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テンプル騎士団の興亡

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テンプル騎士団のはじまり ローマ教皇の呼びかけにより、キリスト教国の騎士達が、聖地エルサレムを、イスラムの支配から奪回するために起こった第一次十字軍(1096~1099年)。1099年7月に、目的果たし、聖地エルサレムを占領,、エルサレム王国が設立。エルサレム占領後、兵士達の中には聖地に残り、キリストの墓があったとされる場所に立つ、聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)にて、宗教的生活を営むようになる者たちもでてきます。やがて、この聖墳墓教会に巡礼に訪れるキリスト教信者達が、道中、イスラム教徒の盗賊や追いはぎに襲われるようになってくると、彼らは、巡礼者を守るため、武装を始めるのです。 こうして、聖地にて設立された武装キリスト教団体の一番最初のものが、テンプル騎士団。彼らは、1120年に、キリスト教会から、組織として設立する事の正式な許可を受け、エルサレムの神殿の丘にあるアル・アクサー・モスクを与えられます。アル・アクサー・モスクは、ソロモン・テンプル(ソロモンの神殿、The Temple of Solomon)として知られていたため、テンプル騎士団(The Order of the Temple)と、呼ばれるようになり、そのメンバーは、テンプラー(Templar)と称されるようになるのです。え、テンプラ?日本の天ぷらは、ここから来たのか???なんて、思わないようにしましょう。関係ありませんので。1129年に、テンプル騎士団は、ローマ法王からの許可も受けます。 テンプル騎士団の後にも、いくつか似たような宗教軍事団体が設立しますが、その中でも有名なものに、聖ヨハネ騎士団(Knights Hospitaller ホスピタル騎士団)があります。こちらは、貧しい巡礼者達に宿を与え、世話、保護をする事に始まった集団ですが、テンプル騎士団設立後、やはり武装を始め、騎士団として発展。そのメンバーは、テンプラーに対し、ホスピタラーと英語では称されます。 テンプル騎士団の発展 聖地で巡礼者たちを保護するのみならず、やがて、彼らは、キリスト教世界内で、イスラム教徒を含む他の敵に対して領土を守る役割も果たすようになり、イベリア半島や東欧等、キリスト教世界と異教徒民との境界線の領域に土地を与えられ、そこでも活動を行います。また、そうした...

テンプル騎士団の建てた納屋、クレッシング・テンプル

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久しぶりに、エセックス州クレッシング(Cressing)にある、クレッシング・テンプル(Cressing Temple)を訪れました。時折、クラフト・フェアーや、ファーマーズ・マーケットなどの催しが開かれる場所で、以前訪ねた際は、クラフト・フェアーをやっており、アート、クラフト系の屋台が立ち並び、敷地内でモリス・ダンスも見学したのでした。(この際の写真は、以前の記事、 「モリス・ダンス」 まで。) テンプル(Temple 神殿)などと言っても、内部に神殿があるわけではありません。遡る事1137年、スティーブン王の時代に、スティーブン王の妃マティルダが、テンプル騎士団に、荘園として、この地を与えたのが、名前の由来です。クレッシングは、イングランド内では、一番最初にテンプル騎士団たちに与えられた土地でありました。スティーブン王は、正当な王位継承者と言うには、いささか問題ありの人であったし、王位継承問題で内戦に悩まされた時代でもあったため、テンプル騎士団の様な宗教団体の庇護者と見られることは、大切だったのかもしれません。神様を味方につけるためにも。 ロンドン内の、現在は法律の地域として知られるテンプルも、テンプル騎士団が有した場所でしたね、そういえば。あちらは、テンプル教会というテンプル騎士団の教会もまだ残ってます。 クレッシング・テンプルの敷地内で、一番目に付くのは、バーン(barn)と称される、巨大な中世の2つの木造納屋。大麦納屋と小麦納屋。テンプル騎士団が、周辺で収穫した穀物を貯蔵した場所です。貯蔵された穀物は、地元で売られる事もあり、そのまま中東の聖地まで送られることもあり。 第一次十字軍遠征の後、エルサレムで、キリスト教国からの巡礼者達を守るために設立されたテンプル騎士団が、徐々に、現代の大きな国際企業さながら、キリスト教国の各地に土地を獲得し、富を成し、活動を広げていった、その威力のほどがうかがわれる建物です。当時は、納屋の他にも、チャペルや、大広間、キッチン、鍛冶場など、荘園としての経営に必要なものは全て整っていたわけでしょうが、テンプル騎士団の時代に建設され、現在も残るのは、この2つの納屋と井戸のみ。 13世紀前半に建てられた大麦納屋。現存する、世界で一番古い木造建築の納屋・倉庫とされています。それでも、後に、少しずつ、手が入っ...

