ビラリキーのブルーベル
再びブルーベルが森の地面を青く染める時期が巡ってきました。ブルーベルは、イギリス各地で、4月中頃から5月中頃にかけて見られ、最盛期は大体、4月末週から5月1週目あたりである事が多いのですが、今年は、ちょっと早い気がしますので、盛りが過ぎてしまう前にと、今週中にブルーベルの花見をすることにしました。いつもは、近郊の森に行くのですが、今回は余興を変えて、どこか別なところに・・・と、昨日、ビラリキー(Billericay)のノージー・ウッド(Norsey Wood)へ繰り出しました。以前から、この森は、世界で一番、ブルーベルの咲く密度が高い場所、などという話を聞いたことがあったので。「世界一」などと言ってもブルーベルの生殖範囲は比較的限られているようなので、さほど競争相手はいないはずです。
エセックス州ビラリキーは、ロンドン、リバプールストリート駅から30分と便がいいため、ロンドンへの通勤者も多い町。ビラリキーの町のフットボールクラブのロゴは、ピルグリム・ファーザーズを乗せてアメリカへ渡ったメイフラワー号であるし、メイフラワーという名の学校もあるし、町のところどころで、メイフラワーのシンボルを目にするので、ビラリキーは、メイフラワー号とふかーい関わりがあるのかと思いきや、これは、なんでも、メイフラワーに乗り込んだピルグリム・ファーザーズたちが、旅立つ前にビラリキーで会合した、と、それだけの事のようです。他に特に有名なこともないし、無理やり、町に箔をつけようとの、こじつけのような気もします。英語のウィキペディアによると、ビラリキー出身でメイフラワー号に乗って、新世界での移住を試みたのは4人で、4人とも、すぐに亡くなってしまったそうです。もっとも、その後、ビラリキーから、アメリカで移住を試みた人間たちが、1655年、現マサチューセッツ州ビレリカ(Billerica)に落ち着いて開拓したのだそうです。ちゃんと故郷の名前を、新しい土地に導入して。
さて、ビラリキー駅の周りは取り立てて何もなく、駅から北東に向けて徒歩10分ほどで、ノージー・ウッドに到着。
この森はなんでも、青銅器時代(2500-700BC)の古墳跡があり、19世紀中ごろの発掘で、火葬の灰を入れた壺が発見されているのだそうです。ブルーベルに覆われて、パッと見では、どこがその古墳跡なのやらわかりませんでしたが。同じ場所から、後のローマ時代の陶器の破片なども見つかっているという事。
中世の時代には、狩猟用の鹿が放たれていた場所のようで、ところどころに、土地所有者によって築かれた、鹿が逃げないように掘られた溝や、積み上げられた土手があります。
森の歴史で、他に特記すべきこととしては、1381年に起こったワット・タイラーの乱で、リーダーのワット・タイラーが、ロンドンのスミス・フィールドにて殺されてしまった後、反乱側が、最後の抵抗として、この森のすぐそばで、王の軍を迎え撃った、ノージー・ウッドの戦いが繰り広げられたのだそうです。が、統制の整った王の軍に、大した武器も持たない反乱側がやられるのは時間の問題で、生き残った反乱者たちは、森内に隠れたのを、駆り出され。この抵抗を収めると、軍はエセックスの村々を回り、反乱に関わった者たちを、処刑して行ったそうです。
今は、反乱を起こした農民たちが隠れた場所、というより、こうしてブルーベルが咲く森としての方が知られているわけです。世界で一番ブルーベルが咲く密度が高いかは、うーん・・・いつも見に行く近くの森と比べて、断言はできないですが、いい線行ってます。この森の利点は、駅から近いので、ロンドンからも、比較的簡単に見に行ける、という事でしょうね。もっとも、犬の散歩をする地元民風の人たち以外は、ほとんど、車で来た感じでしたが。駐車場のそばには、ピクニックエリアや、おトイレもあります。私の普段行く森は、トイレなんぞありませんから、もよおしたら、藪に隠れてのおしっこしか手段はありません。小学校の子供たちの遠足の一団にも遭遇しました。
特にブルーベルが集中している部分は、その間をいくつもの細い小道が走り、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと、水色のただなかを、気ままにさまよえます。ところどころに、ベンチもしつらえてあるので、お昼のサンドイッチも、ブルーベルを眺めながら、そうしたベンチのひとつで食べました。また、このブルーベルが大量咲きしている部分をぐるっと囲むようにして、平たい幅の広い道も走っているので、車いすや、乳母車使用者も、ブルーベルが眺められるよう考慮されていますし。
