ケンジントン宮殿内観光
以前の記事でも書いた記憶があるのですが、ケンジントン宮殿というと、どうしても思い出してしまう逸話があります・・・
ダイアナ妃が亡くなったのは、1997年8月のことでした。当時、私は、ノッティング・ヒル・ゲイト駅近くの安アパートに住んでおり、彼女が住んでいたケンジントン宮殿(Kensington Palace)と、かつては、宮殿の広大な庭であった、ハイドパークの西に隣接するケンジントン・ガーデンズは、家から、歩いて5分足らずと、すぐそばでした。よって、ダイアナはご近所さんだったのです。などと、言っても、当然、すれ違ったことはないですけどね。たしか、この日は、土曜か、日曜日で、会社に行く必要もなく、かなり遅く起きだして、ラジオも入れず、テレビもつけずに、よって、ニュースは一切聞かなかったのです。ごそごそ遅い朝食を食べて、腹ごなしにケンジントン・ガーデンズでも散歩しようかと外へ出ました。
途中、目抜き通りを歩いていた時、花束をかかえ、ケンジントン・ガーデンズ方向へ歩いて行く女性を2、3見かけました。「なんだろね。」と思いながら、ダイアナがコーヒーのテイク・アウェイを時にしており、オーナーが、大のダイアナ・ファンであったカフェ・ダイアナの前を通りかかった時、店のウィンドウに、黒縁のついた、巨大なダイアナの写真が飾ってあり、写真の下に、「ダイアナ妃の冥福をお祈りします」の様な一文が入っていたのです。背中の毛が、逆立ったのを覚えています。JFKが暗殺された時、人は皆、ニュースを聞いたとき、自分がどこにいたか覚えている、などと良く言われますが、私も、このダイアナ死亡を知った瞬間の事は、忘れないです。
大急ぎで、ケンジントン宮殿前に行くと、すでに積み上げられ始めた花束の山。家に戻ってから、テレビをつけて、彼女の事故の話を、やっと聞いた次第。花束は、日々、数を増していき、周辺をむせるような花の香りで埋めていました。この辺りを歩くと、今もあの時の光景が思い出されます。あれから、もうかなり時が経ったのですが。
そんな、近くに住んでいた事がありながら、ケンジントン宮殿は、一度も内部の観光に入ったことがなかったのです。ハンプトンコート宮殿やウィンザー城は、初めてイギリスに来てすぐに訪れたのですが。おそらく、人から、「ちょっと、ちゃちい。」とか、「大したことない。」とかいう噂を聞いてきたからだと思います。周辺の散歩はよーくしたし、ケンジントン・ガーデンズ内北西部にある戸外のカフェで、のんびりお茶飲んだりもしていたのですが。
ケンジントン宮殿内部は、昔は、混とんとしており、整備もいまひとつで、内部で、ぐるぐる巡って迷子になる人もいたり、見れない部屋も多く、改善の余地がかなりあったのだそうです。2005年に、これを何とかしようという企画がもちあがり、2012年に、改造された新しい観光地として再オープン。観光客用の正面玄関も、以前の、わかりにくかった北側から広々とした東側に変わり。今までオフィスになっていた歴史的部屋のいくつかも、一般公開され、まぎらわしかった観光客用のルートも整備されたそうです。私も、今更ながら、先日、やっと内部観光に出かけました。
ここで、ざっと宮殿の歴史と、ここに住んだ、(そして死んだ)王侯貴族たちの名に触れておきます。
この館が王家の住まいとしての歴史が始まるのは、名誉革命(1688/1689)で王座についた、ウィリアム3世とメアリー2世の時代から。喘息もちで、川沿いのホワイトホール宮殿に住むのを嫌がったウィリアムは、ロンドン西郊外のケンジントンにあったノッティンガム・ハウスという屋敷を購入。建築家クリストファー・レンに改造を依頼し、レンは即効で仕事にかかり、1692年までには、ほぼ完成したのだそうですが、1694年の終わりに、メアリーは、32歳で、天然痘にかかり死亡。政略結婚として始まった、この二人の結婚生活。ウィリアムとの結婚を知らされた時のメアリーは、年もかなり上の、醜いオランダ人と結婚して、違う言葉を話す外国に住むなんて・・・と嘆いて泣いたそうです。ウィリアムは、ウィリアムで、ホモの気があったという説もあります。結果的に、結婚後の二人は、仲睦まじかったそうで、メアリーが、おそらく死ぬだろうと知らされたウィリアム3世は、嘆き悲しみ、メアリーが息を引き取るまで、妻の寝室のベッド際に陣取り、寝泊まりしたそうです。
