海賊キャプテン・ウィリアム・キッド
ウィリアム・キッド(William Kidd1645-1702)は、スコットランド出身の船乗り。前回の記事「海賊たちの処刑場」に記したよう、海賊として逮捕され、ロンドンのワッピング処刑ドックにて、絞首刑となってしまった人です。彼は、海上で「私掠、しりゃく」を行った人物(英語で言う「privateer」)であったものの、いわゆる「pirate 海賊」であったかどうかには、いまだ論議となるところです。
ウィリアム・キッド船長の海賊行為に触れる前に、ちょいと、紙一重の感のある、この「privateer」と「pirate」の違いを書いておきます。 「私掠、 privateering」は、国家お墨付きの海賊行為と言えばいいでしょうか、敵国の船を攻撃して、その積荷を頂戴する許可証を持って、堂々と航海を行う事。「privateer」は、船の航海を可能とするため、国や、有力者達から投資を受けるのが一般で、敵国船を襲って、せしめた宝は、後で、この投資家たちにも分配する事となり、運がよければ、投資家たちもかなりの利益を上げる事ができたわけです。イギリス歴史上、一番有名なは「privateer」は、エリザベス1世に多額の富をもたらした、フランシス・ドレーク船長でしょう。ただし、当時ドレークの船にひどい目にあったスペインやポルトガルにとっては、彼は、憎き「pirate」であったわけなので。また、船も、多国籍の投資が入っているものなどもあったでしょうし、一概に、この船は襲ってOKで、この船はだめ、という判断をつけがたい状態もあったかもしれません。自国の船を襲ってしまえば、それは海賊行為ですので。
さて、それでは、話を、キッド船長へ。
私掠船の船長として、フランス船などを襲い、成功し、やがて、ニュー・ヨークに趣いたウィリアム・キッド。そこで、裕福な未亡人と結婚。イギリスで知り合った、リチャード・クート(ベロモント卿)が、ニューヨーク総督となった事から、有力な友達も増え、ニュー・ヨークで悠々自適の生活を送ったようです。ニュー・ヨークのトリニティー教会の一番最初の建物建設にも、ウィリアム・キッドは尽力したようです。ニュー・ヨークでの平穏無事な生活に満足し、そのまま大人しく、そこで人生送れば良かったのに・・・・
ベロモント卿はじめ、他のイギリスの有力者達が、お宝積んだフランス船、または海賊船を獲得する事で、儲けようと、ウィリアム・キッドに、私掠船での更なる冒険を持ちかけるのです。これで、キッド船長が成功すれば、お宝は、船を出すのに投資した、これら有力者たちの中で割って、「わっはっは」という計算。ただし、この計画に投資した人物達は、自分たちの名を明かさぬよう匿名でいる事を希望。
よせば良いのに、話に乗ったキッド船長、1696年、敵国フランス船と、海賊船をターゲットとする事を目的にした私掠船「Adventure Galley」で、テムズ川から、マダガスカル、そして、インド洋へと向かうのです。ところが、フランス船にも、海賊船にも、なかなか遭遇しない上、船員の3分の1は病死。残りの乗組員は、徐々に反抗的となり。物事が、計画通りに運ばぬ事から、あせりを感じ始めたのでしょう。
1697年には、インドから物資を乗せて来た船を攻撃。この時は、東インド会社の戦闘船により、追い払われてしまうのですが、東インド会社の船を襲うのは、イギリスにとれば、海賊行為。また、この頃、言う事を聞かぬ乗組員の1人を、かんしゃく起こしたキッド船長、バケツを振り上げ、殴って殺してしまうのです。
そして、1698年1月、やはり東洋からの高価な物資、金銀を積んだ、「Queddah Merchant」(クェダ・マーチャント号)に遭遇。さて、この船・・・積荷はアルメニア商人の所有、船長はイギリス人、それでいながら、フランスからの証書を持って航海していた・・・という国籍曖昧のやっかいな船だったのです。キッド船長、フランスの旗の下で航海しているのだから、攻撃しても良いと判断したか、この船を略奪。また、この後、海賊船を攻撃するのも、航海の目的であったのに、有名海賊に遭遇して、キャプテン・キッドは何もせず、情報を交換して友好的に話をしただけ、という記録が残っています。後、キッド船長は、乗組員も少なくなり、この海賊船をやっつけるだけの威力が無かったと説明しているようです。
