ロイヤル・エクスチェンジ
ロンドンの地下鉄駅バンクを降りて、地上へ上がりすぐ、イギリスの中央銀行、バンク・オブ・イングランドの向かいにあるこの建物は、ロイヤル・エクスチェンジ(Royal Exchange 王立取引所)。今、この中は、カフェやら、高級品を売る店やらが入っていますが、かつては、その名の示すとおり、商人たちが、情報交換、売買のネゴ、取引などを行う場所でした。現在のロイヤル・エクスチェンジは、同じ地に建つ3番目の建物。
1番目のロイヤル・エクスチェンジを建てたのは、「Bad money drives out good. 悪貨は良貨を駆逐する」のグレシャムの法則で有名なトーマス・グレシャム。彼は、商人でもあり、また、エドワード6世、メアリー1世、そしてエリザベス1世の治世の初めの9年間、アントワープで、王室の金融代理人として、活躍した人物。海外での、イングランド王室の負債を削減した金融手腕が重宝され、王室からのご褒美その他で、財をなすこととなります。アントワープにも家があった上、ロンドンの一等地にも邸宅を所有、そして現在のヒースロー空港に近いオスタリーにも別荘を持っていました。やがて、エリザベス女王の金融アドバイザーともなり。
エリザベス1世の時代のロンドン。商人たちが一介に集まり、商談をできる決められた場所が無く、セント・ポール寺院の内部や周辺の庭、または、シティの商業の中心であった通り、ロンバード・ストリートなどで、歩きながら商談などという状況だったそうです。グレシャムは、アントワープにあった商業取引所に強い印象を受けており、かねてから、同じような取引所をロンドンにも建てたいという計画を練っていました。特に、唯一の息子に先立たれるという悲劇の後、彼は、この取引所の実現にエネルギーと財産を注ぎ込むこととなります。
建築のための土地購入は、他の商人たちからの献金で賄われたものの、建物自体は、ほとんど自分の懐から出費。アントワープ出身の建築家を使い、石などの材料もアントワープから輸入。建設に携わった労働者も、外国人の割合が多く、これはロンドン内の技術者の反感をかったそうで、労働者が市民に攻撃されぬよう特別な衛兵も導入したという事。
上のプリントは、初代ロイヤル・エクスチェンジの様子です(プリントは大英博物館サイトより拝借)。 あちこちバッタが見られ、これから察するに、計20匹は屋根のあちこちに配置されている感じです。これはトーマス・グレシャムの紋章がバッタであったため。誰が建てたか、一目瞭然にするためでしょうが、あまりにその数が多く、建物が巨大バッタの一団にに襲われているようで、私は、この絵を初めて見たとき、吹き出してしまいましたが。
まだ建設中の1568年から使われ始め、1571年にエリザベス女王を招いて正式にオープン。女王は、「以後、この建物を、The Royal Exchange、王立取引所と呼ぶがよい!」とのたまったとか。クレオパトラが、アンソニーをもてなした際に、耳につけていた真珠を取りはずし、砕いて飲み物に混ぜて飲み、アンソニーはその大盤振る舞いに、大層感心した・・・という逸話がありますが、グレシャムも、同様に、エリザベス女王がロイヤル・エクスチェンジを訪問した際、高価な宝石を打ち砕いてそれをワインに混ぜ、女王の健康を祝って飲み、太っ腹なところを見せた、というエピソードがまことしやかに伝えられています。
すでに、1590年代から、ロンドンのガイドブックなるものが発行されるようになり、ロイヤル・エクスチェンジも、ロンドン塔やセント・ポールズ寺院と共に、シティーの目玉アトラクションのひとつに挙げられていたそうです。建物の真ん中は大きな広場となっており、それを囲む建物のアーケード、さらに上階には、多くの店が構えられ。商人たちが取引を行ったのは、朝の11時と、夕方の6時ごろと、一日2回であったそうです。観光客たちは、商人が取引する様子をながめ、また、上階の店を覗いて、土産物なども購入。
グレシャムは、女王の王立取引所訪問の10年以内になくなっており、上記の通り、世継ぎの息子に先立たれていたため、王立取引所を、シティー・オブ・ロンドンと、自分が属したギルドが共同で管理するように、託しています。また、彼のロンドンの邸宅は、社会の向上に貢献するような自然科学、その他もろもろの無料の講義を行うグレシャム・カレッジとしてシティーに提供。このグレシャム・カレッジは、建物こそ別の場所に移動していますが、現在も、一般に無料の講義を行っています。