妻の死後のウィリアムは、ケンジントン改築への意欲を無くしたものの、クリストファー・レンの優秀なアシスタントであったニコラス・ホークスモアを使い、南側にキングス・ギャラリーなどを付け足しています。乗馬の好きなウィリアムは、ハンプトンコート宮殿での乗馬中に落馬し、数日後、ケンジントン宮殿で息を引き取ります。
という事で、宮殿南側には、ウィリアム3世の像が立っています。
子供のいなかったウィリアムとメアリーの後を継いで王座についたのは、メアリーの妹のアン女王(在位1702-1714)。彼女の時代は、宮殿内部より庭の改造が行われ、宮殿北側に、ニコラス・ホークスモアによるオランジャリーが建てられるのも彼女の時代。これは、もともと、アン女王のオレンジの木を育てるための温室であったものですが、内部で舞踏会や式典なども行われ。現在は、ちょっとお値段お高めのカフェ・レストランとなっています。17回も妊娠をしながら、成人に至る子孫を残さなかったアン女王亡きあと、王座は、ドイツ、ハノーヴァー家へと渡り、ハノーヴァー家ジョージ1世がイギリスにやって来るのです。
ジョージ1世(在位1714年ー1727年)の時代に、大幅の改造がなされ、ローマから帰って来たばかりで、頭角を見せ始めた、新進気鋭のウィリアム・ケントが、天井画を始め、数々の装飾を司り、拡大作業の指揮も行います。
ケンジントン宮殿が王宮として、もっとも華やかであったのは、ジョージ2世(1727-1760)の時代。王は、非常に聡明であったというキャロライン女王と共に、宮殿で、盛んに、式典や社交行事が催します。もっとも、女王が1737年に亡くなってしまうと、そうした催しも多少のきらめきを失い、ジョージ2世も、いささか消沈してしまったということ。彼の死も、やはりケンジントン宮殿で起こり、ある朝、いつも通り、一人、トイレに座っていたジョージ2世。召使が、大きな音がしたので、駆け寄ると、トイレの下で、床に倒れた王様を発見した、といういささか、情けない最後。
ジョージ3世は、ほとんどケンジントン宮殿には寄り付かず、宮殿は、ジョージ3世の二人の息子の住処となります。一人は、非常に国民に人気であったというサセックス公。そして、もう一人は、ヴィクトリア女王のパパ、ケント公。人気のサセックス公が亡くなった時、国民は、ダイアナ妃の死の時のような嘆きを示し、大勢の市民が、ケンジントン宮殿に押し寄せたというのです。今では、一般人には、ほとんど知られていない人ですが。
ヴィクトリア女王は、ケンジントン宮殿で、1819年に誕生。父のケント公が、死んでしまった後は、母と、母に影響力を振るうジョン・コンロイの下、「ケンジントン・システム」と称される、窮屈なしきたりと規律の中で、育てられます。(これに関しては、詳しくは、以前の記事「若き日のヴィクトリア」まで。)叔父であったウィリアム4世が亡くなり、18歳にして王座につくことになった事実を知らされるのも、この宮殿。女王になると、ヴィクトリアは、嫌な幼少の思い出残る宮殿を去り、バッキンガム宮殿へと移るのですが。
19世紀後半になってからは、ヴィクトリア女王の娘二人、芸術家であったルイーズ王女と、ビアトリス王女が移り住みます。また、後に、ヴィクトリア女王の孫娘たちも何人かケンジントン宮殿を住処とし。宮殿東側に立つ、若き日のヴィクトリア女王の像は、ルイーズ王女によるもの。
また、1912年からは、一部、ロンドン博物館として、使用され始め、1976年に、博物館は、現在の場所、ロンドンのシティー内へと移動します。
1960年代になると、現エリザベス女王の妹で、美貌で知られたマーガレット王女もケンジントン宮殿に移り住み、後、ご存じダイアナ妃も、ここがロンドンのおうちとなるのです。
さて、それえは、新しく東側にできた観光客用入り口から入場。現在、内部は、
