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コクガンの群れ

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友達夫婦と連れ立って、北海に面したエセックス州の河口の村の周辺を歩いてきました。村のパブの、暖炉際のテーブルでランチをした後の腹ごなしに。 片側に平坦な農地と、片側に満潮の河口の水面を眺めながら歩いていると、頭上を群れをなした鳥達が飛んで行き、内陸部に着陸。 望遠鏡を覗き込むと、頭が黒い雁。1群れが飛んできたと思うと、また別の群れが飛んできて、かなりの数です。 皆、ほぼ同じ場所に着陸し、一大集会を繰り広げています。これはおそらく小麦畑の真っ只中。まだ雑草の様な若い小麦の葉が生えていて、雁たちはこの頭をちょんちょんつついて食べたりするのでしょう。近くには、農家の人間が仕掛けたであろう、銃の様な大きな音が出る機械が置いてあり、時折、ボーン、ボーンと音をたてていました。内部にガスが溜まって音を出す、バンガロー(bangalore)という鳥を脅かすためのマシンです。農地を歩いていると、時々耳にする音ですが、雁たちは、慣れっこの感じで、怖がるどころか、効果は全くなく、飛び立つものは一羽もいませんでした。 後で家に帰ってから、写真に取ったものをクローズアップして図鑑で調べると、英語でBrent Goose(ブレント・グース)、日本語ではコクガン(黒雁)と呼ばれるものでした。 コクガンという日本名の通り、全体的に黒色。英語のブレント・グースという名は、昔の北欧の言葉に由来するそうで、ブレントは「焦げた、焼けた」を意味したそうです。要は、「焦げたように黒い雁」。 成長した鳥は、首の周りに白の縞が一本。下腹が白っぽい色です。上の絵は、イギリスの野鳥保護協会( RSPB )のサイトのもの。夏の間は、ツンドラ地方で生殖し、10月から3月ころまでを、こうした、イギリスの東や南海岸の河口で過ごす渡り鳥だという事。 世界に存在するコクガンの2%もが、こうしたエセックス州の海岸線で冬越しをするそうです。生まれて3ヶ月の若い鳥もはるばる飛んでくるというので、たいしたものです。この場所よりちょっと北に行ったところには、自然保護地域などもあり、そこではコクガンが好んで食べる草なども育てているようです。 ところで、日本語で、このタイプの水鳥は、雁、がちょう、カモ、アヒルなど、色々な呼び方があり、少々ややこしいのですが、違いは、雁を家畜化したものが、がちょう...

ロンドンのセブン・ダイアルズ今昔

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ロンドンの大英博物館から南へ下り、西はソーホー、更に南は コヴェント・ガーデン に挟まれたエリアに、7つの細い道路が、星のように集まる場所があります。その星の中心にはコラムが立ち、車がこのまわりをぐるぐる回る小型ラウンドアバウトとなっています。ここが、ロンドンのセブン・ダイアルズ(Seven Dials)。日本語カタカナ表記では、セブン・ダイヤルズと書くほうが普通でしょうか。 コラム上には、6つの日時計が掲げられています。英語でダイアル(ダイヤル)を名詞で使う場合は、「(時計などの)面」の意味がありますので、正式には、シックス・ダイアルズなのです。なんでも、この地が開発された当初の計画では、ここに集まる道は7つではなく、6つだけの予定であり、最終段階で7に増やしたため、コラム上に掲げてある時計は、6つのままとなったのだそうです。 オリジナルのセブン・ダイアルズのコラムがこの地に設置されたのは、遡ること1694年。1689年の 名誉革命 でイギリスの王座についた、オランダ人の王様、ウィリアム3世の時代の事。政治家であり実業家でもあり、名誉革命を達成するためにも一役買ったと言われるトーマス・ニール(Thomas Neale)が、この周辺の開発にあたるのです。 当初は、セブン・ダイアルズ一帯をファッショナブルな住宅地にする意図があったようですが、18世紀、19世紀と、周辺のガラは向上どころか、更に悪くなり、思惑とは裏腹に、ロンドンでも屈指の、貧困と犯罪がはびこるスラムとなり、気がつくと、セブン・ダイヤルズは、犯罪者の待ち合わせ場所となり果てていました。そんなこんなで、コラムは、1773年には除去されてしまいます。 大型目抜き通りのチャリング・クロス・ロードと、シャフツベリー・アヴェニューが近くに建設されてから、スラムの一部は取り壊されたものの、残ったエリアは、その後も長い間、ほったらかされて、シャビーな状態でありました。私がはじめてこの国に来た時も、まだ、チャリング・クロス・ロード北部の東側というと、かなりばっちい感じでしたから。セブン・ダイアルズに、現在のコラムが設置されたのは、1989年。名誉革命の300年記念の年であったため、当時のオランダのベアトリクス女王が、オープンの日の記念式典に参加。 コラムは、最初のデザインを忠実に再現しているそ...