第1代目のロイヤル・エクスチェンジは、着工の約100年後に起こった大参事、ロンドン大火で消失。
第2代目のロイヤル・エクスチェンジは、1代目と基本的に似ているものの、もっと大きな建物であったそうで、大火後すぐの、1670年に建て直されます。海の帝国として力を増していくイギリスの商業の中心として、この周りには、やはり商人たちが集えるコーヒーハウスが数多く開き、また、イングランド銀行も、ロイヤル・エクスチェンジのすぐ向かいに建設されることになります。
が、こちらも、ビクトリア朝が始まったばかりの1838年に、火災で再び焼失。この火災の際に、建物の鐘が落ちる前に、「There's nae luck about the house 、この建物には運がな~い」と鳴ったなどという言い伝えがあります。なんでも、火災は、間借りしていた保険団体のロイズから出火したとか。建物がロイズの保険でカバーされていたかどうかは知りません。
第3代目、現在の建物は、1844年にヴィクトリア女王によって再オープン。これが、現在の建物で、ヴィクトリア女王も、訪問の際、「この建物を王立取引所と呼んでよろしい。」と、エリザベス1世同様に、王室お墨付き宣言をしたそうです。このほぼ同時期に、ディケンズの「クリスマス・キャロル」が出版されていますが、物語内の、どケチなスクルージは、このすぐそばに事務所を構えていた設定で、王立取引所も、「チェンジ」と呼ばれて物語内に登場します。シティー内のビジネスマンであれば、当然、定期的に足を運んだわけでしょう。
この3代目は、運よく、第2次世界大戦の爆撃を生き残っています。が、元来の目的であった、取引の場所としての使用は終わり、この場を最後に使用した取引組織は、1980年代の、LIFFE (London International Financial Futures Exchange)。
現在は、カナダのペンション・ファンドに、約100年の期間借地されているということで、利益あげる必要あるでしょうから、冒頭に書いた通り、ちょっと高級なショッピングモールとなっています。ラグジュアリーな物がお好きな方、高級バーやレストランが好みの方は、足を運んでみてください。ちょっと、ぼろっとした格好だと、入るのに気おくれがするというのはありますが。
中央をぐるりと取り囲むようにした上階は、バーが幅を利かせていますが、そのわきを走る通路を通って一周すると、壁にある、シティーとロイヤル・エクスチェンジの歴史をテーマにしたヴィクトリア時代の壁画を見て歩くことができます。上に載せたエリザベス1世訪問の絵も、ここで見たものです。
ちなみに、現在の建物の屋根には、グレシャムのバッタはひとつだけ。建物の裏側(東側)の塔の上の
風向計のてっぺんについて、お日様の中、金色に輝いています。
1番目のロイヤル・エクスチェンジを建てたのは、「Bad money drives out good. 悪貨は良貨を駆逐する」のグレシャムの法則で有名なトーマス・グレシャム。彼は、商人でもあり、また、エドワード6世、メアリー1世、そしてエリザベス1世の治世の初めの9年間、アントワープで、王室の金融代理人として、活躍した人物。海外での、イングランド王室の負債を削減した金融手腕が重宝され、王室からのご褒美その他で、財をなすこととなります。アントワープにも家があった上、ロンドンの一等地にも邸宅を所有、そして現在のヒースロー空港に近いオスタリーにも別荘を持っていました。やがて、エリザベス女王の金融アドバイザーともなり。
かつての商人たちの商談の場、ロンバード・ストリート |
建築のための土地購入は、他の商人たちからの献金で賄われたものの、建物自体は、ほとんど自分の懐から出費。アントワープ出身の建築家を使い、石などの材料もアントワープから輸入。建設に携わった労働者も、外国人の割合が多く、これはロンドン内の技術者の反感をかったそうで、労働者が市民に攻撃されぬよう特別な衛兵も導入したという事。
