イングランド、そしてセント・ジョージ!
God for Harry! England and Saint George!
神はハリー(ヘンリー)の側にあり!イングランド、そしてセント・ジョージ!
「ヘンリー5世」第3幕、第1場 (ウィリアム・シェイクスピア)
時は1415年、いわゆる百年戦争中の、イングランドとフランス。イングランド王座のみならず、フランス王座も頂戴したいところの、ヘンリー5世とその軍隊は、フランスに上陸。北フランスのアルフルールにて要塞に囲まれた町を包囲襲撃する事、約6週間。9月22日に、ついにアルフルールを陥落させます。シェークスピアの戯曲「ヘンリー5世」内での、アルフルール包囲戦の場面で、ヘンリー5世が、戦い前に叫ぶ、有名なバトル・クライ(戦の雄叫び)が、上の「イングランド、そして、セント・ジョージ!」です。ここで、ヘンリーは、えいやーと剣を空に掲げ、意気高揚した兵士達が、「おー!」と答えて、襲撃・・・という事になるわけです。
ここで出てくるセント・ジョージ(日本では聖ゲオルギウスなどと称されるようですが)は、イングランドの守護聖人。白地に赤の十字のセント・ジョージの旗は、イングランドの旗でもあります。サッカーなどで、イングランドがプレーする時に、ファンがさかんに振る旗なので、馴染みの事でしょう。
ところが、セント・ジョージは、もともと、イングランド人ではなく、3世紀のローマ帝国の兵士で、しかも、現トルコのカッパドキア出身、後に現パレスチナへ移ったとされる人です。人種的には、どうなんでしょう、ギリシャ系か何かでしょうか?お肌の色なども、いわゆるイングランド人に比べ、こんがりして健康的だったかもしれません。時に、イングランドのセント・ジョージ旗は、イングランド内の白人を優越とする、人種差別グループなどにシンボルとして使用される事もあるのですが、ジョージ自身が、そういう人たちに、差別されてしまうようなバックグラウンドなのです。もっとも、ヘンリー5世などの王様たちも、生粋のイングランド人とはほど遠く、大陸ヨーロッパの血が濃い人たちで、結婚相手も、大体の場合、大陸ヨーロッパの貴族王族の娘から選んでいたわけですから、イングランド、イングランド人というものが、人種的には、いかに漠然とした概念であるかがわかります。(イングランドの王様達の人種について、詳しくは過去の記事「英語とフランス語」まで。)
ローマ、アングロ・サクソン、バイキング、ノルマンの度重なる征服の歴史の後にできたイングランドで、「それでは、生粋のイングランド人とは、何者じゃ?」とは、確かに難しい問題です。みんな、雑種なんですよね、最終的には。外国の血統の王様ヘンリーが、ひとつの「イングランド」と「イングランド人」いう概念を強く打ち出し、愛国心を煽り立てたのは、そうした、人種的まとまりがはっきりしない兵士達、ひいてはイングランド一般国民の一致団結に役立ったからでしょう。特に、外敵に対する時は、一体感が強まる時ですし。
ついでながら、この「イングランド、そしてセント・ジョージ!」の雄叫びに終わる、アルフルール襲撃前のヘンリー5世の台詞の冒頭も、とても有名なものなので、言及しておきます。
Once more unto the breach, dear friends, once more;
Or close the wall up with our English dead!
もう一度、崩れかかったあの要塞に向かい、諸君、もう一度!
たとえ、イングランドの死者で、要塞の穴を埋めることとなろうとも!