大人の塗り絵ブーム

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以前、日本の母親から、「ボケ対策として、塗り絵がいい。」という話を聞いていました。なんでも、線からはみ出ないように、と気を使いながら色を塗るのが脳に良いそうで、記憶がいささか朦朧とし、危なくなりかけている友人達に勧めているのだとか言って。イギリスでも、ボケもともかく、ストレスにまみれた生活の間の癒し対策として、大人でも、塗り絵をする人が増えている気配です。 私も、先日、とある店で、キュー・ガーデン出版による、本格的な植物画の塗り絵が、値引きされて売っているのを見て、購入しました。初刊が1787年という、世界で最も長い間発行されている植物画雑誌「カーティス・ボタニカル・マガジン」(Curtis's Botanical Magazine)から取られた44枚の時代物の植物画です。画家は、当雑誌のイラストを19世紀中ごろに手がけた、ウォルター・フッド・フィッチ(Walter Hood Fitch)。 左側に、すでに色が着いた同じ絵が挿入されているので、それを見ながら、本物の花そっくりに彩色することが可能。最初から最後まで、色付けをしたら、緑の色鉛筆だけ磨り減ってしまいそうな感はありますが、そんなこんなで、かなり格調高い塗り絵なので、終わった後も、手元に残しておきたい代物です。 この高級感覚あふれる塗り絵を買った後、大型スーパーの雑誌売り場の片隅に、大人用の塗り絵コーナーがあるのも発見。塗り絵専門の雑誌なども出版されているのに気づき、「ひょえ!」と思った次第。ぺらぺらと、何冊かめくってみると、子供用の塗り絵と違い、入り組んだパターンのものが多く、まるで壁紙の模様か、ペルシャ絨毯のようなものもあります。1ページ仕上げるのに、わりと時間がかかりそうなものばかり。複雑なパターンであればあるほど、他の事を考えず、専念できる、というのがあるのかもしれません。表紙には、「心癒すための」とか、「禅風」とかの形容詞がついているものがあり、やはり、アート・セラピー的要素が売り物となっているのでしょう。 前回の記事 で、欝気味の人のプロザックの乱用が問題になっている話しを書きましたが、プロザックに手を出す前に、こういう大人のための塗り絵をして、一日のうちの数十分でも、ページをカラフルに彩りながら、頭の中は、雑念を追い払い、真っ白にしてみるのもいいのかもしれません。...

一生のうちに取る薬の量

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近くに行く用事があったので、 大英博物館 へちょこっと入ってきました。パリでのテロ事件があったばかりなので、入館には、荷物検査など厳しくされるかな・・・と思いきや、検査など一切無く、入り口付近には、検査官すら見当たらず、皆、そのままどんどん入館と、おおらかなもので、少々、拍子抜けしました。 あまり時間がなかったので、今回は、地階にある1、2部屋見ただけ。入り口付近のイースター島の巨大 モアイ像 に誘われて、「Living and Dying 生きる事と死ぬ事」と題された部屋(現段階では、 ルーム24 )に入りました。色々な文化が、生きていくために、どうやって健康を維持するか、危険を逃れようとするか、死に対してどういう対処をするか、というのをテーマにした部屋のようです。 モアイ像の背後に回ると、腰の高さで上から覗く様になっているショーケースが置かれており、その中に展示されていたのは、「大英博物館に、こんなものが・・・。置き場所を、テート・モダンと間違えたんじゃないか。」と思わせるような、モダン・アート風の代物。私、いわゆるモダン・アートは、大したことが無いものをもったいぶって、いかにも深い意味が在るように見せているものが多い気がして、あまり好きではないのですが、これは、ちょっと面白かったのです。長い、2つの、薄い反物のようなものが広げられていて、その布地に、いくつもの薬の錠剤が縫い込まれています。「Cradle to Grave ゆりかごから墓場まで」というタイトルがついており、一反は男性が、一反は女性が一生のうちに飲む薬を、誕生から死まで、ずっとこの反物に縫いこんであり、先進国の人間が、健康維持のために、どれだけ薬を頼りにしているか、という展示。 説明のラベルを読むと、現在イギリス人が一生の間に飲む、さまざまな薬の数は、平均約1万4千。片端の誕生時から時間順に、ある人物が取った薬がずーっと飾られています。誕生後の赤ん坊の時のワクチン用注射器なども展示されていました。 子供のときも、今も、サプリは別として、さほど薬は飲まない方だと、自分では思っているものの、痛み止めや風邪薬など、過去取ったものを全て換算すると、やはり、かなりの量にはなるのかもしれません。白血病患者のうちのだんなに至っては、毎日飲む薬の量だけでもかなりのものがあります。それで...

