スコット隊長の南極探検
1912年の1月17日は、キャプテン、ロバート・ファルコン・スコット率いる、計5人のイギリスからの探検隊が、サウス・ポール(南極点)に到着した日です。この快挙にもかかわらず、記念写真の皆の表情がいまひとつパッとしないように見えるのは、寒さと疲れもあるかもしれませんが、ロアール・アムンゼン率いるノルウェーからの探検隊に先を越されてしまい、南極点一番乗りの夢が破れ、意気消沈していたからでしょうか。写真内、立っている人物は左から、ローレンス・オーツ、スコット隊長、エドガー・エヴァンズ、座っている人物は左からヘンリー・バワーズ、エドワード・ウィルソン。ちなみに、アムンゼンの南極点到達は、1911年12月14日。スコット隊が到着した際には、ノルウェーの旗がすでに翻っていたのです。スコットが日記に綴った印象は、「最悪のケースが現実となった。白昼夢は捨てねばならぬ。」そして「なんて、ひどい場所だ。」
イギリスの旗を揚げ、写真を撮り、アムンゼンの残した「無事な帰途を祈ります」のメッセージを読み・・・。5人は、南極点で休息を取り、観測を行いながら、2日間過ごした後、再び、重い足を引きずり、長い帰途に着きます。そして、そのまま、途中で息絶え、帰らぬ人となる5人の苦行は、キャプテン・スコットの残した日記や、他のメンバーの手記などで、後に明らかとなるのです。
北極は、英語でArctic。語源は古いギリシャ語で、「北方の」の意味。南極は英語でAntarcticで、ギリシャ語の語源の意味は、「Arcticの反対」。確かに!地球の自転軸が通る北極点、南極点の英語は、それぞれ、North Poleと South Poleです。
北極点は、1909年にすでに到達されており、それよりも到達が難しいとされた南極点は、アイルランドの探検家アーネスト・シャクルトンが、やはり1909年に、到達を志すものの、南極点まで180キロの所で、引き返す事を余儀なくされています。誰が、南極点に最初にたどり着けるか・・・この時期の冒険家にとっては、「よし、俺が」となるのでしょう。スコットは、1901年から1904年にかけて行われた、ディスカバリー号での南極探索に、シャクルトンと共に参加した経験を持っていました。
キャプテン・スコットの一隊が、スコットランドの古い捕鯨船「テラ・ノヴァ」で南極大陸に到着したのは、南極点到達の約1年前の1910年の12月(南極では夏)。テラ・ノヴァで南極大陸へ運ばれたのは、人員65名、犬34匹、シベリアの子馬(ポニー)19頭、ソリを引くための機械3台。ニュージーランドから南極大陸の基地にたどり着くまでの過程では、ひどい嵐に見舞われ、この段階で、船が遭難しなかっただけでもみっけもののようです。
日の落ちない夏の間に、ロス海の沿岸に基地を確立し、積荷を降ろし、冬越しのできる小屋を建て、南極点到達のための計画準備を進める他に、周辺の動物、地質、天候などの自然観測を、この期間に行ったわけです。積荷を降ろす段階で、ソリ引きの機械が一台、氷の間に落ちて無くすと言うハプニングも。
基地から南極点への出発は、1911年の11月始め。計画は、基地から南極までの間に、いくつかのデポを儲け、其々のデポに、帰り道のための食料と燃料を残していくこと。出発時は、当然、荷物も多く重いため、人員も多く、途中のデポで積荷を落としていくたびに、少しずつ、何人か引き返し、最終的に、南極点まで行くのは5人のみとなるのです。また、犬とポニーの体力を保つために、最初のうちは、2台の機械でソリを引いていくのですが、これが、寒さのため、すぐに壊れてしまうのです。また、12月のはじめには、大変な吹雪に会い、弱ったポニーは、すべて銃殺。(まあ、ポニーは、最初の計画段階から、おそらく最後まではもたないとはわかっていたようです。現在から顧みると、「えー、南極に、うま~?」などと思うのですが、当時はまだ、試行錯誤であったのでしょう。)そして、氷河を越えた後に、今度は犬のチームが帰還し、残りの旅路は、大変な苦労をしながら、マンパワーのみでソリを引いて進む事となります。上記の通り、目的地で待っていたのは、ノルウェーの旗。そして、周辺には、スキーの跡、ソリの跡の他に、ノルウェー探検隊が引き連れた無数の犬の足跡。
がっくりしながらの帰途。まず、転倒し頭を打撲して負傷したエヴァンスが死亡。食料と燃料のデポは、一日約16~19キロ進む計算で、約105キロおきに設置されていたという事ですが、悪天候と、体力消耗で、進行は遅れ、空腹を抱えての行進となります。また、デポ内の燃料を入れてあった缶も漏れているものがあり、身体を温めるため、思うとおりに火を起こすこともままならない。
