みんなの水飲み場

水は人間が生きていく上で基本的なものですから、文明はすべて、水を与えてくれる川のそばに生まれ、発達してきたわけです。川が人口増加で汚染されるようになってからは、安全な飲料水を万人が飲めるようにするにはどうすればいいか、というのは重要な問題。

ロンドンを歩く時、道端で、今は使われていない、ヴィクトリア朝に作られた水飲み場(Drinking Fountain)に出くわすことがあります。今は、家庭では、水道をひねれば、じゃーと蛇口から、飲むに堪えうる水が出てくる、外に行けば、手軽にボトル入りの水や飲料が買えるとあって、公共の場所にある水飲み場というものが、かつては、どんなにありがたい存在であったかは、あまりピンときません。

19世紀、ロンドンの人口がどんどん増えていく中、水道会社というものはいくつかは存在したものの、その供給量も少なく、家庭に水を引く値段も高く、水質もあぶなっかしいものがありました。また、公共ポンプからの汚い飲み水が原因で、コレラなどの病気が広がったりすることもしばしば。

初の水飲み場設置のオープニング・セレモニー
そんな中、由緒正しき家系の、銀行家で、国会議員、慈善家でもあったサミュエル・ガーネイ(Samuel Gurney)の掛け声で、メトロポリタン・フリー・ドリンキング・ファウンテン・アソシエーション(Metropolitan Free Drinking Fountain Association、大都市無料水飲み場協会)が、1859年に設立され、浄水された清潔な水を、市民が無料で使用できる水飲み場の設置が始まるのです。

当団体により、最初に設置された水飲み場は、シティー・オブ・ロンドン内の、セント・セプルカ・ウィズアウト・ニューゲイト教会(St Sepulchre-without-Newgate)の脇にあります(上の写真)。これが、設置と共に大人気となり、1日平均約7千もの人々が使用。昔ながらの、鎖につながれたカップが、まだ設置されています。

この後、数年で、瞬く間に、こうした水飲み場の数は増えていきます。上の写真は、シェークスピアのファースト・フォリオの記念碑があるセント・メアリー・オールダーマンベリー教会の跡地の外に設置されている水飲み場。こちらもカップ付き。

やがて、1867年には、すでに1824年に設立されていた、動物を虐待から守るための、英国動物虐待防止協会(The Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals、イギリスでは、一般に略してRSPCAと呼ばれます)との協力で、人間様のみならず、牛や馬、犬などの動物が、飼い主が金を払うことなく、無料で水を飲める水入れ(トロフ、trough)の設置も始まり、当団体は、メトロポリタン・ドリンキング・ファウンテン・アンド・カトル・トロフ・アソシエーション(Metropolitan Drinking Fountain and Cattle Trough Association 大都市水飲み場・家畜水桶協会)と改名。車の無い当時は、大切なエンジンだった馬たちも、市場へと歩いて連れていかれる牛や羊たちも、その辺のわんこも、これで、皆、水をごくごく思う存分飲めるようになったのです。

最近は、こうした、かつての動物用のトロフ(trough)は、お花を植える花壇と化している事がよくあります。

以前のブログ記事で、「101匹わんちゃん」のポンゴが、誘拐された子犬たちを探しに、真夜中にサドベリー州サフォークにたどり着き、教会の脇で水を飲んだという話を書きましたが、ボンゴが水を飲めたのも、このトロフが教会の脇にあったからなのです。

当団体の活動と水飲み場設置は、貧しい者を助けるという意味で教会の協力や、アルコールによる社会的弊害を防止するための禁酒運動の影響も受け、盛んとなります。禁酒運動の支持者たちには、無料で安全な飲み水というのは、高価なお茶やコーヒーなどが気軽に飲めない貧しい市民たちに、アルコールの代わりに飲めるものを供給する意味で有用で、しばしば、「お酒じゃなくて、こっちをお飲み」と、パブの向かいなどに水飲み場を、設置することもあったようです。また、他の裕福な慈善家たちも、水飲み場を、自分のゆかりの地に、一般市民へのプレゼントして設置するようにもなります。