ウェリントン公爵の長靴

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今のところ、暖冬のイギリスですが、雨模様の日が多く続いています。先日、大洪水騒ぎとなった、湖水地方のあるカンブリア州一帯にくらべれば、うちの周辺はましな方ですが、庭の芝生も、乾く間が無く、なにやらドロドロし、横切るたびに、足の下でぐちゃぐちゃと音をたてています。 そこで、ちょっとぬかるみに入る可能性がある外出は、ここのところ、いつもゴム長靴を履いて出ます・・・いや、考えてみれば、最近、ゴム長靴以外の靴を履くことが少なくなっている感じです。9月末から10月頭にかけて、 サマセットとドーセット州の旅行 に出たときも、ウォーキングシューズを車のトランクに入れながら、基本的には、ずっと長靴で歩き回ったのでした。ずっと、好天気だったのにかかわらず・・・。ウォーキングのしすぎで、足の親指に黒あざができていて、つまさきに余裕のある長靴が一番らくだったのもありますが、海岸線を歩くときなども非常に便利でした。大体は、ジーンズの下に履いているので、見えるのは足先だけ。足元をじろじろ見られない限り、ゴム長を履いていると気づかれない場合の方が多いと思いますし。そんなこんなで、長靴が、自分のトレードマークとなりつつある感じで、まるでウェリントン公爵(Duke of Wellington)のよう。 長靴は、イギリスの口語英語で、ウェリー(Wellie、Welly)と呼ばれることが多いです。足は2本なので、靴(shoes)と同じで、ペアの長靴を指す場合は「ウェリーズ Wellies」と複数形となりますが。これは、「ウェリントン Wellington」(複数は当然Wellingtons)または、「ウェリントン・ブーツ Wellington Boots」を短縮したもので、由来は、ナポレオンをワーテルローの戦いで破り、後には、イギリスの首相ともなった、初代ウェリントン公爵、アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley)が愛用していたブーツに遡ります。折りしも今年は、ワーテルローの戦いの200周年記念でした。 18世紀に軍で着用されていたブーツは、主に子牛の皮で作られたヘッセン・ブーツ(Hessian Boots)と称されるもので、大体において、前にv字の切れ目が入り、装飾の房がさがっていたということ。ウェリントン公爵もこのブーツを愛用していて、軍の将校のみならず、一般紳士の...

イギリスでのパネトーネ人気

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20世紀初頭のイタリアはミラノで生まれたお菓子パネトーネ(panettone)。時間をかけて発酵させ、ふくれあがった、ドライフルーツ入りの巨大ブリオッシュの様なこのお菓子は、クリスマス時期に良く食べられるものです。 イギリスのクリスマス時期の伝統的スウィーツというと、 クリスマス・プディング もクリスマスケーキも、ドライフルーツがたっぷり入り、色が比較的濃く、重いものが多いのです。当然、レシピによって、小麦粉に比べ、ドライフルーツの含有量が多ければ多いほど、色はどす黒くなっていくわけですが。クリスマスケーキは、その重く黒っぽい物体の上に、更に、分厚い白のアイシングで覆われている事が多く、お腹にドーンとくる上、かなり甘いのです。日本人の感覚から、ふわふわのスポンジに生クリームが挟まって、イチゴでトッピング・・・の様なものを想像するとトンでもハップン。 こういったものを食べるとき、私は、大体、2,3杯の紅茶で流し込むこととなるのです。そのどっしり感は、殺人の凶器に使えるのではないかと思うくらい。投打されて死亡した男性の死体、凶器は見つからない・・・凶器は、実は、1年前の固くなったイギリスのクリスマス・ケーキであった、そして犯人は殺人を犯した後、証拠を消すため、ケーキを食べてしまったのだ、なんていう筋の犯罪物でも書けそうな気がします。 最近のクリスマス時期、このイギリスの伝統のお菓子たちの他に、イタリアのパネトーネが段々と人気を博してきているという話です。特に、ちょっと洒落たギフトや、パーティーに呼ばれて持っていくものなどに、購入する人が増えているのだとか。新聞や雑誌などでも、各社のパネトーネの味比べリストなどという記事が組まれているのも目にし。高級デパートや食料品店の高めのものも出回っていますが、勢いに乗って、イギリス中に支店を増やしているドイツ系スーパーの、リドル(Lidl)やアルディー(Aldi)が、よく、大陸ヨーロッパの食料品も販売しており、お手ごろ価格のパネトーネもクリスマス期には必ず売っているのも、パネトーネ人気の一般化を手伝っているのかもしれません。(それにしても、ドイツ・・・製造業のみならず、イギリスが得意とするはずの販売業まで、イギリスのスーパーを負かす勢いです。) ということで、このトレンドを反映するように、うちのだんなも、先週、友人か...

