名誉革命で、オランダから王様を呼ぼう!
去年の春、アムステルダムのライクスミュージアムを訪れた際、木箱に収まった、四角く切った石が展示されているのを見ました。何かと思い、説明書きを読むと
これは、1688年11月5日、ウィリアム3世が、イングランドの漁村Brixhamに上陸したときに、最初に、足を踏み込んだ石である。ウィリアムは、義理の父であるジェームズ2世をイングランドの王座から退かせ、また、ジェームズ2世とフランスのルイ14世が、共同でオランダに脅威を与えるのを防ぐため、イングランドに侵略した。この事件は、「The Glorious Revolution」(輝ける革命、名誉革命)と称され、大成功を収めた。
とありました。
イングランドに侵略・・・とはあるものの、歴史上「Immortal Seven」(不滅の7人)と呼ばれる、当時のイングランド社会のエリート7人が集まって、「どうか、イングランドに侵入してきて下さい。」と、わざわざ、オランダ総督、オレンジ公ウィリアムにお願いの手紙を書き送り、それに答えて、ウィリアムが、海を渡ってやって来たのです。さて、何故に、イングランドは、わざわざオランダから王様を呼ぶ羽目になったのか・・・
王政復古で王座に返り咲いたスチュアート朝のチャールズ2世は、ネル・グウィンなども含め、妾はごちゃまんとおり、私生児もたくさん残したものの、正妻キャサリン・オブ・ブラガンザとの間に子供がなく、1685年2月に、世継ぎ無く、世を去ります。そのため、王座は、カトリック教徒であった、弟ジェームズ2世へ。
プロテスタントの国イングランドでは、カトリックの君主は、多くのプロテスタントを処刑したことから、ブラディー・メアリーの悪名で知られる、チューダー朝のメアリー1世以来はじめて。うさんくさく思っていた人物もたくさんいたものの、ジェームズ2世は、当初は、カトリックの宗教は、個人的に信仰するのみで、公にはイギリス国教会を支持する意向を示しており、比較的おだやかに治世が始まります。また、ジェームズの最初の妻との間の娘2人、メアリーもアンも、プロテスタントであり、しかも、メアリーのだんなは、プロテスタントの国、オランダ総督のウィリアム。ジェームズの死後は、この二人が王座を継ぐこととなっており、カトリックの王はジェームズ2世のみで終わる、と世間は楽観視していた・・・。
が、それもつかの間、ジェームズ2世は、徐々に、イングランドをカトリックの国に変え、太陽王、ルイ14世が幅を利かせる、フランスの様な絶対王政の国にしようという気配が見せ始めるのです。徐々に、イングランド内には、王の態度に不安と不満を感じる者が増えていく。
ジェームズの治世の、まず第一の危機は、即位した同年の6月に起こるモンマスの反乱(Monmouth Rebelion)。モンマス公(Duke of Monmouth)は、チャールズ2世の一番最初の私生児で、プロテスタント。チャールズ2世生存中から、チャールズ亡きあとの王位継承には、カトリックのジェームズの代わりに、プロテスタントの王としてモンマス公を押す政治家も多く、特にウィッグ(Whig)と称されるグループは、強行にジェームズを王位継承から排除しようと必死。議会は、この意向を通す気配であったのに対し、チャールズ2世は一貫して弟の王位継承権を支持。1679年、ついに、チャールズ2世は、この件を巡って議会を解散させるに至ります。モンマスと、ウィッグのメンバー数人はは、この後、オランダへ亡命。これは、王位継承排斥危機(Exclusion Crisis)として知られています。さて、ジェームズが王位を継いだ直後、モンマスは、亡命先のオランダから兵を率いて、イングランドのドーセット州、ライム・レジスに上陸。北へと軍を進め、最終的には、7月に、サマセット州のセッジムーアの戦いで、王の軍に敗れ、モンマスは、捕まり、タワーヒル処刑場にて頭をちょん切られ処刑。とりあえず、この事件は、一件落着。
