの礼拝」を行うのは、キングス・カレッジ・チャペルが行うようになってから、クリスマスイブの定番となり、イギリス内、更には、世界各国に広がったのですが、一番最初に行われたのは、1880年、イングランド南西部のコーンウォール州の州都トゥルーロ(Truro)での事。トゥルーロの大聖堂は、同年に建設が始まり、トゥルーロ大聖堂の初代司教となり、後にはカンタベリー大司教にもなる、E.W.ベンソン氏が、参列者に親しみやすい礼拝として考案。大聖堂建設中の仮の木造建築物内で、9つの聖書からの朗読が、9つのクリスマスキャロルに挟まれた形の礼拝が、最初に執り行われたのだそうです。 キングス・カレッジでのサービスが最初に行われたのは、第一次世界大戦終戦の年である1918年。ですから、今年は、100周年記念の年です。第一次世界大戦中、西部戦線そしてイタリアへ送られていた、エリック・ミルナー・ホワイト(Eric Milner White)氏は、帰国後、ケンブリッジへ戻り、キングス・カレッジで首席司祭(Dean)に任命されます。悲惨な 第一次世...

英国総督 最後の家

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「Viceroy's House」(英国総督 最後の家)という映画をDVDで見ました。舞台は1947年のインド。インドが、大英帝国から独立するにあたり、受け渡しのために、最後のインドの総督となったルイス・マウントバッテン(Louis Mountbatten)と、妻エドウィーナ、娘パメラは、デリーにあった豪華な英国総督館に滞在。マウントバッテンは、着任から18か月で、イギリスのインドからの撤退、インドの独立をスムースに執り行う役目を果たすために派遣されたわけですが、インド内に存在する宗教間の違いの打開策を見つける事ができず、最終的に、インドとパキスタンと、2つに分離しての独立にこぎつける過程を描いています。マウントバッテン夫妻は、非常にインドの独立に対しては同情的で、過去の総督が敵とみなしていたマハトマ・ガンジーとも、着任早々、会談。 マウントバッテン演じるは、ダウントン・アビーでお馴染みのヒュー・ボネヴィル、エドウィーナ夫人は、ジュリアン・アンダーソン。このマウントバッテンという人物は、現エリザベス女王の夫君プリンス・フィリップの叔父にあたり、女王とも遠縁。映画内でも、そうした王室との関係を思わせ、娘のパメラが、エリザベス王女(まだ父王健在の時ですので)が結婚するにあたり、ブライド・メイドの一人になる、という話も挿入されていました。マウントバッテンは、インドの独立からかなり時が経った、1979年、アイルランドでの休暇中にヨットに乗っている際、IRA(アイルランド共和軍)により、ヨットにしかけられた爆弾で暗殺死しています。 さて、当時のインドは、人口約4億人で、様々な宗教を信じる人民から構成されていた国。うち、2つの大きな宗教が、ヒンズー教とイスラム教で、ヒンズーが、大多数を占めます。それまで、イギリスという蓋の下で、異なる宗教に属する人間たちが、隣同士で、平穏に生きて来たわけです。が、イギリスの支配が消え、民主義国家として独立すると、どうしても大多数の宗教であるヒンズー教信者たちに政治が牛耳られ、自分たちは巨大国家の少数派として、差別を受けることを懸念した、インド・ムスリム連盟指導者で、後のパキスタン総督となるムハンマドー・アリー・ジンナー(Muhammad Ali Jinnah)は、イギリスが去った後は、インドとは別に、イスラム教信者の多い地...

教会でコーヒータイム

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昔は、日曜日ともなると、お説教を聞きに大勢の住民が訪れた教会も、いまや、クリスマスやイースターなどの特別な催しのある日以外は、参列者の数もがたおち。大体、現在は住む場所というより働く場所と化した、シティーなどのロンドン中心部は、住民の数自体が過去に比べて、激減しているので、教会が人口に比べて多すぎる、という事実もあります。また、時折ニュース沙汰となる、聖職者による、わいせつ事件、暴行事件なども、人々が教会という組織に背を向ける理由となっている感もあります。身の回りでは、本当に、この人はいい人だ、と思う人は、無宗教の人が多いですし。頻繁に教会に通っている知り合いから、以前、同教会を通して仲良くなった知り合いから、金をだまし取られたなどという話も聞いて、びっくりしたことがあります。当然、教会関係者でも、いい人は沢山いますよ。貧しい人に、無料で食べ物を提供している教会などもある。でも、「キリスト教信者=モラルのある良い人間」という方程式はあてはまらないです。大体、昔のキリスト教の歴史を振り返っても、宗派による殺し合いや、自分と違う意見を持つものへの 糾弾 の話が多いですし。 と、前置きが長くなりましたが、そうした参列者がいなくなった古い教会の中には、取り壊されてしまったものもあり、民家や高級マンションとして生まれ変わるものもあれば、市民の集いの場と化すものもあり。さらに、カフェやティールームとして機能している教会も増えています。 ロンドンのシティー内で、私が気に入っているカフェのひとつが、 セント・ポール寺院 などにも近い、セント・ニコラス・コール・アベイ教会(St Nicolas Cole Abbey)にある、レン・カフェ( Wren Cafe)です。当教会、 ロンドン大火 後に、クリストファー・レンにより再建されているので、彼の名を取った「レン」と、小鳥のレン(みそさざい)をかけた名の様です。 広々とした歴史あるスペースの中、片側に注文を取るカウンターがあり、ゆっくりとコーヒーをすすりながら、時を過ごせます。 こちらは、セント・メアリー・オールダー・メアリー教会(St Mary Alder Mary)のコーヒーコーナー。この教会もクリストファー・レンによるもので、 綺麗な天井をながめながらのコーヒータイム。ついでながら、この教会が、...