ポンセチアとアクリスマス

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12月に入り、巷のクリスマス色も強くなっていきます。スーパーのレジの周りには、列を作って待っている人たちの衝動買いを促すかのように、大量のポインセチア(Poinsettia)が置かれていました。イギリスで、クリスマスの時期に一番売れる植物は、このポインセチアなのだそうです。我が家で、冬季の室内用に購入する植物は、大体、 ヒヤシンス とシクラメンですが、たまには、ポインセチアも飾ってみるか、とひとつ購入。わりと大きめで、2ポンド50ペンスと、スーパーで買う植物も、最近は安いものです。どこかの巨大な温室で、同じ植物を一気に、大量生産しているのでしょう。 頭でっかちな植物であるため、バランスが取れるよう、家に持って帰った後、わりと大き目のポットに移し変えました。また赤と緑のバランスで、赤がかなり強烈なので、ポットの色は少々緑がかったものにし、ついでに、つたで作ったリースで鉢の底を飾り。2階の寝室の窓辺に置くと、ベルベットの様な赤い葉が、イギリスの冬の空を背景に、わりといい感じです。もっとも、この赤い部分は、厳密には葉でも花でもなく、苞(苞葉)、英語では「bract」と呼ばれるもの。 ポインセチアの故郷はメキシコ南部を含む中南米。赤と緑の強い色合いは、出身地がメキシコと言われると、確かに、そうだろうなという感じはします。アステカの時代には、紫色の染料材として、ミルク色の汁は、解熱のための薬に使用されたとか。 トウダイグサ(ユーフォルビア)属のポインセチアの学名は、「Euphorbia pulcherrima」。意味は、「最も美しいトウダイグサ(ユーフォルビア)」。もちろん、学名で呼ぶ人などはほとんどいませんが。俗称のポインセチアは、アメリカ合衆国にこの植物を持っていき、紹介した人物の名からきています。1825年、初代メキシコのアメリカ大使となったジョエル・ロバーツ・ポインセット(Joel Roberts Poinsett)氏は、メキシコで、このカラフルな植物に遭遇し、アメリカの、自分の家のグリーンハウスで育成するよう送り、また、知り合いにもいくつか送り、そこから広がり、徐々に商業用に売られるようになります。1830年代から、すでに、アメリカでは、この植物は、ポインセット氏の名から、ポインセチアと呼ばれるようになっていたということ。 なぜ、ポインセチアがク...