やはり1685年の10月には、フランスのルイ14世が、ナント勅令を廃止。このナント勅令とは、フランスでのカトリックとプロテスタントの血で血を洗ういさかいを治めるため、1598年に、良王と称されたアンリ4世が出した、プロテスタントの信仰の自由を認めた勅令。ルイ14世がこれを廃止したため、多くのフランスのプロテスタント信者(ユグノー)がオランダ、イングランドを含む、近隣のプロテスタントの国へと亡命。これが、また、イングランドの市民の間で、カトリックのジェームズに対する不信感を煽ぎます。ジェームズ2世とルイ14世は、いとこ同士の仲良しでしたし。
そして、1688年。ジェームズの2番目の妻で、イタリアのモデナ公国出身の敬虔なカトリック信者、メアリー・オブ・モデナが、男児ジェームズ・フランシスを出産。これによって、ジェームズ2世のプロテスタントの娘たち、メアリーとアンを退け、カトリックのこの子が、王位継承第一位となるのです。もともと、継母が嫌いであった、メアリーも、アンも不満を隠しきれず、新しく生まれた世継ぎは、実は本当の王の子供ではなく、誰かが女王の寝室の中に、隠して連れて行った替え玉であるという噂も流れる始末。これには、最初は、ジェームズ2世を支持していた、トーリー(Tory)と呼ばれる政治家グループの間にも、「この王を、なんとかせねば。」と、思うものも出て、冒頭に書いた「不滅の7人」(ウィッグ5人、トーリー2人)が、カトリックの世継ぎ誕生の3週間後、ジェームズ2世の娘婿でもあり、甥でもある、ウィリアムに「イングランドに侵入して下さい」のお願い手紙にサインすることとなるのです。ちなみに、ウィッグとトーリーは、政党として発展し、イギリス議会の2党政治が始まります。
「不滅の7人」のお願いに答え、ウィリアムは、11月5日、大勢の兵を引き連れ、ドーセット州の漁村の、博物館にあった石の上に降り立つのです。ウィリアムにとって、ルイ14世のフランスは敵国であり、フランスがイギリスと組して、オランダへ圧力をかけてくるのを抑える目的もあり。自分がイギリスの王様になってしまえば、オランダとイギリスで、カトリックのフランスに対抗できるわけですから。
ジェームズ2世は、ウィリアムの軍を迎え撃つため、ソールズベリー平原まで兵を進めたものの、清教徒革命後に頭を切られた父親チャールズ1世が頭に浮かんだか、怖気づいてしまい、鼻血が止まらなくなり、ロンドンへと逃げ帰るのです。王の軍の将軍であったジョン・チャーチル(ウィンストン・チャーチルのご先祖様)も、次女アンも、この後、ジェームズを捨て、ウィリアム側につき、ジェームズ2世は、妻子とも、フランスへ亡命。よって、ほとんど流血なしに、イギリスがカトリックの王を処分したため、「The Glorious Revolution、名誉革命」と呼ばれるようになるのです。ウィリアムは、ウィリアム3世として、妻メアリー(メアリー2世)と共同で王座につくこととなります。ホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウスにて、正式に、王座につくことの依頼を受けた、二人の戴冠式は、1689年の春、ウェストミンスター寺院で執り行われます。
この騒動に懲りたイギリス議会は、この後、イギリスの王様が、自由に税金を収集する権利、また、王が直属の軍隊を有する権利を排除します。そして、これ以来、カトリック信者は王になれず、また、王はカトリック信者と結婚することも許されない、という規則もしき。
二人が王座についたのと時をほぼ同じくして、ジェームズ2世は、フランスの兵を率いて、アイルランドへ上陸し、アイルランドのカトリック勢と組して、最後の抵抗。最終的には、迎え撃つプロテスタントの軍に 、ボイン川の戦いで敗れ、ジェームズは再び、すたこらフランスへ逃げ帰り、1701年に、フランスで死去。アイルランドにおける、カトリックとプロテスタントの対峙は、いまだ、延々と続いています。