アルフレッド大王と焦げたケーキ

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アルフレッド大王(在位871~899年)。まだイングランドがいくつかのアングロサクソンの小王国に分かれていた時代、イングランドの南西部ウェセックス王国(首都ウィンチェスター)に君臨した王様です。他の王国が、次々とバイキング(デーン人)の襲撃に敗れていく中、最後に踏みとどまるのが、このアルフレッド大王のウェセックス。彼と、彼の子孫達が、後のイングランドの母体を作ることとなります。 父王エゼルウルフの第5男であったため、子供の頃は、王座はつがないものとして、軍事の他にも、学問にかなり力を入れ、ローマへ趣きローマ法王に謁見する経験もし。ところが、次々と兄達が死に、気が付くと、王様となっていた人です。王となっても学問を重んじ、行政にも賢明であったというのは、この幼少時の影響だと言われています。 さて、アルフレッド大王というと、ケーキを焦がして怒られてしまう逸話が有名ですので、ここで紹介しておきます。 バイキング(デーン人)たちは、キリスト教のイングランドの王国の祝日などを熟知しており、お祭り騒ぎの時に、不意打ちを掛けてくる、というちょこざいな手段を良く使っていました。877年、アルフレッド大王は、現ウィルトシャー州のチップナムでクリスマスを祝っている時に、デーン人の一大襲撃を受けるのです。この襲撃を、命からがら逃れ、側近の者達と、現サマセット州アセルニー周辺の沼地に逃れたアルフレッド大王。手作りいかだで、沼地の間を移動し、百姓の様に身をやつした姿で隠れ、デーン人から逃れる生活をしばし続けます。 この、デーン人から身を守るための、サマセットでの隠遁期間、アルフレッドは沼地の間のとある家で休憩させてもらう事を頼むのです。この家のおかみさんは、アルフレッドを室内に招き、かわりに、自分が井戸へ行く間に、焼いているケーキが焦げないように、見ていて欲しいと頼む。おかみさんが留守の間、アルフレッドは、火の前で、「いかにして、デーン人をやっつけようか・・・」と思いにふけり、ケーキの事など忘れてしまった。そして、おかみさんが、家へ戻ってみると、白昼夢にふける客人の前で、真っ黒に焦げたケーキが煙を上げていたわけです。怒ったおかみさん、アルフレッド大王を一喝。ほうきを振り上げて、王をたたいた、という説もあります。やがて、アルフレッドのお供たちが現れ、アルフレッドがウェセックス...