キッド船長、この後、ぼろくなり、水漏りし始めた「Adventure Galley」から、略奪したクェダ・マーチャント号に乗り換え、カリブ海へと向かいます。
一方、イギリスでは、「海賊ハントをするはずだったウィリアム・キッドが、自ら海賊と化した」というニュースが流れ、匿名の投資家達は冷や汗をかき始めるのです。中には、著名政治家なども含んでいたようなので。カリブ海を航海中に、キッド船長は、自分が海賊と呼ばれ、指名手配の身である事を知り、愕然。ベロモント卿に会って、事情を説明し、汚名を晴らそうと、ニュー・ヨークへ行くのですが、キッドの海賊騒ぎに巻き込まれることを恐れたベロモント卿は、キッドを逮捕、一年間、牢屋へ投獄。
キッド船長は、アメリカへ行く前に、カリブ海の島で、水漏れが始まり、また、あまりにもあからさまに、「盗まれた船」の面持ちがあった、クェダ・マーチャント号を、後に残し、小さな船でアメリカ入りする事とし、クェダ・マーチャント号の管理を他人に頼むのです。3ヶ月で戻るからと、言い残し。
また、キッド船長は、ニューヨークのロード・アイランド沖にある、ガーディナーズ島に、後に何かの足しになろうと、宝箱を埋めるのです。金貨の入った箱ひとつと、銀の入った箱が2つであったとか。海賊というと、どくろのマークのついた宝箱を、どこかの島に埋める・・・というイメージがとても強いのですが、実際に、宝箱を本当に埋めた海賊は、ほとんど存在しなかったと言います。まあ、このウィリアム・キッドが宝箱を埋めたという行為がインスピレーションとなり、後にロバート・ルイス・スティーブンソン著の冒険小説「宝島」などが生まれたわけですので、そこからイメージが定着したのでしょう。ガーディナーズ島の宝箱は、キッド船長から事情を聞いたベロモント卿が、掘り起こさせ、キッドの海賊行為の証拠品としたそうですが、キャプテン・キッドの隠した、別の秘密の宝が残っているのではと、宝探しをする人などもいたようです。いまも、その謎の宝を探している人がいるかどうかはわかりませんが。
それにしても、海賊になる気は無かったのに、気がつくと海賊と化してしまった人物が、後の時代に、典型的海賊のイメージ作りに一役も二役も買ったというのは、何とも、妙な展開です。上のキッド船長の肖像からもわかるように、彼は、顔に傷もないし、眼帯もしていないし、頭にスカーフを被っているわけでも、肩にオウムも乗せているわけでもない。腕も足もちゃんと2本あったし、ごく普通の17世記の紳士風なのです。
さて、キッド船長が後に残したクェダ・マーチャント号は、どうなったかと言うと・・・管理を頼まれた者達によって、内部のものは略奪され、後、火をつけられ海に沈み。その後は、約300年もの間、この船がどこに沈んだのか、不明だったのが、2007年に、ドミニカ共和国のカタリーナ島(Catalina Island)沖で、いきなり、その残骸が発見され、ニュースになっていました。(クェダ・マーチャント号発見の新聞記事は、こちらまで。英語記事です。)
アメリカの牢獄で1年過ごした後、ウィリアム・キッドはイギリスへと受け渡され、ロンドンにて裁判を受ける事となるのです。この際に、キッドは、航海の投資家たちの名は、一切明かさなかったのですが、投資家達は、それをいい事に、自分達から、キッドを助けようとする事も一切無く。実際に、ここで口を割って、背後の投資家の名をばらしていれば、案外、助かったのではないか、という説もあります。
が、哀れ、キャプテン・ウィリアム・キッドは、1701年の5月に有罪判決を下され、同月23日には、前回の記事に書いたとおり、ワッピングにあった処刑ドックにて絞首刑となります。5年前に、船出前の「Adventure Galley」が碇を下ろしていた場所をながめながら。一回目のロープが処刑途中で切れてしまい、もう一度やり直す、という情けない一幕があったと言います。気の毒に。彼の有罪判決の中には、海賊行為の他に、乗組員をバケツで殴り殺した罪も含まれていたそうです。
さて、ウィリアム・キッド船長は海賊でしょうか、どうでしょうか?