とりあえずは、また、今年も恒例ブルーベルを見れて良かった。見逃した年は、「あ、今年はブルーベル見に行かなかった!」、と後悔しますので。もっとも、花のただ中に立っているとき、だんなが、携帯に電話をかけてきて、「テリーザ・メイが、いきなり総選挙をする宣言をした。6月に総選挙だ。」などと連絡してきたので、2017年イギリスの総選挙は、ブルーベルの花と一緒に記憶に留まることとなりそうです。
エセックス州ビラリキーは、ロンドン、リバプールストリート駅から30分と便がいいため、ロンドンへの通勤者も多い町。ビラリキーの町のフットボールクラブのロゴは、ピルグリム・ファーザーズを乗せてアメリカへ渡ったメイフラワー号であるし、メイフラワーという名の学校もあるし、町のところどころで、メイフラワーのシンボルを目にするので、ビラリキーは、メイフラワー号とふかーい関わりがあるのかと思いきや、これは、なんでも、メイフラワーに乗り込んだピルグリム・ファーザーズたちが、旅立つ前にビラリキーで会合した、と、それだけの事のようです。他に特に有名なこともないし、無理やり、町に箔をつけようとの、こじつけのような気もします。英語のウィキペディアによると、ビラリキー出身でメイフラワー号に乗って、新世界での移住を試みたのは4人で、4人とも、すぐに亡くなってしまったそうです。もっとも、その後、ビラリキーから、アメリカで移住を試みた人間たちが、1655年、現マサチューセッツ州ビレリカ(Billerica)に落ち着いて開拓したのだそうです。ちゃんと故郷の名前を、新しい土地に導入して。
さて、ビラリキー駅の周りは取り立てて何もなく、駅から北東に向けて徒歩10分ほどで、ノージー・ウッドに到着。
この森はなんでも、青銅器時代(2500-700BC)の古墳跡があり、19世紀中ごろの発掘で、火葬の灰を入れた壺が発見されているのだそうです。ブルーベルに覆われて、パッと見では、どこがその古墳跡なのやらわかりませんでしたが。同じ場所から、後のローマ時代の陶器の破片なども見つかっているという事。
中世の時代には、狩猟用の鹿が放たれていた場所のようで、ところどころに、土地所有者によって築かれた、鹿が逃げないように掘られた溝や、積み上げられた土手があります。
森の歴史で、他に特記すべきこととしては、1381年に起こったワット・タイラーの乱で、リーダーのワット・タイラーが、ロンドンのスミス・フィールドにて殺されてしまった後、反乱側が、最後の抵抗として、この森のすぐそばで、王の軍を迎え撃った、ノージー・ウッドの戦いが繰り広げられたのだそうです。が、統制の整った王の軍に、大した武器も持たない反乱側がやられるのは時間の問題で、生き残った反乱者たちは、森内に隠れたのを、駆り出され。この抵抗を収めると、軍はエセックスの村々を回り、反乱に関わった者たちを、処刑して行ったそうです。
今は、反乱を起こした農民たちが隠れた場所、というより、こうしてブルーベルが咲く森としての方が知られているわけです。世界で一番ブルーベルが咲く密度が高いかは、うーん・・・いつも見に行く近くの森と比べて、断言はできないですが、いい線行ってます。この森の利点は、駅から近いので、ロンドンからも、比較的簡単に見に行ける、という事でしょうね。もっとも、犬の散歩をする地元民風の人たち以外は、ほとんど、車で来た感じでしたが。駐車場のそばには、ピクニックエリアや、おトイレもあります。私の普段行く森は、トイレなんぞありませんから、もよおしたら、藪に隠れてのおしっこしか手段はありません。小学校の子供たちの遠足の一団にも遭遇しました。
特にブルーベルが集中している部分は、その間をいくつもの細い小道が走り、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと、水色のただなかを、気ままにさまよえます。ところどころに、ベンチもしつらえてあるので、お昼のサンドイッチも、ブルーベルを眺めながら、そうしたベンチのひとつで食べました。また、このブルーベルが大量咲きしている部分をぐるっと囲むようにして、平たい幅の広い道も走っているので、車いすや、乳母車使用者も、ブルーベルが眺められるよう考慮されていますし。
とりあえずは、また、今年も恒例ブルーベルを見れて良かった。見逃した年は、「あ、今年はブルーベル見に行かなかった!」、と後悔しますので。もっとも、花のただ中に立っているとき、だんなが、携帯に電話をかけてきて、「テリーザ・メイが、いきなり総選挙をする宣言をした。6月に総選挙だ。」などと連絡してきたので、2017年イギリスの総選挙は、ブルーベルの花と一緒に記憶に留まることとなりそうです。
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