次に、オーツが、足をひどい凍傷でやられ、歩くのすら困難になってきます。「自分が重荷になっている」と感じたオーツは、ある夜、テントから一人、マイナス47度の戸外へ出て行き、他の3人が生き延びる可能性が増えるように、そのままテントには戻らずに自己犠牲を取るのですが、これは、オーツの誕生日である3月17日だったそうです。キャプテン・スコットの日記による、テントから出て行くオーツが、最後にもらしたとされる言葉は有名で、この頃のイギリス人男性の特徴と言われる、スティフ・アッパー・リップ(直訳は膠着した上くちびる、感情をむき出しにせず、冷静に物事に対処する態度)の代表選手のような感じです。
"I am just going outside and may be some time."
ちょっと外へ出てくる。しばらく戻らないかもしれない。
スコットは、オーツの最期を「勇敢なイギリス紳士の行動」であったと書き綴っています。
残りの3人は、オーツ亡き後、なんとか先へ進もうとするものの、食べ物と燃料が待つ次のデポまで、わずか18キロという地点で、ひどい嵐のために立ち往生となり、天気の向上を待つ間、テント内で死亡。冬の間は、捜索隊は稼動することができず、3人の死体がテント内の寝袋に包まった姿で発見されるのは、出発してから約1年後の1912年11月12日となります。死体発見のニュースが、イギリスに届くのは翌年2月になってから。死が来るとわかったスコット隊長の、最後の手記の中には、下のものがあります。
We took risks, we knew we took them; things have come out against us, and therefore we have no cause for complaint, but bow to the will of Providence, determined still to do our best to the last ... Had we lived, I should have had a tale to tell of the hardihood, endurance, and courage of my companions which would have stirred the heart of every Englishman. These rough notes and our dead bodies must tell the tale, but surely, surely, a great rich country like ours will see that those who are dependent on us are properly provided for.
(ざっと訳すと・・・)我々は、リスクを取った。それは十分承知していたので、この探検が上手くいかなかったからと、不服を言う理由は無い。しかし、神の御心に誓い、最後まで全力をつくす努力をした。もし、生還する事ができたのであれば、故国の人々すべての心を高揚させるような、私の仲間達の、苦行と忍耐、そして勇気の話を語る事ができるのだが。いまや、こうして残した手記と、我々の死体が、物語を伝える事となるだろう。しかし、間違いなく、間違いなく、我が母国の様な豊かな国は、後に残す事となる我々の扶養者達の面倒を見てくれる事だろうと信じている。
探検や発見の2番乗りは、歴史の記憶から消されてしまうのが常ですが、回収された、この日記や手記から、スコットの悲劇の南極探検の話はイギリスのみならず、世界でも有名となり、私が、初めて、スコットとアムンゼンの話を聞いたのは、日本の学校の国語か英語の教科書の読み物からだったと記憶します。
なぜ、アムンセンが、南極点一番乗りに成功し無事基地に戻った一方、スコットが途中で息絶える事となったかは、スコット隊が、悪天候にぶちあったった不運の他にも、色々な要素があります。まず最初に、ノルウェー探検隊は、スコットの基地から約320キロ離れたクジラ湾から出発。ここから南極点への距離は、スコットの基地からよりも、100キロは近かった事。また、ノルウェー隊は、あくまで目的が南極一番のりであり、それに焦点があたっていたのに比べ、イギリス側は科学観測などの目的もあった事。そして、ノルウェー探検隊は、もともとスキーに長けていた上、スコットの使用したような機械や、馬などには一切見向きもせず、雪に慣れたハスキー犬に信頼をかけ、また、その扱いも上手く、最終地点まで、犬を使用し、スピードも速く、体力の消耗も少なかったのです。実際に、積荷が軽くなるに従い、必要でなくなった犬は、殺して食用にもしたようですし。たしかに、犬は食べる事ができても、機械は食べられない・・・。