村の鍛冶屋

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私の住んでいる町の一番古い部分にあるのは、昔はマーケットが開かれた、ちょっとした丘の上にある14世紀前半に建てられた教会と、一群の趣の良い建物。そのひとつ(上の写真)は、14世紀後半に建築され、長い間、鍛冶屋として使われ続けてきた建物です。移動や労働を馬に頼っていた時代、馬の蹄鉄(ホースシュー)を作ったり修繕する鍛冶屋は、どんな集落にも必須の商売。マーケットに買出しにやってきて、ついでに、この鍛冶屋で蹄鉄を直し、仕上げに、向かいのパブでひっかける・・・などという昔の営みが思い起こされます。蹄鉄は、幸運を呼ぶラッキーチャーム(幸運のお守り)と言われ、うちの玄関口にも、さびさびの蹄鉄が飾ってあります。春の大掃除もかねて、この蹄鉄、少々、磨きを掛けて、くもの巣も払っておかないと。 さて、つい最近までも、この古い建物は鍛冶屋として経営されていました。当然、現在では、馬の蹄鉄を作る需要は、あまり無いでしょうが、数年前に、庭においてあるベンチの鉄の支えの部分が壊れ、この鍛冶屋へ持って行き、修繕してもらった経験があります。 うちのベンチを修繕してくれている様子を取ったものが上の写真。 鍛冶屋のお兄さんに、こうして、ささっと溶接してもらって、たしか8ポンドくらいの値段だったと思います。せっかくの美男子だったので、マスクを取ったところの写真も取らせてもらいました。ちょとした物を直してもらえる、昔ながらのこういう店いいな、といたく感動したのでした。 ところが、去年の秋に、この鍛冶屋が売りに出ているのに気付きました。商売大変なんでしょうか。うちのベンチを8ポンドで直したところで、大した収入にはならないし。大きな仕事がどのくらいはいるのかもわからないし。この建物の販売には、鍛冶屋として商売を続ける、というのが条件となっているので、いまだ、売れていません。かなり時間かかるでしょうね。不動産の値段が非常に高い上、商売にかかるビジネス・レイト(税金)も高いこの国。伝統の職業と建物を維持するために、鍛冶屋として続けるという条件をつけたいなら、こういう、あまり金になりそうも無い商売は、ビジネス・レイトを掛けない、などのような処置をしないと、成り立たないのではないでしょうか。あのお兄さんは、どうしたのでしょう。新商売を始めたのか、別な場所に移って、まだ鍛冶屋をしているのか。...

ラリラリラリラとアマリリス

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我が家の2階の寝室には、真南を向いた大きな窓があり、冬でも明るく暖かいので、居心地の良い一番好きな部屋です。このブログを書くのも、読書するのも、大体、この部屋のベッド脇の ロイドルームチェア で。時折、目を上げて、窓のたんすの上に並ぶ植物越しに空を眺めるのも好きです。 常時、この窓際のたんすの上に置いてある植物群は、葉を指でこするとレモンの香りのするレモンセンテッドゼラニウム、オリヅルラン、そしてアマリリス。冬季は、 ヒヤシンス の鉢植えがこれに加わりますが、レギュラーの面子はいつも同じで、基本的に、陽射しと、乾燥に強く、水遣りを数日しなくても、ちょっとやそっとでは死なない植物たち。 2鉢あるアマリリスが咲き始めました。うちのアマリリス、もとはと言えば、義理の父が長年育てていたアマリリスの球根を割ったものを、うちのだんなが持って来て、ずっと育ててきたもので、かなり歴史のある植物なのです。実際、居間に飾ってある、義理の両親の写真の背景に、しっかり我が家のアマリリスのご先祖様も、一緒に写っているのです。世代を越して受け渡し大切にするものには、家具、陶器等の他に、植物もあるのです。 育て方として、一番大切なのは、置く場所でしょうか。暗い室内に置いておくと、冬季に葉が死んでしまうこともあるらしいので、成功の秘訣は、お日様がいっぱいの場所に置く事。水遣りも、やりすぎると返ってまずいようで、ずぼらな人には最適?乾いてきたかなと思ったところで、たっぷり水をあげ、開花期には、水の他に、水に溶かす肥料を、1週間おきくらいに、ちょいとあげるくらいです。花が咲き終わったら、茎を元から切り落としています。 丈夫に育っているアマリリスは、放っておくと、どんどん球根が大きくなり、更にその脇に、いくつもの小共球根が増えていくので、プラスチックの鉢は、膨れ上がっていく球根に引き伸ばされて変形したりします。ですから、3年に1回くらいは、球根を鉢から出して、もとの球根の周りに育っている子供球根たちを分けて取り、一番丈夫そうな球根を選んで植えなおしします。あまった球根は、別のポットに植えて、人にあげてもいいですし。植える際には、あまり大型のポットを使わず、土も大量使用しないこと。そして、球根の上部は、土から顔を出しているようにして植える。水遣りの際は、できるだけ、その球根の上部に水が...