物事を途中であきらめずに、根性で挑戦しよう、というような時に引用される事があります。
参考までに、アルフルール包囲戦の後、10月25日に戦われるのが、イングランド軍が、約3倍の人員のフランス軍を破るアジンコートの戦い(アジャンクールの戦い)です。やがて、ヘンリーは、フランスの王様シャルル6世の娘キャサリン(カトリーヌ)と結婚、シャルル6世が死去した後は、フランス王座は、ヘンリーに行く、という取り決めになります。最終的には、ヘンリー5世とシャルル6世は、ほぼ同時期に死亡してしまうので、フランス王座は、ヘンリー5世とキャサリン妃の幼い息子、生後9ヶ月のヘンリー6世に。そして、ヘンリー6世時代に、フランスでジャンヌ・ダルクの登場となり、百年戦争は終結を見ます。続いて、イングランド内でのお家騒動である、ばら戦争が本格的に炸裂するのですが、それは、また、別の話となります。
焦点をセント・ジョージにもどしましょ。昔の聖人の話は、事実か否か、疑わしいものが多いので、まあ、そういう事になっている・・・くらいに聞いておくのが良いのですが。両親もキリスト教徒であり、自分もそうだったというセント・ジョージは、ローマ帝国のキリスト教徒虐待を批判したため、投獄拷問にあいます。にもかかわらず、キリスト教への信仰を捨てず、最後は、斬首刑。
セント・ジョージは、戦士達の保護聖人として、十字軍遠征で、聖地での戦士達にあがめられるようになります。セント・ジョージとは関係なく、白地に、殉教者の象徴である赤の十字は、テンプル騎士団の衣装などに使用されていましたが、イングランドで、この白地に赤十字を、セント・ジョージのシンボルとして使用し始めるのは、獅子心王リチャード1世の時代だなどと言われますが、定かではないようです。14世紀中ごろに、エドワード3世は、ガーター騎士団設立の際に、セント・ジョージをその守護聖人とし、この赤十字をシンボルに使用。
その後、徐々に、ジョージは、イングランドの守護聖人として確立されていき、ヘンリー5世の雄叫びに至るのです。セント・ジョージが処刑されたとされるのは、303年の4月23日で、4月23日が、セント・ジョージの日です。アジンコートの戦いの同年に、イングランドでは、セント・ジョージの日は、クリスマスと同じように扱われるべきだとされて、18世紀後半までは、わりと大切な祝日であったようですが、現在では、この日は休日ではありませんし、「今日はセント・ジョージの日だ!」と気にする人もあまりいないように見受けます。
セント・ジョージの伝説が、一般のイギリス人の間でも、良く知られるようになるのは、13世紀、ジェノヴァの大司教であった、ヤコブス・デ・ウォラギネの筆によるキリスト教聖人達の伝説集である「黄金伝説」の英語版が、1483年に出版されてからと言われます。この「黄金伝説」の英語版の出版は、イングランドで初めて印刷業を営んだといわれる、ウィリアム・カクストン(キャクストン)によるものです。カクストンが出版した本の中では、他に、チョーサーの「カンタベリー物語」などがあります。
セント・ジョージと言うと、登場するのが、セント・ジョージとドラゴンの話ですが、こちらも、「黄金伝説」内に記述されています。ざっとした物語は、
ある都市で、ドラゴン(竜)が住民達を怖がらせていた。羊などを生贄にしたものの、らちが明かず、やがて、くじ引きで、運悪く当たった人間を生贄にするようになるが、そのうち、王様の娘が、生贄になる事となってしまった。ドラゴンの住処のそばに連れて行かれたお姫様。そこへ、セント・ジョージが通りかかる。理由を聞いたジョージは、ドラゴンをこらしめ、お姫様の靴下留めを、ドラゴンの首にまきつけ、ペットの犬を連れるようにして、町へ連れて行く。ジョージは、王様と町の住人達に、洗礼を受け、キリスト教信者になれば、ドラゴンを殺してあげましょう、と約束し、王様がそれを約束すると、ジョージはドラゴンを殺す。王様は、ジョージにお金を報酬として渡そうとするが、ジョージはそれを断り、それを貧しい者達に渡してくれるよう、また、王に、慈悲深い、良いキリスト教徒であるよう告げて、去っていく。・・・と、ヒーロー映画の元祖のような話です。
かつて多くの絵画のテーマにもなっており、下に、ロンドン・ナショナル・ギャラリーからの有名な、セント・ジョージとドラゴン(聖ゲオルギウスと竜)の絵を2つ紹介しておきます。
こちらは、遠近法などに凝ったと言われる初期ルネサンスの画家、パオロ・ウッチェロの「聖ゲオルギウスと竜」。私、この絵の、宇宙人のような顔をし、妙に落ち着き払ったお姫様がおかしくて、好きです。
こちらは、ルネサンス、ヴェネチア派の画家、ティントレットによるもの。ウッチェロのものより、もっとドラマチックで、こちらは、お姫様、確実に怖がって、画面から飛び出そうな勢いで逃げています。
そういえば、今年の夏は、ブラジルでの、サッカーのワールド・カップ。どんなに、イングランドの旗を振っても、「イングランド、そしてセント・ジョージ!」と叫んでも、イングランド優勝は、まず、ほとんど言って良いほど、あり得ないでしょう。敵対する他のチームのメンバー全員が続けざまに、下痢などで体調不調を起こすような奇跡を、セント・ジョージが引き起こしてくれない限りは。
神はハリー(ヘンリー)の側にあり!イングランド、そしてセント・ジョージ!