映画化もされており、ジョン・ミルズがキャプテン・スコット役、1949年の「Scott of the Antarctic」(南極のスコット)は、なかなかいけます。この探検にあたっては、政府からの資金があまり出なかったため、探検の始まる前の資金集めの描写、スコットが動物学者のエドワード・ウィルソンを探検に誘う描写なども物語の中に組み込まれており、実際の南極点までの探検も、比較的詳しく描かれています。映画の中でも、アムンセン(映画には一切姿を現しませんが)が、いかに機械の使用を嫌がり、犬に信頼をおいているか、という話にも触れていました。探検が進むにつれ、人員を少しずつ削っていく中、最後の5人に絞るとき、選ばれなかった人たちが、がっくりくる場面などがあるのですが、後で、5人とも死んでしまうとわかって見ていると、「あ、この人たち、ラッキー!」なんて思うのですが、まだ、南極に一番乗りできる可能性があると皆信じている段階で、「ここまで付いて来て、最後まで行けないなんて・・・」と失望を感じるのが冒険家なのかもしれません。ついでながら、ジョン・ミルズは、「汚れなき瞳」の主人公を演じたへイリー・ミルズのお父さんです。
スコット隊長が死亡したときに2歳であった、彼と、彫刻家の妻の間の一人息子、ピーター・スコットは、戦前のベルリンオリンピックのセーリングで銅メダル獲得、戦争中は海軍で従事。スコット隊長が、妻に残した手紙の遺言のひとつが、「(ピーターが)自然史に興味を持つように育ててやって欲しい」。その希望かない、ピーター・スコットは、後に、著名な自然保護活動家となり、世界自然保護基金(WWF)の創始者のひとりでもあります。当基金の、お馴染みのパンダちゃんのロゴは、彼のデザインによるもの。他にも、テレビの自然番組のプレゼンターも行うなど大活躍。ナイト(サー)の称号も授与されます。
さて、今年の冬は、例年に比べ、今のところ、南極など想像できないほど温暖です。このまま、春に漕ぎつけてくれますよう。
イギリスの旗を揚げ、写真を撮り、アムンゼンの残した「無事な帰途を祈ります」のメッセージを読み・・・。5人は、南極点で休息を取り、観測を行いながら、2日間過ごした後、再び、重い足を引きずり、長い帰途に着きます。そして、そのまま、途中で息絶え、帰らぬ人となる5人の苦行は、キャプテン・スコットの残した日記や、他のメンバーの手記などで、後に明らかとなるのです。
北極は、英語でArctic。語源は古いギリシャ語で、「北方の」の意味。南極は英語でAntarcticで、ギリシャ語の語源の意味は、「Arcticの反対」。確かに!地球の自転軸が通る北極点、南極点の英語は、それぞれ、North Poleと South Poleです。
北極点は、1909年にすでに到達されており、それよりも到達が難しいとされた南極点は、アイルランドの探検家アーネスト・シャクルトンが、やはり1909年に、到達を志すものの、南極点まで180キロの所で、引き返す事を余儀なくされています。誰が、南極点に最初にたどり着けるか・・・この時期の冒険家にとっては、「よし、俺が」となるのでしょう。スコットは、1901年から1904年にかけて行われた、ディスカバリー号での南極探索に、シャクルトンと共に参加した経験を持っていました。
キャプテン・スコットの一隊が、スコットランドの古い捕鯨船「テラ・ノヴァ」で南極大陸に到着したのは、南極点到達の約1年前の1910年の12月(南極では夏)。テラ・ノヴァで南極大陸へ運ばれたのは、人員65名、犬34匹、シベリアの子馬(ポニー)19頭、ソリを引くための機械3台。ニュージーランドから南極大陸の基地にたどり着くまでの過程では、ひどい嵐に見舞われ、この段階で、船が遭難しなかっただけでもみっけもののようです。
日の落ちない夏の間に、ロス海の沿岸に基地を確立し、積荷を降ろし、冬越しのできる小屋を建て、南極点到達のための計画準備を進める他に、周辺の動物、地質、天候などの自然観測を、この期間に行ったわけです。積荷を降ろす段階で、ソリ引きの機械が一台、氷の間に落ちて無くすと言うハプニングも。