上のプリントは、初代ロイヤル・エクスチェンジの様子です(プリントは大英博物館サイトより拝借)。 あちこちバッタが見られ、これから察するに、計20匹は屋根のあちこちに配置されている感じです。これはトーマス・グレシャムの紋章がバッタであったため。誰が建てたか、一目瞭然にするためでしょうが、あまりにその数が多く、建物が巨大バッタの一団にに襲われているようで、私は、この絵を初めて見たとき、吹き出してしまいましたが。
最初のロイヤル・エクスチェンジを訪れるエリザベス1世 |
すでに、1590年代から、ロンドンのガイドブックなるものが発行されるようになり、ロイヤル・エクスチェンジも、ロンドン塔やセント・ポールズ寺院と共に、シティーの目玉アトラクションのひとつに挙げられていたそうです。建物の真ん中は大きな広場となっており、それを囲む建物のアーケード、さらに上階には、多くの店が構えられ。商人たちが取引を行ったのは、朝の11時と、夕方の6時ごろと、一日2回であったそうです。観光客たちは、商人が取引する様子をながめ、また、上階の店を覗いて、土産物なども購入。
グレシャムは、女王の王立取引所訪問の10年以内になくなっており、上記の通り、世継ぎの息子に先立たれていたため、王立取引所を、シティー・オブ・ロンドンと、自分が属したギルドが共同で管理するように、託しています。また、彼のロンドンの邸宅は、社会の向上に貢献するような自然科学、その他もろもろの無料の講義を行うグレシャム・カレッジとしてシティーに提供。このグレシャム・カレッジは、建物こそ別の場所に移動していますが、現在も、一般に無料の講義を行っています。
第1代目のロイヤル・エクスチェンジは、着工の約100年後に起こった大参事、ロンドン大火で消失。
右手ロイヤル・エクスチェンジ正面、左手イングランド銀行 |
が、こちらも、ビクトリア朝が始まったばかりの1838年に、火災で再び焼失。この火災の際に、建物の鐘が落ちる前に、「There's nae luck about the house 、この建物には運がな~い」と鳴ったなどという言い伝えがあります。なんでも、火災は、間借りしていた保険団体のロイズから出火したとか。建物がロイズの保険でカバーされていたかどうかは知りません。
第3代目、現在の建物は、1844年にヴィクトリア女王によって再オープン。これが、現在の建物で、ヴィクトリア女王も、訪問の際、「この建物を王立取引所と呼んでよろしい。」と、エリザベス1世同様に、王室お墨付き宣言をしたそうです。このほぼ同時期に、ディケンズの「クリスマス・キャロル」が出版されていますが、物語内の、どケチなスクルージは、このすぐそばに事務所を構えていた設定で、王立取引所も、「チェンジ」と呼ばれて物語内に登場します。シティー内のビジネスマンであれば、当然、定期的に足を運んだわけでしょう。
この3代目は、運よく、第2次世界大戦の爆撃を生き残っています。が、元来の目的であった、取引の場所としての使用は終わり、この場を最後に使用した取引組織は、1980年代の、LIFFE (London International Financial Futures Exchange)。
現在は、カナダのペンション・ファンドに、約100年の期間借地されているということで、利益あげる必要あるでしょうから、冒頭に書いた通り、ちょっと高級なショッピングモールとなっています。ラグジュアリーな物がお好きな方、高級バーやレストランが好みの方は、足を運んでみてください。ちょっと、ぼろっとした格好だと、入るのに気おくれがするというのはありますが。
中央をぐるりと取り囲むようにした上階は、バーが幅を利かせていますが、そのわきを走る通路を通って一周すると、壁にある、シティーとロイヤル・エクスチェンジの歴史をテーマにしたヴィクトリア時代の壁画を見て歩くことができます。上に載せたエリザベス1世訪問の絵も、ここで見たものです。
ちなみに、現在の建物の屋根には、グレシャムのバッタはひとつだけ。建物の裏側(東側)の塔の上の
風向計のてっぺんについて、お日様の中、金色に輝いています。
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