眠られぬ夜のために

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昔から、寝つきの悪い子供でした・・・と 前回の記事 にも書きましたが、年とともに、寝つきの悪さと、眠りの浅さがひどくなっている感じです。まじめ人間の私に比べ、ずーっと脳天気な母親も、過去30年ほど、不眠症に悩まされ、時に睡眠薬のお世話になっている人。こういうのも、遺伝と言うのはあるのでしょうか。もっとも、不眠症の人間というのは非常に多いらしく、眠れないばかりに、体の調子をこわす人などもかなりいるというのですから、困ったものです。 更には、「眠らなきゃ」と焦れば焦るほど、それがストレスとなり、益々眠れなくなるのです。あがけばあがくほど、沈んでいく、蟻地獄のよう。定かではありませんが、サミュエル・ベケットによる戯曲、「ゴドーを待ちながら」の中に、深く考えないようにしようと、「考えない、考えない、考えない、考えない」とおまじないの様に自分に言い聞かせながら、「ああ!まだ、考えちゃいけないという事を考えてる~!」という台詞があったような記憶があります。この心境は、痛いほどわかります。「眠らなきゃ」のプレッシャーが、快眠には、かなり悪いことであるから、眠るためには、あまり「眠らなきゃ」と思わんようにしようとすると、「眠らなきゃ、と思っちゃいかん」と必死になっている自分に気づき、ストレスは、逆に、二乗、三乗になって行くのです。 そんなこんなで、先月は、あまりにも眠れないことが多く、睡眠時間1時間以下・・・のような日が2日ほど続いて、日中もゾンビ状態と化していました。 ビアトリクス・ポター作の「フロプシーの子供たち」(The Tale of Flopsy Bunnies)の話によると、レタスは眠りに誘う成分が入っているとかで、レタスをたらふく食べた、フロプシーの子うさぎ達は、上の挿絵の様にバク睡状態に陥るのです。この子うさぎ達の、寝ている様子が、あまりに気持ち良さそうなので、わらにもすがる気持ちで、寝る前にレタスをぼりぼり食べたり、レタス・スープを作って飲んだりしてみましたが、人間の私には、あまり効き目はなく・・・。最近、テレビで、マグネシウムのサプリが快眠にいい、などとやっていましたが、これはまだ試していません。寝る前に飲まないほうがいいのは、当然カフェイン類とアルコール。ここのところ、コーヒーはもちろん、紅茶は6時以降は、手をつけるのをやめました。夜に炭水化物...

「おやすみなさいフランシス」と「しろいうさぎとくろいうさぎ」

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ラッセル・ホーバン著「おやすみなさいフランシス」(原題:Bedtime for Frances)という絵本は、私が子供時代、一番のお気に入り絵本でした。ふと、なつかしくなり、アメリカから古本を取り寄せました。イラストは、ローラ・インガルス・ワイルダーによる「インガルス一家の物語」シリーズの挿絵でも知られるガース・ウィリアムズ(Garth Williams)。 日本では人気だった「おやすみなさいフランシス」ですが、イギリスの本屋で売っているのは見たことは一度もありません。また、やはり、私が子供の時に大好きだった、米作家ルース・スタイルス・ガネットの「エルマーの冒険」(My Father's Dragon)シリーズ3作も、イギリスの子供の間ではほとんど知られていない感じです。「インガルス一家の物語」シリーズも、後半の4冊は、アメリカから古本を購入して読んだ次第。もっとも、こういった本を外国から、コーヒーを一杯買うのとさほど違わない値段で購入できるのは有難いことで、本当に、インターネット様様です。 今回購入した「Bedtime for Frances」は、色つきなのですが、私が日本で読んだものは、色は、淡い緑と黄色だけでした。この彩色の仕方と色の選択がいまひとつなのは、あとから、本人以外の誰かがつけたものなのではないかと、思います。これがちょっと残念でしたが、いやはや、懐かしい・・・。 The big hand of the clock is at 12. The little hand is at 7. It is seven o'clock. It is bedtime for Frances. 時計の長い針は12を指しています。 短い針は7を指しています。 7時です。 フランシスが寝る時間です。 の冒頭の部は良く覚えています。この後、ベッドへ連れて行かれたフランシスは、なかなか眠れず、部屋の中にトラがいる、巨人がいる、天井の割れ目から何かが出てくるかもしれない、窓のカーテンの動きが不気味だ・・・と色々と心配になり、其の度に、ベッドから這い出し、両親のところに行って、報告をするのです。 私は寝つきの悪い子でした。床に着いてから、軽く1時間は、「明日、早起きして学校行かなきゃいけないのに、眠れない・・・」と、...