こうして、名誉革命で、王座についたウィリアムとメアリー。当時のロンドンの王の宮殿であった、ウェストミンスターのホワイトホール宮殿(現在は官庁街のホワイトホールのある場所)が、川辺にあり、じめじめと暗く、二人ともこの宮殿を嫌い、更には、喘息もちであったウィリアムは、もっと空気の良い場所に引っ越したいというのも手伝い、当時はまだ、のどなか雰囲気のロンドン西部の郊外、ケンジントンにあった屋敷を買い取り、ケンジントン宮殿として、改造を行い、夫妻のロンドンのメインの館はこちらになります。特別な式典のみにしか使われなくなったホワイトホール宮殿は、1698年に発生した火災で焼失。この宮殿の中で、今でも残るのは、バンケティング・ハウスのみです。
ということで、ウィリアムとメアリーが移り住んで以来、王家の館となった、ケンジントン宮殿内部観光に出かけました。
これは、1688年11月5日、ウィリアム3世が、イングランドの漁村Brixhamに上陸したときに、最初に、足を踏み込んだ石である。ウィリアムは、義理の父であるジェームズ2世をイングランドの王座から退かせ、また、ジェームズ2世とフランスのルイ14世が、共同でオランダに脅威を与えるのを防ぐため、イングランドに侵略した。この事件は、「The Glorious Revolution」(輝ける革命、名誉革命)と称され、大成功を収めた。
とありました。
イングランドに侵略・・・とはあるものの、歴史上「Immortal Seven」(不滅の7人)と呼ばれる、当時のイングランド社会のエリート7人が集まって、「どうか、イングランドに侵入してきて下さい。」と、わざわざ、オランダ総督、オレンジ公ウィリアムにお願いの手紙を書き送り、それに答えて、ウィリアムが、海を渡ってやって来たのです。さて、何故に、イングランドは、わざわざオランダから王様を呼ぶ羽目になったのか・・・
王政復古で王座に返り咲いたスチュアート朝のチャールズ2世は、ネル・グウィンなども含め、妾はごちゃまんとおり、私生児もたくさん残したものの、正妻キャサリン・オブ・ブラガンザとの間に子供がなく、1685年2月に、世継ぎ無く、世を去ります。そのため、王座は、カトリック教徒であった、弟ジェームズ2世へ。
ジェームズ2世 |
が、それもつかの間、ジェームズ2世は、徐々に、イングランドをカトリックの国に変え、太陽王、ルイ14世が幅を利かせる、フランスの様な絶対王政の国にしようという気配が見せ始めるのです。徐々に、イングランド内には、王の態度に不安と不満を感じる者が増えていく。
ジェームズの治世の、まず第一の危機は、即位した同年の6月に起こるモンマスの反乱(Monmouth Rebelion)。モンマス公(Duke of Monmouth)は、チャールズ2世の一番最初の私生児で、プロテスタント。チャールズ2世生存中から、チャールズ亡きあとの王位継承には、カトリックのジェームズの代わりに、プロテスタントの王としてモンマス公を押す政治家も多く、特にウィッグ(Whig)と称されるグループは、強行にジェームズを王位継承から排除しようと必死。議会は、この意向を通す気配であったのに対し、チャールズ2世は一貫して弟の王位継承権を支持。1679年、ついに、チャールズ2世は、この件を巡って議会を解散させるに至ります。モンマスと、ウィッグのメンバー数人はは、この後、オランダへ亡命。これは、王位継承排斥危機(Exclusion Crisis)として知られています。さて、ジェームズが王位を継いだ直後、モンマスは、亡命先のオランダから兵を率いて、イングランドのドーセット州、ライム・レジスに上陸。北へと軍を進め、最終的には、7月に、サマセット州のセッジムーアの戦いで、王の軍に敗れ、モンマスは、捕まり、タワーヒル処刑場にて頭をちょん切られ処刑。とりあえず、この事件は、一件落着。
やはり1685年の10月には、フランスのルイ14世が、ナント勅令を廃止。このナント勅令とは、フランスでのカトリックとプロテスタントの血で血を洗ういさかいを治めるため、1598年に、良王と称されたアンリ4世が出した、プロテスタントの信仰の自由を認めた勅令。ルイ14世がこれを廃止したため、多くのフランスのプロテスタント信者(ユグノー)がオランダ、イングランドを含む、近隣のプロテスタントの国へと亡命。これが、また、イングランドの市民の間で、カトリックのジェームズに対する不信感を煽ぎます。ジェームズ2世とルイ14世は、いとこ同士の仲良しでしたし。