The King's State Apartments
The Queen's State Apartments
Victoria Revealed
Modern Royals
の4つの観光ルートに分かれて、整理されています。
The King's State Apartments
一番、宮殿というイメージの強い部分で、特にウィリアム・ケントが、クリストファー・レンのシンプルなオークのパネルを取り除いて、一面に、当時の宮廷に使える者たちを描いた壁画のあるThe King's Staircase(王様の階段)が、特に、よく取りざたされます。
イタリアで学んだウィリアム・ケント。ちょっとイタリア風の装飾を持ち込み、The Cupola Roomと呼ばれる部屋の天井もゴージャス。
宮廷が、最も華やかなりしジョージ2世時代のドレスなども展示されています。
宮殿南側に、ウィリアム3世が作らせた、The King's Galleryも、後のジョージ王朝時代になってから、やはり、ウィリアム・ケントの手で装飾されなおされています。
ここの壁にかかる一見地図のようなこの代物は、宮殿の屋根にある風向計と繋がれていて、風向きがわかるようになっている「wind dial」。1694年にウィリアム3世が作らせたもので、これを見て、敵国が海を渡りイギリスに侵入してくるのに良い風向きかどうかを知ることができ、警戒態勢を取れたとか。ロシアのピョートル大帝がウィリアムを訪ねてケンジントン宮殿にやって来た時、他の何よりも、この風向ダイヤルに興味深々であったという事です。
The Queen's State Apartments
こちらは、王様のアパートメント部分より、もちょっと地味で落ち着いた感じ。マントルピースの上には、メアリー2世が趣味で集めたという、陶器コレクションの一部が飾られていました。彼女は、合計787の陶器を宮殿内に飾っていたのだそうで、掃除する人は大変だったでしょう。
Victoria Revealed
こちらは、ヴィクトリアの若かりし日々の面影をたどるコース。
ここの階段の上から、ヴィクトリアは、初めて、後に夫となる、ドイツ人で、いとこのアルバートを見て、「彼はとてもハンサム」と気に入り、印象を日記にしたためることとなります。
1837年6月20日の朝6時、18歳にして女王となったニュースを知らされたのもこの宮殿で、女王は、その日の朝、宮殿内にて、初めての枢密院会議(Privy Council)に出席。上述の通り、女王となってすぐに、ここを去り、バッキンガム宮殿へと移ってしまうのですが。
1819年に、ヴィクトリアが生まれた部屋。
彼女が子供のころの人形の家などもありますが、部屋が1階と2階のふたつだけ。下が、召使の働く巨大台所で、上は館の主がくつろぐ居間。当時、階級システムは当然のものとして、遊び道具にも反映され。
アルバート公が死んでしまってからのおなじみ喪服も展示されていました。若いころのドレスと比べると、ウェストラインが大幅に広がってました。背はかなり低い人で、若いころのドレスなどは、私も着れそうな感じ。
Modern Royals
このルートは、主に、ファッション・アイコンとして知られた二人、プリンセス・マーガレットとダイアナ妃のドレスが見ものです。デザインとしては、ちょっとレトロ感があり、シックな、マーガレット王女のものの方が好きです。ダイアナ妃は、ドレスを見て、いかに背が高くすらりとした人であったかわかります。若き日のビクトリア女王のドレスは着れても、ダイアナ妃のドレスなんぞ着たら、裾が軽く30センチは引きずることとなるでしょう。
という事で、過去よりずっと観光地として見やすくなり、その歴史も把握しやすく工夫されているケンジントン宮殿内の、駆け足観光案内でした。ロンドンを訪れ、ケンジントン・ガーデンズをそぞろ歩いた後には、足を延ばしてみてください。お天気の日には、外にも出れる、付属カフェも、明るく、清潔で居心地が良かったです。オランジェリーの超高いメニューよりは、庶民派値段ですし。