ベルシャザルの酒宴ー壁の言葉

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ロンドンのナショナル・ギャラリーにかかるこの絵は、レンブラントによるは、「 ベルシャザルの酒宴 ー壁の言葉」(Belshazzar's Feast)。旧約聖書内の「ダニエル書」(Book of Daniel)の第5章に登場する話です。 前回の記事で、ボンド映画「 007 スペクター 」の主題歌の題名である「Writing's on the Wall」(壁に書かれた言葉)は、旧約聖書に由来すると書きましたが、これが、そのシーンです。 新バビロニア王国の王ベルシャザルが、酒宴を開き、やれ食え、それ飲めの大盤振る舞い。そして、父王ネブカドネザルがエルサレムの神殿から持ってきた金銀の器をテーブルへ持ってこさせ、客人たちと共に、それを神の様に崇め、その器で酒を飲み交わしていると、空中に手が現れる。ベルシャザルと客人が驚いて見つめる中、手は、壁の上に何かを書く・・・ 以下、最も良く引用される英語版の聖書である「キング・ジェームズの聖書」の「ダニエル書」第5章より。 5-5 In the same hour came forth fingers of a man's hand, and wrote over against the candlestick upon the plaister of the wall of the king's palace: and the king saw the part of the hand that wrote. その時、人間の手の指が現れ、蝋燭の明かりの中、王の宮廷の壁のしっくいに文字を書いた。王はその文字を綴る手の一部を見た。 恐れおののいたベルシャザルは、壁の言葉を解読するように、宮廷内の賢人たちを呼び寄せたものの、1人として、解釈できる者がいないのです。そこで、英知を持つと知られるダニエルが呼び出され、壁の文字を読んでくれと王から頼まれます。ダニエルは、まず、ベルシャザルが、虚栄と誇りに満ち、神よりも自分を上に置き、金銀の器を崇めながら、生を与える神を称えるのを怠った事を告げるのです。そのため、神は、手をベルシャザルの前に送ったのだと。ダニエルは、ここで、壁の文字を読み上げます。 5-25 And this is the writing that was written, ...

007 スペクター

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007の新作公開は、いつも一大イベントの感があります。今回の「007 スペクター」(Spectre)も、前作の「 スカイフォール 」同様、イギリスでの公開は、学校の秋の中休み(ハーフ・ターム)の開始に会わせ、10月の終わりでしたが、その1ヶ月くらい前から、少しずつ、「新作が出るぞ」と話題になり、それでいながら、出し惜しみするように、映画の内容やストーリー、映画からのビデオはほとんど見せずに、露出度を低めた上手な宣伝。日本やドイツなどとは違い、製造業がぱっとしないイギリスにとって、映画や音楽のメディア系は、非常に大切なマネースピナーなのです。特に007はね。外貨も沢山稼いでくれる事でしょう。 サム・スミスのテーマ曲「Writing's on the wall」も映画に先立ち発表され、イギリスでは、チャートの1位を達成していました。ついでながら、「Writing's on the wall」(壁に書かれた文字)というフレーズは、 旧約聖書が出典 で、「予言が壁に書かれる=変えられない運命、予告された通り絶対に起こる事」の意味でよく使用される慣用句です。 3年ぶりの新作、やっぱり、映画館で見なきゃ、と、私たちも、ちょいとほとぼりが冷めかけた11月中旬に入ってから見に行きました。ガッカリする事無く、途中、飽きる事無く、大迫力で、満足でした。 あらすじ(まだ見ておらず、知りたくない人は飛ばして下さい) 映画のオープニング・シーンは、メキシコ・シティーの「死者の日」(Day of the Dead)の祭り。「死者の日」は、かなり大昔から祝われていたようですが、現在はカソリックのキリスト教の祭りとして定着しているという事で、 万聖節(諸聖人の日)の前夜 (10月31日)から、11月1日,2日に祝われています。ハロウィーンと時期を同じくし、この映画の、イギリス公開時期にはぴったり。多くのどくろのマスクをつけた人々が行きかう通りと広場。ここに何故か、ボンドが潜入しており、マルコ・スキアーラなる人物を暗殺しようとし失敗、賑わう通りを追跡し、ついには、混みあった広場上空に舞うヘリコプター内での一大バトル。無事にスキアーラをヘリから叩き落とし、そのままヘリを操縦して脱出。ボンドが手にするのは、スキアーラが身につけていた、タコのようなデザインが刻まれている...