「ヘンリー5世」第3幕、第1場 (ウィリアム・シェイクスピア)
時は1415年、いわゆる百年戦争中の、イングランドとフランス。イングランド王座のみならず、フランス王座も頂戴したいところの、ヘンリー5世とその軍隊は、フランスに上陸。北フランスのアルフルールにて要塞に囲まれた町を包囲襲撃する事、約6週間。9月22日に、ついにアルフルールを陥落させます。シェークスピアの戯曲「ヘンリー5世」内での、アルフルール包囲戦の場面で、ヘンリー5世が、戦い前に叫ぶ、有名なバトル・クライ(戦の雄叫び)が、上の「イングランド、そして、セント・ジョージ!」です。ここで、ヘンリーは、えいやーと剣を空に掲げ、意気高揚した兵士達が、「おー!」と答えて、襲撃・・・という事になるわけです。
ここで出てくるセント・ジョージ(日本では聖ゲオルギウスなどと称されるようですが)は、イングランドの守護聖人。白地に赤の十字のセント・ジョージの旗は、イングランドの旗でもあります。サッカーなどで、イングランドがプレーする時に、ファンがさかんに振る旗なので、馴染みの事でしょう。
ところが、セント・ジョージは、もともと、イングランド人ではなく、3世紀のローマ帝国の兵士で、しかも、現トルコのカッパドキア出身、後に現パレスチナへ移ったとされる人です。人種的には、どうなんでしょう、ギリシャ系か何かでしょうか?お肌の色なども、いわゆるイングランド人に比べ、こんがりして健康的だったかもしれません。時に、イングランドのセント・ジョージ旗は、イングランド内の白人を優越とする、人種差別グループなどにシンボルとして使用される事もあるのですが、ジョージ自身が、そういう人たちに、差別されてしまうようなバックグラウンドなのです。もっとも、ヘンリー5世などの王様たちも、生粋のイングランド人とはほど遠く、大陸ヨーロッパの血が濃い人たちで、結婚相手も、大体の場合、大陸ヨーロッパの貴族王族の娘から選んでいたわけですから、イングランド、イングランド人というものが、人種的には、いかに漠然とした概念であるかがわかります。(イングランドの王様達の人種について、詳しくは過去の記事「英語とフランス語」まで。)
ローマ、アングロ・サクソン、バイキング、ノルマンの度重なる征服の歴史の後にできたイングランドで、「それでは、生粋のイングランド人とは、何者じゃ?」とは、確かに難しい問題です。みんな、雑種なんですよね、最終的には。外国の血統の王様ヘンリーが、ひとつの「イングランド」と「イングランド人」いう概念を強く打ち出し、愛国心を煽り立てたのは、そうした、人種的まとまりがはっきりしない兵士達、ひいてはイングランド一般国民の一致団結に役立ったからでしょう。特に、外敵に対する時は、一体感が強まる時ですし。
ついでながら、この「イングランド、そしてセント・ジョージ!」の雄叫びに終わる、アルフルール襲撃前のヘンリー5世の台詞の冒頭も、とても有名なものなので、言及しておきます。
Once more unto the breach, dear friends, once more;
Or close the wall up with our English dead!
もう一度、崩れかかったあの要塞に向かい、諸君、もう一度!
たとえ、イングランドの死者で、要塞の穴を埋めることとなろうとも!