基地から南極点への出発は、1911年の11月始め。計画は、基地から南極までの間に、いくつかのデポを儲け、其々のデポに、帰り道のための食料と燃料を残していくこと。出発時は、当然、荷物も多く重いため、人員も多く、途中のデポで積荷を落としていくたびに、少しずつ、何人か引き返し、最終的に、南極点まで行くのは5人のみとなるのです。また、犬とポニーの体力を保つために、最初のうちは、2台の機械でソリを引いていくのですが、これが、寒さのため、すぐに壊れてしまうのです。また、12月のはじめには、大変な吹雪に会い、弱ったポニーは、すべて銃殺。(まあ、ポニーは、最初の計画段階から、おそらく最後まではもたないとはわかっていたようです。現在から顧みると、「えー、南極に、うま~?」などと思うのですが、当時はまだ、試行錯誤であったのでしょう。)そして、氷河を越えた後に、今度は犬のチームが帰還し、残りの旅路は、大変な苦労をしながら、マンパワーのみでソリを引いて進む事となります。上記の通り、目的地で待っていたのは、ノルウェーの旗。そして、周辺には、スキーの跡、ソリの跡の他に、ノルウェー探検隊が引き連れた無数の犬の足跡。
がっくりしながらの帰途。まず、転倒し頭を打撲して負傷したエヴァンスが死亡。食料と燃料のデポは、一日約16~19キロ進む計算で、約105キロおきに設置されていたという事ですが、悪天候と、体力消耗で、進行は遅れ、空腹を抱えての行進となります。また、デポ内の燃料を入れてあった缶も漏れているものがあり、身体を温めるため、思うとおりに火を起こすこともままならない。
次に、オーツが、足をひどい凍傷でやられ、歩くのすら困難になってきます。「自分が重荷になっている」と感じたオーツは、ある夜、テントから一人、マイナス47度の戸外へ出て行き、他の3人が生き延びる可能性が増えるように、そのままテントには戻らずに自己犠牲を取るのですが、これは、オーツの誕生日である3月17日だったそうです。キャプテン・スコットの日記による、テントから出て行くオーツが、最後にもらしたとされる言葉は有名で、この頃のイギリス人男性の特徴と言われる、スティフ・アッパー・リップ(直訳は膠着した上くちびる、感情をむき出しにせず、冷静に物事に対処する態度)の代表選手のような感じです。
"I am just going outside and may be some time."
ちょっと外へ出てくる。しばらく戻らないかもしれない。
スコットは、オーツの最期を「勇敢なイギリス紳士の行動」であったと書き綴っています。
残りの3人は、オーツ亡き後、なんとか先へ進もうとするものの、食べ物と燃料が待つ次のデポまで、わずか18キロという地点で、ひどい嵐のために立ち往生となり、天気の向上を待つ間、テント内で死亡。冬の間は、捜索隊は稼動することができず、3人の死体がテント内の寝袋に包まった姿で発見されるのは、出発してから約1年後の1912年11月12日となります。死体発見のニュースが、イギリスに届くのは翌年2月になってから。死が来るとわかったスコット隊長の、最後の手記の中には、下のものがあります。
We took risks, we knew we took them; things have come out against us, and therefore we have no cause for complaint, but bow to the will of Providence, determined still to do our best to the last ... Had we lived, I should have had a tale to tell of the hardihood, endurance, and courage of my companions which would have stirred the heart of every Englishman. These rough notes and our dead bodies must tell the tale, but surely, surely, a great rich country like ours will see that those who are dependent on us are properly provided for.