やがては、家庭での水道水の設置と質の向上、また、地方自治体などが、公共施設の設置や管理をつかさどるようになると、こうした水飲み場も必要がなくなっていくわけです。また、動物の水飲み場も、馬や馬車が、車やトラックにとって代わられ、牛を市場まで歩かせる必要もなくなると、当然、消えていきます。

が、昨今、再び、古いこうした水飲み場を復活させよう、または、新しいものを設置しようという気風も起っているようで、これは、最近のプラスティック問題から、ペットボトルに入った水の消費を、街中に、多くの機能している水飲み場を増やすことで、少しでも減らそうという頭もあるようです。

セント・ポール寺院の敷地から、道路を隔てて向かいの南側に立つ、この水飲み場(St Lawrence Jewry Memorial Fountain)は、もともとは、1866年に、シティー・オブ・ロンドンのギルドホールの前にあるセント・ローレンス教会わきに設置されていたものなのですが、約100年後の1970年代に除去され、分解されて、どこかにしまわれていたものを修復し、2010年に、現在の場所に設置。ちゃんと、ちょろちょろっとお水が出ています。

話が全く飛ぶようですが、日本の童話作家、新見南吉の「牛をつないだ椿の木」という物語がありました。ある日、人力車引きの海蔵さんという若者が、いつも歩く道の傍に、のどが渇いたとき、誰もが皆で、気兼ねなく水を飲める井戸があったらどんなにいいか、と思い立つことから始まる話でした。彼は貧乏で、公共のためにお金を出してくれるような太っ腹のサミュエル・ガーネイのような金持ちも知らず、小金のある友人に出費を促しても、自分だけが飲むならともかく、なんで他人も使用するものに自分が金を払うのかと断られ、募金箱を置いても誰もお金をいれてくれず、ついに、自力でコツコツ金をためて、みんなの井戸を作るのです。出来上がった井戸で子供たちが、美味しそうに水を飲む姿を、ニコニコ満足げに眺め、海蔵さんは、人のためになる事ができて、もう思い残すことはないと、そのまま日露戦争に狩り出され、戻らぬ人なるというエンディングでした。

・・・こんな善人、めったにいないですね。イギリスのこうした水飲み場を見ていると、この物語を思い出だします。公共施設や、一般市民の生活に必要な物事は、サミュエル・ガーネイや海蔵さんのような、一握りの善人に頼っているわけにもいかないので、税金徴収、または料金を取る企業によるサービス提供が必要となってくるのでしょう。

コメント

  1. こんにちは。ロンドンでも、一寸郊外に出向くと、昔の水飲み場が残っていたりして、楽しいですね。でも都市部の水質は最悪で、カルシウム分が高いのか、日本から持ってきたシャンプーの泡が立たないときもあり、一体どんな水なんだろうと、不安になるときがあります。ふつうにおいしい水が蛇口から飲めた日本も、今は一寸変わってきて、生水だけはボトル入りを買う様になっていますので、大都市は何処もそんな感じなのかな? 
    新見南吉さんの童話は、一寸辛口の部分もありますが、大好きです。

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    1. イギリスは地質的にカルシウムの多い硬水の地域が多いです。私も日本に帰った時、久しぶりのつるつるお肌に滑り、石鹸の泡立ちもいい軟水が気持ちよかったです。以前、マンチェスターに住んでいた人が、あそこは軟水で、水が気持ちいいと言っていました。あの辺り、水源が、花崗岩層の湖水地方なので。水源の下にある地層によって、水の硬軟が決まります。スコットランドも大部分軟水ではないかと思います。不安になる必要はないですが、水垢がやかんなどについて、掃除が大変です。ただ、硬水は、紅茶がおいしく出ると言いますよ。新見南吉の物語は、厳しかったり、せつなかったりする現実を背景にした、温かいストーリーラインのものが多いですね。

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    2. やはり軟水硬水の差はあるのですね。 新見南吉は『手袋を買いに』が最も好きです。いつ読んでも、心がほっこりします。

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    3. 我が家はやっていないですが、水を軟水にするための装置などを設置している日本人の知り合いなどもいます。

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