セント・トマス病院のオールド・オペレーション・シアター(旧手術室)

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Old Operation Theatre 今回、 扁桃腺摘出手術 をして、つくづく思ったのは、麻酔や痛み止めのある時代に生まれてよかった・・・という事。麻酔と言うものが存在しない以前の手術たるや、考えただけで絶叫しそうです。実際、すでに体が弱っているところへ持って来て、手術の痛みのショックで死亡した人なども多いみたいですしね。 ロンドン・ブリッジでテムズ川を渡った南岸のサザック(Southwark)地区に、そんな、麻酔が無い時代の手術室が残っています。オールド・オペレーション・シアター(旧手術室)博物館(The Old Operation Theatre Museum)。 旧セント・トマス病院(St Thomas Hospital)の一部であった、セント・トマス教会内の階上という、隠れ家の様な、変わった場所にあるこの博物館ですが、かつては、このセント・トマス教会の片側にセント・トマス病院の女性の病棟があり、以前は病棟内で行われていた手術を、隔離した場所でできるよう、ここに手術室を作ったのだそうです。旧手術室が設置されたのは、1822年のこと。医学生等が、手術を見学できるよう、手術台は、ぐるりと座席に囲まれています。手術台、手術室は、英語でオペレーション・シアター(operation theatre)ですが、まさに、劇場(theatre)ののり。 当時は、裕福な人物は、手術は自宅で受けていたそうですので、こういった場所で手術を受けたのは、比較的貧しい層。1846年あたりに、エーテルなどが実験的に麻酔として使用されるようになるまで、アルコールを飲むこと意外、麻酔と呼べるものは使用されておらず、しかも、手術に麻酔を使用することが一般化するのは更に後の話。痛みは治癒の一環であると信じていた医者も一部いたとやらで、それが、麻酔の普及に時間がかかる一因ともなったようです。また、患者は、痛みの恐怖の他に、押すな押すなと、多くの人間が自分の手術を見学しているという、半見世物体験もするとあって、踏んだり蹴ったりです。 麻酔はもとより、ばい菌感染に対する知識も、予防も行われておらず、汚い環境の中、医師も手を洗う事も、マスクをする事もなく、しかも、医学生で大入り満員の部屋の中、術後の感染で死亡するケースもあったようです。あまりにも危険すぎるため、内臓、脳の手術な...

扁桃腺摘出手術の体験記

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子供の時に扁桃腺を取ってしまう、というのは、1950年代60年代あたりでは、わりとよくある現象でした。扁桃腺は、子供の免疫系が発達した後は、必要がなくなるものであるという事で、頻繁に炎症を起こしたり、高熱を引き起こす原因となるなど、ちょっと問題が出た場合は、早めに切ってしまうというのが、当時の傾向であったようです。親知らずを抜くのと似たような感じで。この頃幼少期を過ごした人には、扁桃腺はとっくの昔に切ってしまったという人は、わりと多い事でしょう。私の65歳の日本人の友人も、なんでも6歳の時に、麻酔無しで、立ったまま手術を受けた、という恐ろしくスパルタ風の話をしていました。 上の絵は、1968年に出版された、アメリカの人気絵本作家リチャード・スカーリー(Richard Scarry)によるものですが、子うさぎのアビーが病院に行き、ドクター・ライオンに、扁桃腺を取る手術をしてもらう、という内容。ドクター・ライオンは、アビーの喉を除きこみ、「とても悪いtonsils(扁桃腺)だ。切らないと。明日病院へおいで。」と事も無げに。 翌日病院へ行ったアビーは全身麻酔で手術。アビーが寝ている間に、ドクター・ライオンは、アビーを丸呑みにして食べてしまいました・・・・なんて、はずは無く、手術が成功したアビーはちゃんと目覚め、 喉が痛くなっていたけれど、アイスクリームを食べてちょっと元気になりました・・・と。隣のベッドの犬のロジャーもすでに手術を終えて、アイスクリームを食べた後。子供の扁桃腺摘出は、アメリカでも当時、多く行われた手術であったのでしょう。子うさぎですら、こうして手術をして、すぐ、ニコニコしているのだから、大丈夫だよ、と子供に安心させるのが目的で書かれたのだと思います。この本、「扁桃腺を取るのは日常茶飯事」のような感覚で、なかなか面白い時代物です。 昨今、トレンドの変化で、切ってもあまり意味が無いケースが多いのか、ちょっとやそっとでは、切らない事が多くなっているようです。そのためか、大人になってから、異常を起こした扁桃腺を切る、という人も増えているという話です。私もその1人で先月、扁桃腺を切りました。もっとも、私は、子供の時は、扁桃腺に問題を起こすことなどは一切無かったのですが。 という事で、大人になってから扁桃腺手術をむかえようとする人に、何...