ダイアナ妃が亡くなったのは、1997年8月のことでした。当時、私は、ノッティング・ヒル・ゲイト駅近くの安アパートに住んでおり、彼女が住んでいたケンジントン宮殿(Kensington Palace)と、かつては、宮殿の広大な庭であった、ハイドパークの西に隣接するケンジントン・ガーデンズは、家から、歩いて5分足らずと、すぐそばでした。よって、ダイアナはご近所さんだったのです。などと、言っても、当然、すれ違ったことはないですけどね。たしか、この日は、土曜か、日曜日で、会社に行く必要もなく、かなり遅く起きだして、ラジオも入れず、テレビもつけずに、よって、ニュースは一切聞かなかったのです。ごそごそ遅い朝食を食べて、腹ごなしにケンジントン・ガーデンズでも散歩しようかと外へ出ました。
途中、目抜き通りを歩いていた時、花束をかかえ、ケンジントン・ガーデンズ方向へ歩いて行く女性を2、3見かけました。「なんだろね。」と思いながら、ダイアナがコーヒーのテイク・アウェイを時にしており、オーナーが、大のダイアナ・ファンであったカフェ・ダイアナの前を通りかかった時、店のウィンドウに、黒縁のついた、巨大なダイアナの写真が飾ってあり、写真の下に、「ダイアナ妃の冥福をお祈りします」の様な一文が入っていたのです。背中の毛が、逆立ったのを覚えています。JFKが暗殺された時、人は皆、ニュースを聞いたとき、自分がどこにいたか覚えている、などと良く言われますが、私も、このダイアナ死亡を知った瞬間の事は、忘れないです。
大急ぎで、ケンジントン宮殿前に行くと、すでに積み上げられ始めた花束の山。家に戻ってから、テレビをつけて、彼女の事故の話を、やっと聞いた次第。花束は、日々、数を増していき、周辺をむせるような花の香りで埋めていました。この辺りを歩くと、今もあの時の光景が思い出されます。あれから、もうかなり時が経ったのですが。
そんな、近くに住んでいた事がありながら、ケンジントン宮殿は、一度も内部の観光に入ったことがなかったのです。ハンプトンコート宮殿やウィンザー城は、初めてイギリスに来てすぐに訪れたのですが。おそらく、人から、「ちょっと、ちゃちい。」とか、「大したことない。」とかいう噂を聞いてきたからだと思います。周辺の散歩はよーくしたし、ケンジントン・ガーデンズ内北西部にある戸外のカフェで、のんびりお茶飲んだりもしていたのですが。
ケンジントン宮殿内部は、昔は、混とんとしており、整備もいまひとつで、内部で、ぐるぐる巡って迷子になる人もいたり、見れない部屋も多く、改善の余地がかなりあったのだそうです。2005年に、これを何とかしようという企画がもちあがり、2012年に、改造された新しい観光地として再オープン。観光客用の正面玄関も、以前の、わかりにくかった北側から広々とした東側に変わり。今までオフィスになっていた歴史的部屋のいくつかも、一般公開され、まぎらわしかった観光客用のルートも整備されたそうです。私も、今更ながら、先日、やっと内部観光に出かけました。
ここで、ざっと宮殿の歴史と、ここに住んだ、(そして死んだ)王侯貴族たちの名に触れておきます。
この館が王家の住まいとしての歴史が始まるのは、名誉革命(1688/1689)で王座についた、ウィリアム3世とメアリー2世の時代から。喘息もちで、川沿いのホワイトホール宮殿に住むのを嫌がったウィリアムは、ロンドン西郊外のケンジントンにあったノッティンガム・ハウスという屋敷を購入。建築家クリストファー・レンに改造を依頼し、レンは即効で仕事にかかり、1692年までには、ほぼ完成したのだそうですが、1694年の終わりに、メアリーは、32歳で、天然痘にかかり死亡。政略結婚として始まった、この二人の結婚生活。ウィリアムとの結婚を知らされた時のメアリーは、年もかなり上の、醜いオランダ人と結婚して、違う言葉を話す外国に住むなんて・・・と嘆いて泣いたそうです。ウィリアムは、ウィリアムで、ホモの気があったという説もあります。結果的に、結婚後の二人は、仲睦まじかったそうで、メアリーが、おそらく死ぬだろうと知らされたウィリアム3世は、嘆き悲しみ、メアリーが息を引き取るまで、妻の寝室のベッド際に陣取り、寝泊まりしたそうです。