そして、1688年。ジェームズの2番目の妻で、イタリアのモデナ公国出身の敬虔なカトリック信者、メアリー・オブ・モデナが、男児ジェームズ・フランシスを出産。これによって、ジェームズ2世のプロテスタントの娘たち、メアリーとアンを退け、カトリックのこの子が、王位継承第一位となるのです。もともと、継母が嫌いであった、メアリーも、アンも不満を隠しきれず、新しく生まれた世継ぎは、実は本当の王の子供ではなく、誰かが女王の寝室の中に、隠して連れて行った替え玉であるという噂も流れる始末。これには、最初は、ジェームズ2世を支持していた、トーリー(Tory)と呼ばれる政治家グループの間にも、「この王を、なんとかせねば。」と、思うものも出て、冒頭に書いた「不滅の7人」(ウィッグ5人、トーリー2人)が、カトリックの世継ぎ誕生の3週間後、ジェームズ2世の娘婿でもあり、甥でもある、ウィリアムに「イングランドに侵入して下さい」のお願い手紙にサインすることとなるのです。ちなみに、ウィッグとトーリーは、政党として発展し、イギリス議会の2党政治が始まります。
ウィリアム3世 |
ジェームズ2世は、ウィリアムの軍を迎え撃つため、ソールズベリー平原まで兵を進めたものの、清教徒革命後に頭を切られた父親チャールズ1世が頭に浮かんだか、怖気づいてしまい、鼻血が止まらなくなり、ロンドンへと逃げ帰るのです。王の軍の将軍であったジョン・チャーチル(ウィンストン・チャーチルのご先祖様)も、次女アンも、この後、ジェームズを捨て、ウィリアム側につき、ジェームズ2世は、妻子とも、フランスへ亡命。よって、ほとんど流血なしに、イギリスがカトリックの王を処分したため、「The Glorious Revolution、名誉革命」と呼ばれるようになるのです。ウィリアムは、ウィリアム3世として、妻メアリー(メアリー2世)と共同で王座につくこととなります。ホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウスにて、正式に、王座につくことの依頼を受けた、二人の戴冠式は、1689年の春、ウェストミンスター寺院で執り行われます。
この騒動に懲りたイギリス議会は、この後、イギリスの王様が、自由に税金を収集する権利、また、王が直属の軍隊を有する権利を排除します。そして、これ以来、カトリック信者は王になれず、また、王はカトリック信者と結婚することも許されない、という規則もしき。
二人が王座についたのと時をほぼ同じくして、ジェームズ2世は、フランスの兵を率いて、アイルランドへ上陸し、アイルランドのカトリック勢と組して、最後の抵抗。最終的には、迎え撃つプロテスタントの軍に 、ボイン川の戦いで敗れ、ジェームズは再び、すたこらフランスへ逃げ帰り、1701年に、フランスで死去。アイルランドにおける、カトリックとプロテスタントの対峙は、いまだ、延々と続いています。
こうして、名誉革命で、王座についたウィリアムとメアリー。当時のロンドンの王の宮殿であった、ウェストミンスターのホワイトホール宮殿(現在は官庁街のホワイトホールのある場所)が、川辺にあり、じめじめと暗く、二人ともこの宮殿を嫌い、更には、喘息もちであったウィリアムは、もっと空気の良い場所に引っ越したいというのも手伝い、当時はまだ、のどなか雰囲気のロンドン西部の郊外、ケンジントンにあった屋敷を買い取り、ケンジントン宮殿として、改造を行い、夫妻のロンドンのメインの館はこちらになります。特別な式典のみにしか使われなくなったホワイトホール宮殿は、1698年に発生した火災で焼失。この宮殿の中で、今でも残るのは、バンケティング・ハウスのみです。
ということで、ウィリアムとメアリーが移り住んで以来、王家の館となった、ケンジントン宮殿内部観光に出かけました。
名誉革命を今どきここまで美化してるなんてねw
返信削除美化???特に個人的に、意見はなく、良し悪し書いてないんだけどねー。
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