ウィリアム・キッド船長の海賊行為に触れる前に、ちょいと、紙一重の感のある、この「privateer」と「pirate」の違いを書いておきます。 「私掠、 privateering」は、国家お墨付きの海賊行為と言えばいいでしょうか、敵国の船を攻撃して、その積荷を頂戴する許可証を持って、堂々と航海を行う事。「privateer」は、船の航海を可能とするため、国や、有力者達から投資を受けるのが一般で、敵国船を襲って、せしめた宝は、後で、この投資家たちにも分配する事となり、運がよければ、投資家たちもかなりの利益を上げる事ができたわけです。イギリス歴史上、一番有名なは「privateer」は、エリザベス1世に多額の富をもたらした、フランシス・ドレーク船長でしょう。ただし、当時ドレークの船にひどい目にあったスペインやポルトガルにとっては、彼は、憎き「pirate」であったわけなので。また、船も、多国籍の投資が入っているものなどもあったでしょうし、一概に、この船は襲ってOKで、この船はだめ、という判断をつけがたい状態もあったかもしれません。自国の船を襲ってしまえば、それは海賊行為ですので。
さて、それでは、話を、キッド船長へ。
私掠船の船長として、フランス船などを襲い、成功し、やがて、ニュー・ヨークに趣いたウィリアム・キッド。そこで、裕福な未亡人と結婚。イギリスで知り合った、リチャード・クート(ベロモント卿)が、ニューヨーク総督となった事から、有力な友達も増え、ニュー・ヨークで悠々自適の生活を送ったようです。ニュー・ヨークのトリニティー教会の一番最初の建物建設にも、ウィリアム・キッドは尽力したようです。ニュー・ヨークでの平穏無事な生活に満足し、そのまま大人しく、そこで人生送れば良かったのに・・・・
ベロモント卿はじめ、他のイギリスの有力者達が、お宝積んだフランス船、または海賊船を獲得する事で、儲けようと、ウィリアム・キッドに、私掠船での更なる冒険を持ちかけるのです。これで、キッド船長が成功すれば、お宝は、船を出すのに投資した、これら有力者たちの中で割って、「わっはっは」という計算。ただし、この計画に投資した人物達は、自分たちの名を明かさぬよう匿名でいる事を希望。
よせば良いのに、話に乗ったキッド船長、1696年、敵国フランス船と、海賊船をターゲットとする事を目的にした私掠船「Adventure Galley」で、テムズ川から、マダガスカル、そして、インド洋へと向かうのです。ところが、フランス船にも、海賊船にも、なかなか遭遇しない上、船員の3分の1は病死。残りの乗組員は、徐々に反抗的となり。物事が、計画通りに運ばぬ事から、あせりを感じ始めたのでしょう。
1697年には、インドから物資を乗せて来た船を攻撃。この時は、東インド会社の戦闘船により、追い払われてしまうのですが、東インド会社の船を襲うのは、イギリスにとれば、海賊行為。また、この頃、言う事を聞かぬ乗組員の1人を、かんしゃく起こしたキッド船長、バケツを振り上げ、殴って殺してしまうのです。
そして、1698年1月、やはり東洋からの高価な物資、金銀を積んだ、「Queddah Merchant」(クェダ・マーチャント号)に遭遇。さて、この船・・・積荷はアルメニア商人の所有、船長はイギリス人、それでいながら、フランスからの証書を持って航海していた・・・という国籍曖昧のやっかいな船だったのです。キッド船長、フランスの旗の下で航海しているのだから、攻撃しても良いと判断したか、この船を略奪。また、この後、海賊船を攻撃するのも、航海の目的であったのに、有名海賊に遭遇して、キャプテン・キッドは何もせず、情報を交換して友好的に話をしただけ、という記録が残っています。後、キッド船長は、乗組員も少なくなり、この海賊船をやっつけるだけの威力が無かったと説明しているようです。
キッド船長、この後、ぼろくなり、水漏りし始めた「Adventure Galley」から、略奪したクェダ・マーチャント号に乗り換え、カリブ海へと向かいます。
