ピルグリム・ファーザーズと感謝祭

1620年、イングランド、デボン州プリマスを出発したメイフラワー号。乗組員の多くは、ピューリタン(清教徒)と称された、厳格なキリスト教プロテスタントの信者達。神は絶対であり、王者の上に君臨すると信じる彼らは、当時の王、ジェームズ1世に疑惑の眼を向けられていました。そうした一部のピューリタン達は、糾弾を恐れ、信仰の自由を求めるため、大西洋を渡って新地へと向かう事に。

2ヶ月かかったぎゅうぎゅうずめの船旅の後、たどり着いたのは、北米、現マサチューセッツ州プリマス沖の有名なプリマス・ロック。この北米プリマスに住んでいた原住のインディアンたちは、数年前に、フランス人の漁師達からうつされた黒死病(ペスト)により、ほとんど死に絶えており、ピューリタン達の観点からすれば、「神がわれ等のために、この土地を空けてくれた。」といったところ。

それでも、彼らがこの地に辿りついたのは、寒い冬迫る12月とあって、メイフラワーの乗客の半分は、この最初の冬に死亡する事となります。生き残ったものたちは、黒死病で死んだ原住インディアンたちが貯蔵してあった穀物等を食べ細々食いつなぐのです。

そして、近郊のインディアン部族の数人から、この比較的土壌の貧しい土地で、いかに穀物、野菜を栽培するかのノーハウを伝授してもらい、翌5月に植えた穀物を、11月には見事に収穫。とくに英語を多少喋ったスクアントという名のインディアンには、かなり世話になるのです。新移住者達は11月の終わりに、無事穀物を実らせ、生き延びることができたことを感謝し、祝うため、スクアントを含め約100人ものインディアンたちも招き、七面鳥などのご馳走を用意し、集った・・・これが、アメリカで毎年11月の第4木曜日に行われる祝日、Thanksgiving Day(サンクスギビング・デー、感謝祭)の起源。

こうして始まったプリマス植民地ですが、比較的内向き社会で、外部の人間との結婚などもあまりなく、数年経っても人口はさほど増えないまま、やがて、近くの大きなマサチューセッツ植民地へ組み込まれることtなります。

余談とはなりますが、マサチューセッツ植民地で17世紀後半に起こるのが、悪名高き「セーラムの魔女狩り」。糾弾を逃れてやって来た者達が、今度は、省みることなく他者の糾弾に走る・・・良くある話で、コナン・ドイルの「緋色の研究」にも、モルモン教徒信者達が、ソルトレークシティーに落ち着いた後、戒律に従わないものへ、ひどい仕打ちを行う様子について、

The victims of persecution had now turned persecutors on their own account, and persecutors of the most terrible description.
糾弾を受けた被害者が、今や、自ら糾弾を行う側に回ったのだ。最も残忍なる糾弾者に。

というくだりがありましたっけ。

さて、メイフラワー号でたどり着いたプリマス植民地の開拓者達は、やがて、19世紀のアメリカで、アメリカの建国の父達であると崇められるようになり、ピルグリム・ファーザーズと呼ばれるようになります。感謝祭が、祝日となるのもこの頃から。プリグリム・ファーザー達がプリマス・ロックに降り立つ前に、すでに、ヴァージニアには植民地があったのにもかかわらず、ピルグリム・ファーザーズの到来が、アメリカ歴史の輝ける第1歩のような捕らえ方をされるようになるのです。

というのも、ヴァージニア植民地が、プリマス植民地に比べ、あまり好ましくない植民地であったためでしょう。ヴァージニアへの移住者は、主に独身男性で、比較的暴力沙汰が多く、周辺インディアンとの関係も悪かった。また、早期にタバコ栽培、それに伴う奴隷の使用が始まった場所であったため、アメリカとしては、どちらかというと、忘れてしまいたい、イメージいまいちの過去であるわけです。

国の歴史というのも、ある程度、歴史家や、政治家が作り得るものであるので、強調したい良い部分をファンファーレで前面に押し出し、これは、ちょっとな・・・とバツが悪く思える過去には、比較的言及しない、という処置を取る。まあ、これは、アメリカに限った事ではないですが。

確かに、感謝祭で七面鳥にありつく時、自分達のご先祖様として、富を追求し、奴隷を鞭打つヴァージニア移民達ではなく、神に導かれ、貧しい土地で黙々と苦難に耐えて働いたプルグリム・ファーザーズたちを思う方が、消化にはずっといいでしょうから。

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