物事を途中であきらめずに、根性で挑戦しよう、というような時に引用される事があります。
参考までに、アルフルール包囲戦の後、10月25日に戦われるのが、イングランド軍が、約3倍の人員のフランス軍を破るアジンコートの戦い(アジャンクールの戦い)です。やがて、ヘンリーは、フランスの王様シャルル6世の娘キャサリン(カトリーヌ)と結婚、シャルル6世が死去した後は、フランス王座は、ヘンリーに行く、という取り決めになります。最終的には、ヘンリー5世とシャルル6世は、ほぼ同時期に死亡してしまうので、フランス王座は、ヘンリー5世とキャサリン妃の幼い息子、生後9ヶ月のヘンリー6世に。そして、ヘンリー6世時代に、フランスでジャンヌ・ダルクの登場となり、百年戦争は終結を見ます。続いて、イングランド内でのお家騒動である、ばら戦争が本格的に炸裂するのですが、それは、また、別の話となります。
焦点をセント・ジョージにもどしましょ。昔の聖人の話は、事実か否か、疑わしいものが多いので、まあ、そういう事になっている・・・くらいに聞いておくのが良いのですが。両親もキリスト教徒であり、自分もそうだったというセント・ジョージは、ローマ帝国のキリスト教徒虐待を批判したため、投獄拷問にあいます。にもかかわらず、キリスト教への信仰を捨てず、最後は、斬首刑。
セント・ジョージは、戦士達の保護聖人として、十字軍遠征で、聖地での戦士達にあがめられるようになります。セント・ジョージとは関係なく、白地に、殉教者の象徴である赤の十字は、テンプル騎士団の衣装などに使用されていましたが、イングランドで、この白地に赤十字を、セント・ジョージのシンボルとして使用し始めるのは、獅子心王リチャード1世の時代だなどと言われますが、定かではないようです。14世紀中ごろに、エドワード3世は、ガーター騎士団設立の際に、セント・ジョージをその守護聖人とし、この赤十字をシンボルに使用。
その後、徐々に、ジョージは、イングランドの守護聖人として確立されていき、ヘンリー5世の雄叫びに至るのです。セント・ジョージが処刑されたとされるのは、303年の4月23日で、4月23日が、セント・ジョージの日です。アジンコートの戦いの同年に、イングランドでは、セント・ジョージの日は、クリスマスと同じように扱われるべきだとされて、18世紀後半までは、わりと大切な祝日であったようですが、現在では、この日は休日ではありませんし、「今日はセント・ジョージの日だ!」と気にする人もあまりいないように見受けます。
セント・ジョージの伝説が、一般のイギリス人の間でも、良く知られるようになるのは、13世紀、ジェノヴァの大司教であった、ヤコブス・デ・ウォラギネの筆によるキリスト教聖人達の伝説集である「黄金伝説」の英語版が、1483年に出版されてからと言われます。この「黄金伝説」の英語版の出版は、イングランドで初めて印刷業を営んだといわれる、ウィリアム・カクストン(キャクストン)によるものです。カクストンが出版した本の中では、他に、チョーサーの「カンタベリー物語」などがあります。
セント・ジョージと言うと、登場するのが、セント・ジョージとドラゴンの話ですが、こちらも、「黄金伝説」内に記述されています。ざっとした物語は、
ある都市で、ドラゴン(竜)が住民達を怖がらせていた。羊などを生贄にしたものの、らちが明かず、やがて、くじ引きで、運悪く当たった人間を生贄にするようになるが、そのうち、王様の娘が、生贄になる事となってしまった。ドラゴンの住処のそばに連れて行かれたお姫様。そこへ、セント・ジョージが通りかかる。理由を聞いたジョージは、ドラゴンをこらしめ、お姫様の靴下留めを、ドラゴンの首にまきつけ、ペットの犬を連れるようにして、町へ連れて行く。ジョージは、王様と町の住人達に、洗礼を受け、キリスト教信者になれば、ドラゴンを殺してあげましょう、と約束し、王様がそれを約束すると、ジョージはドラゴンを殺す。王様は、ジョージにお金を報酬として渡そうとするが、ジョージはそれを断り、それを貧しい者達に渡してくれるよう、また、王に、慈悲深い、良いキリスト教徒であるよう告げて、去っていく。・・・と、ヒーロー映画の元祖のような話です。
かつて多くの絵画のテーマにもなっており、下に、ロンドン・ナショナル・ギャラリーからの有名な、セント・ジョージとドラゴン(聖ゲオルギウスと竜)の絵を2つ紹介しておきます。
こちらは、遠近法などに凝ったと言われる初期ルネサンスの画家、パオロ・ウッチェロの「聖ゲオルギウスと竜」。私、この絵の、宇宙人のような顔をし、妙に落ち着き払ったお姫様がおかしくて、好きです。
こちらは、ルネサンス、ヴェネチア派の画家、ティントレットによるもの。ウッチェロのものより、もっとドラマチックで、こちらは、お姫様、確実に怖がって、画面から飛び出そうな勢いで逃げています。
そういえば、今年の夏は、ブラジルでの、サッカーのワールド・カップ。どんなに、イングランドの旗を振っても、「イングランド、そしてセント・ジョージ!」と叫んでも、イングランド優勝は、まず、ほとんど言って良いほど、あり得ないでしょう。敵対する他のチームのメンバー全員が続けざまに、下痢などで体調不調を起こすような奇跡を、セント・ジョージが引き起こしてくれない限りは。
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