一方、イギリスでは、「海賊ハントをするはずだったウィリアム・キッドが、自ら海賊と化した」というニュースが流れ、匿名の投資家達は冷や汗をかき始めるのです。中には、著名政治家なども含んでいたようなので。カリブ海を航海中に、キッド船長は、自分が海賊と呼ばれ、指名手配の身である事を知り、愕然。ベロモント卿に会って、事情を説明し、汚名を晴らそうと、ニュー・ヨークへ行くのですが、キッドの海賊騒ぎに巻き込まれることを恐れたベロモント卿は、キッドを逮捕、一年間、牢屋へ投獄。
キッド船長は、アメリカへ行く前に、カリブ海の島で、水漏れが始まり、また、あまりにもあからさまに、「盗まれた船」の面持ちがあった、クェダ・マーチャント号を、後に残し、小さな船でアメリカ入りする事とし、クェダ・マーチャント号の管理を他人に頼むのです。3ヶ月で戻るからと、言い残し。
また、キッド船長は、ニューヨークのロード・アイランド沖にある、ガーディナーズ島に、後に何かの足しになろうと、宝箱を埋めるのです。金貨の入った箱ひとつと、銀の入った箱が2つであったとか。海賊というと、どくろのマークのついた宝箱を、どこかの島に埋める・・・というイメージがとても強いのですが、実際に、宝箱を本当に埋めた海賊は、ほとんど存在しなかったと言います。まあ、このウィリアム・キッドが宝箱を埋めたという行為がインスピレーションとなり、後にロバート・ルイス・スティーブンソン著の冒険小説「宝島」などが生まれたわけですので、そこからイメージが定着したのでしょう。ガーディナーズ島の宝箱は、キッド船長から事情を聞いたベロモント卿が、掘り起こさせ、キッドの海賊行為の証拠品としたそうですが、キャプテン・キッドの隠した、別の秘密の宝が残っているのではと、宝探しをする人などもいたようです。いまも、その謎の宝を探している人がいるかどうかはわかりませんが。
それにしても、海賊になる気は無かったのに、気がつくと海賊と化してしまった人物が、後の時代に、典型的海賊のイメージ作りに一役も二役も買ったというのは、何とも、妙な展開です。上のキッド船長の肖像からもわかるように、彼は、顔に傷もないし、眼帯もしていないし、頭にスカーフを被っているわけでも、肩にオウムも乗せているわけでもない。腕も足もちゃんと2本あったし、ごく普通の17世記の紳士風なのです。
さて、キッド船長が後に残したクェダ・マーチャント号は、どうなったかと言うと・・・管理を頼まれた者達によって、内部のものは略奪され、後、火をつけられ海に沈み。その後は、約300年もの間、この船がどこに沈んだのか、不明だったのが、2007年に、ドミニカ共和国のカタリーナ島(Catalina Island)沖で、いきなり、その残骸が発見され、ニュースになっていました。(クェダ・マーチャント号発見の新聞記事は、こちらまで。英語記事です。)
アメリカの牢獄で1年過ごした後、ウィリアム・キッドはイギリスへと受け渡され、ロンドンにて裁判を受ける事となるのです。この際に、キッドは、航海の投資家たちの名は、一切明かさなかったのですが、投資家達は、それをいい事に、自分達から、キッドを助けようとする事も一切無く。実際に、ここで口を割って、背後の投資家の名をばらしていれば、案外、助かったのではないか、という説もあります。
が、哀れ、キャプテン・ウィリアム・キッドは、1701年の5月に有罪判決を下され、同月23日には、前回の記事に書いたとおり、ワッピングにあった処刑ドックにて絞首刑となります。5年前に、船出前の「Adventure Galley」が碇を下ろしていた場所をながめながら。一回目のロープが処刑途中で切れてしまい、もう一度やり直す、という情けない一幕があったと言います。気の毒に。彼の有罪判決の中には、海賊行為の他に、乗組員をバケツで殴り殺した罪も含まれていたそうです。
さて、ウィリアム・キッド船長は海賊でしょうか、どうでしょうか?
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