桑の実摘んで現行犯

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caught red-handed(コート・レッドハンデッド)という英語のフレーズがあります。直訳すると、「赤い手をしているところを捕らえられる」ですが、「(犯罪や、その他よからぬ事を)行っている最中に捕まる、発見される」という意味。要は、現行犯です。 He was caught red-handed. 殺人を犯して、その血で手がまだ染まっている時に、発見されて捕まってしまう・・・というところから来たフレーズで、このレッドハンデッドが初めて、文学作品内で使用されたのは、スコットランドの作家ウォルター・スコットによる、「 アイヴァンホー 」だったと言います。この本読んだんですけどね、気がつかなかったです、このフレーズ。何せ、わりと長い本なので(・・・と言い訳)。 さて、先日見たテレビ番組で、エセックス州 チップトリー にあるジャム会社、ウィルキン・アンド・サンズ社の果実園で、桑の実(mulberry マルベリー)を摘む様子と、それをジャムにする様子を放送していました。この放送の中で、マルベリーを密かに摘み取ると、その実の汁で手が赤く染まってしまい、その色がなかなか落ちないのだそうで、「あ、こいつは、桑の実盗んでおった!」と犯罪が発覚してしまう・・・まさに、これも、「caught red-handed」である、などとやっていました。血に染まった手よりもご愛嬌ですが。 この番組を見た後、さっそくスーパーでマルベリージャムを探したのですが、ウィルキン社のものも、他社のものも、マルベリージャムなど置いていない。そこで、ジャム工場とショップが一緒になっている、チップトリーのウィルキン本社へ乗り込んだものの、ここのショップでも売っていなかったのです。レジの人に聞くと、「売切れてしまって、今週中には、また店に出せるようになると思うけれど。」そこで、「テレビ番組でやっていたから、ちょっと、どんな味かと思って。」という話をすると、「そうそう、それ以来、かなり人気が出たんですよね~。」テレビの威力はすごいのです。 その帰途、ちょろりと寄ったガーデンセンター。ガーデンセンターの一角にあったファームショップへ足を運ぶと、あったのです、ウィルキン社のマルベリージャム!テレビを見た人たちは、皆、私の様に、本社へ直行して、本社では品切れになってしまったのでしょう。約6ポンド...

2月の窓辺

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2月は、一年の中で、一番嫌いな月です。春がもうすぐで、その気配が感じられる時期ではありますが、この、春がもうすぐなのに・・・というのが、私には、とてもまどろこしいのです。マラソンで、ゴールが見え始めた、あと、一息だ~という最後の距離が一番つらいく、非常に長く感じられるのと同じように。一番短い月であるのに、一番長く感じる月。 バレンタインデーに、「花は何がいい?」とだんなに聞かれ、ダファデル(ラッパ水仙)とチューリップを頼みました。バラの花よりも、何よりも、家の中だけでも春を感じられる花がいいなと。バレンタインの当日には、まだ黄色のきの字も見えないつぼみだったダファデルも、窓辺の光と室内の暖かさで咲きそろいました。庭には、まだクロッカスがちらほらと咲くのみなので、室内に光が溢れたようなうれしさがあります。 暖冬ではあったものの、イングランド南部は特に大洪水で大騒ぎとなった冬でした。うちの周辺は、庭の芝生がぐしょぐしょとなっている程度で、被害と呼べる規模のものでなく、調度、この時期に更新の家財保険料金も、洪水にあった地域に比べ、比較的安めで済みそうです。 春の花が咲きそろう窓辺から外を眺めつつ、今年の抱負、今夏は絶対実行に移したい事などを、色々と思い巡らしています。過去10年ほど、ほぼ毎年、同じような抱負を抱いてきた気がするのですが、そんな意気込みも、2,3ヶ月で、いつも、日々の生活の間に消えうせていくのでした。毎年、災いも経験しながらも、それなりに良い年だったと思える事はあったのですが。10年などと言葉ではとても長く思える月日が、気がつくと、するりと指からすり抜けて行ってしまっているものです。 ダファデルの黄色い顔を見ながら、自分に言ってみています。「今年こそは、抱負を実行し続けようね。」と。