妻の死後のウィリアムは、ケンジントン改築への意欲を無くしたものの、クリストファー・レンの優秀なアシスタントであったニコラス・ホークスモアを使い、南側にキングス・ギャラリーなどを付け足しています。乗馬の好きなウィリアムは、ハンプトンコート宮殿での乗馬中に落馬し、数日後、ケンジントン宮殿で息を引き取ります。
という事で、宮殿南側には、ウィリアム3世の像が立っています。
子供のいなかったウィリアムとメアリーの後を継いで王座についたのは、メアリーの妹のアン女王(在位1702-1714)。彼女の時代は、宮殿内部より庭の改造が行われ、宮殿北側に、ニコラス・ホークスモアによるオランジャリーが建てられるのも彼女の時代。これは、もともと、アン女王のオレンジの木を育てるための温室であったものですが、内部で舞踏会や式典なども行われ。現在は、ちょっとお値段お高めのカフェ・レストランとなっています。17回も妊娠をしながら、成人に至る子孫を残さなかったアン女王亡きあと、王座は、ドイツ、ハノーヴァー家へと渡り、ハノーヴァー家ジョージ1世がイギリスにやって来るのです。
ジョージ1世(在位1714年ー1727年)の時代に、大幅の改造がなされ、ローマから帰って来たばかりで、頭角を見せ始めた、新進気鋭のウィリアム・ケントが、天井画を始め、数々の装飾を司り、拡大作業の指揮も行います。
ケンジントン宮殿が王宮として、もっとも華やかであったのは、ジョージ2世(1727-1760)の時代。王は、非常に聡明であったというキャロライン女王と共に、宮殿で、盛んに、式典や社交行事が催します。もっとも、女王が1737年に亡くなってしまうと、そうした催しも多少のきらめきを失い、ジョージ2世も、いささか消沈してしまったということ。彼の死も、やはりケンジントン宮殿で起こり、ある朝、いつも通り、一人、トイレに座っていたジョージ2世。召使が、大きな音がしたので、駆け寄ると、トイレの下で、床に倒れた王様を発見した、といういささか、情けない最後。
ジョージ3世は、ほとんどケンジントン宮殿には寄り付かず、宮殿は、ジョージ3世の二人の息子の住処となります。一人は、非常に国民に人気であったというサセックス公。そして、もう一人は、ヴィクトリア女王のパパ、ケント公。人気のサセックス公が亡くなった時、国民は、ダイアナ妃の死の時のような嘆きを示し、大勢の市民が、ケンジントン宮殿に押し寄せたというのです。今では、一般人には、ほとんど知られていない人ですが。
ヴィクトリア女王は、ケンジントン宮殿で、1819年に誕生。父のケント公が、死んでしまった後は、母と、母に影響力を振るうジョン・コンロイの下、「ケンジントン・システム」と称される、窮屈なしきたりと規律の中で、育てられます。(これに関しては、詳しくは、以前の記事「若き日のヴィクトリア」まで。)叔父であったウィリアム4世が亡くなり、18歳にして王座につくことになった事実を知らされるのも、この宮殿。女王になると、ヴィクトリアは、嫌な幼少の思い出残る宮殿を去り、バッキンガム宮殿へと移るのですが。
19世紀後半になってからは、ヴィクトリア女王の娘二人、芸術家であったルイーズ王女と、ビアトリス王女が移り住みます。また、後に、ヴィクトリア女王の孫娘たちも何人かケンジントン宮殿を住処とし。宮殿東側に立つ、若き日のヴィクトリア女王の像は、ルイーズ王女によるもの。
また、1912年からは、一部、ロンドン博物館として、使用され始め、1976年に、博物館は、現在の場所、ロンドンのシティー内へと移動します。
1960年代になると、現エリザベス女王の妹で、美貌で知られたマーガレット王女もケンジントン宮殿に移り住み、後、ご存じダイアナ妃も、ここがロンドンのおうちとなるのです。
さて、それえは、新しく東側にできた観光客用入り口から入場。現在、内部は、
The King's State Apartments
The Queen's State Apartments