「ビル・ブライソンの究極のアウトドア体験」と「わたしに会うまでの1600キロ」

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アメリカの東海岸よりを、南北に走るトレイル(ハイキング路)、アパラチア・トレイル(Appalachian Trail)。そして、アメリカ西海岸よりを南北に走るトレイル、パシフィック・クラスト・トレイル(Pacific Crest Trail)。其々、その全距離は、3500キロと4286キロという半端ではない長さです。参考までに、イングランド国内の長距離トレイルで最長のものは、現段階では、イングランド南西の海岸線をぐるっとめぐる、サウス・ウェスト・コースト・パス(South West Coast Path)の1014キロですので、規模が違います。いつの日か、イギリスの海岸線を全てつなぐトレイルができたら、話はまた別ですが。 大きなリックをしょって、キャンプをしながら、このアパラチア・トレイルとパシフィック・クレスト・トレイルを歩く事をテーマにした映画を2つ、立て続けに見ました。 まずは、米作家ビル・ブライソンの体験談「A Walk in the Wods」(日本語訳題名:ビル・ブライソンの究極のアウトドア体験、北米アパラチア自然道を行く)をもとにした、同名の映画。こちらは、映画館で見ました。いつも、低く雲が空を覆うイギリスに住むのは、「タッパーの中に住んでいるようなものだ」の名言で知られる彼。イギリス人の奥さんを持ち、長くイギリス在住、現在はノーフォーク州に住むビル・ブライソンは、イギリスでも大人気のユーモア作家で、一家に最低一冊は、この人の本があるのではないでしょうか。 これは、彼が一時アメリカに戻り、ニューハンプシャー州に住んでいた時の話で、いきなり思い立って、酒飲みで怠惰な友人のカッツと共に、アパラチア・トレイルの制覇を目指すというもの。映画の中では、住んでいた家のすぐ近くに、このトレイルの一部が通っているのに気がつき、調査を始める・・・という設定になっていました。 当時、ブライソンは、40代であったそうですが、演ずるは、79才(!)のロバート・レッドフォード。よって、「あんた、ほんとに、3000キロ以上の道のりを歩くつもりかね?」という無謀ぶりは良く出ています。1人で旅に出るのを心配する奥さん(エマ・トンプソン)は、アパラチア・トレイルで、熊に襲われ死んだ、変な人間に襲われた、崖から落ちた・・・云々・・・という記事を集めて、見せ、不安にな...

トーマス・ハーディーの生家

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ドーセット州ハイヤー・ボッカンプトン(Higher Bockhampton)にある、藁葺きのコテージ。1840年、作家トーマス・ハーディー(Thomas Hardy)は、ここで生まれます。 当コテージは、1800年に、ハーディーの曾おじいさんが建てたと言うもので、コテージの前には花や野菜が植えられたガーデンが広がり、周辺は森林に囲まれ、駐車場からは、この森林を通り抜け、徒歩10分。ハーディーは、人生の最初の22年間をここで過ごします。 トーマス・ハーディーは、最初は、建築家となる教育を受け、1862年には、ロンドンに一時職を見つけ、この地を離れるものの、1867年に、再び舞い戻り、この家で、小説を書き始めるのです。1871年、最初に出版された「Desperate Remedies」(窮余の策)は、作品としてはいまいちで、三文小説風なのだそうですが、それなりに売れ、その後、作家業に専念。このコテージで書き上げた作品は、他に、1872年の「Under the Greenwood Tree 」(緑樹の陰で)、そして、1874年には、「Far from the Madding Crowd」(遥か群集を離れて)。 1874年に、結婚したハーディーは、このコテージを去りますが、ドーチェスター(Dorchester)郊外の新居「Max Gate」に移ってからも、1928年に亡くなるまで、徒歩や自転車で、何度も、愛するこの家を訪れていたのだということ。ドーチェスターから、ハイヤー・ボッカンプトンまで約3マイル(4.8キロ)。ハーディーの若い頃は、学校そして仕事へも、ドーチェスターへ、毎日、往復歩いて行っていたわけですが、当時の人は、本当に良く歩きましたよね。 コテージの中へ入ると、一階の本棚に、ハーディーの本が沢山並んでいましたが、棚の一段は、日本語訳の本が沢山。 ハーディーが誕生した直後、死産ではないかと思われたようですが、すぐに赤ん坊が息をしているのがわかり、皆ほっと一息。 内部は、ハーディーの生家でなくとも、昔ながらのイングランドのコテージとして十分見る価値あります。この窓際のアームチェアに座って読書でもしたら、日が沈むまで、時間が経つのも忘れそう。 ハーディーが著作を行ったのは、2階のこの部屋。窓際に置かれた机に座って。 ...