(ざっと訳すと・・・)我々は、リスクを取った。それは十分承知していたので、この探検が上手くいかなかったからと、不服を言う理由は無い。しかし、神の御心に誓い、最後まで全力をつくす努力をした。もし、生還する事ができたのであれば、故国の人々すべての心を高揚させるような、私の仲間達の、苦行と忍耐、そして勇気の話を語る事ができるのだが。いまや、こうして残した手記と、我々の死体が、物語を伝える事となるだろう。しかし、間違いなく、間違いなく、我が母国の様な豊かな国は、後に残す事となる我々の扶養者達の面倒を見てくれる事だろうと信じている。
探検や発見の2番乗りは、歴史の記憶から消されてしまうのが常ですが、回収された、この日記や手記から、スコットの悲劇の南極探検の話はイギリスのみならず、世界でも有名となり、私が、初めて、スコットとアムンゼンの話を聞いたのは、日本の学校の国語か英語の教科書の読み物からだったと記憶します。
なぜ、アムンセンが、南極点一番乗りに成功し無事基地に戻った一方、スコットが途中で息絶える事となったかは、スコット隊が、悪天候にぶちあったった不運の他にも、色々な要素があります。まず最初に、ノルウェー探検隊は、スコットの基地から約320キロ離れたクジラ湾から出発。ここから南極点への距離は、スコットの基地からよりも、100キロは近かった事。また、ノルウェー隊は、あくまで目的が南極一番のりであり、それに焦点があたっていたのに比べ、イギリス側は科学観測などの目的もあった事。そして、ノルウェー探検隊は、もともとスキーに長けていた上、スコットの使用したような機械や、馬などには一切見向きもせず、雪に慣れたハスキー犬に信頼をかけ、また、その扱いも上手く、最終地点まで、犬を使用し、スピードも速く、体力の消耗も少なかったのです。実際に、積荷が軽くなるに従い、必要でなくなった犬は、殺して食用にもしたようですし。たしかに、犬は食べる事ができても、機械は食べられない・・・。
映画化もされており、ジョン・ミルズがキャプテン・スコット役、1949年の「Scott of the Antarctic」(南極のスコット)は、なかなかいけます。この探検にあたっては、政府からの資金があまり出なかったため、探検の始まる前の資金集めの描写、スコットが動物学者のエドワード・ウィルソンを探検に誘う描写なども物語の中に組み込まれており、実際の南極点までの探検も、比較的詳しく描かれています。映画の中でも、アムンセン(映画には一切姿を現しませんが)が、いかに機械の使用を嫌がり、犬に信頼をおいているか、という話にも触れていました。探検が進むにつれ、人員を少しずつ削っていく中、最後の5人に絞るとき、選ばれなかった人たちが、がっくりくる場面などがあるのですが、後で、5人とも死んでしまうとわかって見ていると、「あ、この人たち、ラッキー!」なんて思うのですが、まだ、南極に一番乗りできる可能性があると皆信じている段階で、「ここまで付いて来て、最後まで行けないなんて・・・」と失望を感じるのが冒険家なのかもしれません。ついでながら、ジョン・ミルズは、「汚れなき瞳」の主人公を演じたへイリー・ミルズのお父さんです。
スコット隊長が死亡したときに2歳であった、彼と、彫刻家の妻の間の一人息子、ピーター・スコットは、戦前のベルリンオリンピックのセーリングで銅メダル獲得、戦争中は海軍で従事。スコット隊長が、妻に残した手紙の遺言のひとつが、「(ピーターが)自然史に興味を持つように育ててやって欲しい」。その希望かない、ピーター・スコットは、後に、著名な自然保護活動家となり、世界自然保護基金(WWF)の創始者のひとりでもあります。当基金の、お馴染みのパンダちゃんのロゴは、彼のデザインによるもの。他にも、テレビの自然番組のプレゼンターも行うなど大活躍。ナイト(サー)の称号も授与されます。
さて、今年の冬は、例年に比べ、今のところ、南極など想像できないほど温暖です。このまま、春に漕ぎつけてくれますよう。
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