Victoria Revealed
Modern Royals
の4つの観光ルートに分かれて、整理されています。
The King's State Apartments
一番、宮殿というイメージの強い部分で、特にウィリアム・ケントが、クリストファー・レンのシンプルなオークのパネルを取り除いて、一面に、当時の宮廷に使える者たちを描いた壁画のあるThe King's Staircase(王様の階段)が、特に、よく取りざたされます。
イタリアで学んだウィリアム・ケント。ちょっとイタリア風の装飾を持ち込み、The Cupola Roomと呼ばれる部屋の天井もゴージャス。
宮廷が、最も華やかなりしジョージ2世時代のドレスなども展示されています。
宮殿南側に、ウィリアム3世が作らせた、The King's Galleryも、後のジョージ王朝時代になってから、やはり、ウィリアム・ケントの手で装飾されなおされています。
ここの壁にかかる一見地図のようなこの代物は、宮殿の屋根にある風向計と繋がれていて、風向きがわかるようになっている「wind dial」。1694年にウィリアム3世が作らせたもので、これを見て、敵国が海を渡りイギリスに侵入してくるのに良い風向きかどうかを知ることができ、警戒態勢を取れたとか。ロシアのピョートル大帝がウィリアムを訪ねてケンジントン宮殿にやって来た時、他の何よりも、この風向ダイヤルに興味深々であったという事です。
The Queen's State Apartments
こちらは、王様のアパートメント部分より、もちょっと地味で落ち着いた感じ。マントルピースの上には、メアリー2世が趣味で集めたという、陶器コレクションの一部が飾られていました。彼女は、合計787の陶器を宮殿内に飾っていたのだそうで、掃除する人は大変だったでしょう。
Victoria Revealed
こちらは、ヴィクトリアの若かりし日々の面影をたどるコース。
ここの階段の上から、ヴィクトリアは、初めて、後に夫となる、ドイツ人で、いとこのアルバートを見て、「彼はとてもハンサム」と気に入り、印象を日記にしたためることとなります。
1837年6月20日の朝6時、18歳にして女王となったニュースを知らされたのもこの宮殿で、女王は、その日の朝、宮殿内にて、初めての枢密院会議(Privy Council)に出席。上述の通り、女王となってすぐに、ここを去り、バッキンガム宮殿へと移ってしまうのですが。
1819年に、ヴィクトリアが生まれた部屋。
彼女が子供のころの人形の家などもありますが、部屋が1階と2階のふたつだけ。下が、召使の働く巨大台所で、上は館の主がくつろぐ居間。当時、階級システムは当然のものとして、遊び道具にも反映され。
アルバート公が死んでしまってからのおなじみ喪服も展示されていました。若いころのドレスと比べると、ウェストラインが大幅に広がってました。背はかなり低い人で、若いころのドレスなどは、私も着れそうな感じ。
Modern Royals
このルートは、主に、ファッション・アイコンとして知られた二人、プリンセス・マーガレットとダイアナ妃のドレスが見ものです。デザインとしては、ちょっとレトロ感があり、シックな、マーガレット王女のものの方が好きです。ダイアナ妃は、ドレスを見て、いかに背が高くすらりとした人であったかわかります。若き日のビクトリア女王のドレスは着れても、ダイアナ妃のドレスなんぞ着たら、裾が軽く30センチは引きずることとなるでしょう。
という事で、過去よりずっと観光地として見やすくなり、その歴史も把握しやすく工夫されているケンジントン宮殿内の、駆け足観光案内でした。ロンドンを訪れ、ケンジントン・ガーデンズをそぞろ歩いた後には、足を延ばしてみてください。お天気の日には、外にも出れる、付属カフェも、明るく、清潔で居心地が良かったです。オランジェリーの超高いメニューよりは、庶民派値段ですし。
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