歌え「星条旗」
先月、米オバマ大統領の第2期の赴任式がワシントンで行われた際、歌手のビヨンセがアメリカ合衆国国歌、「The Star-Spangled Banner 星条旗」を歌っていましたが、それが、実は口パクだった・・・と話題になっていました。昨日は、ニューオーリンズにて、米の一大イベント、アメリカンフットボールのスーパーボウルが行われ、ビヨンセは再び、ハーフタイムで、ひのき舞台に登場。こちらは、ライブで、ちゃんと声出して歌ったようです。
さて、このアメリカの国歌ですが、国旗を題材にした歌というのは、題名からわかるけれども、具体的に何を言っているのか、歌詞をみて、ざっと訳してみましょう。
O say can you see by the dawn's early light,
What so proudly we hailed at the twilight's last gleaming,
Whose broad stripes and bright stars through the perilous fight,
O'er the ramparts we watched, were so gallantly streaming?
And the rockets' red glare, the bombs bursting in air,
Gave proof through the night that our flag was still there;
O say does that star-spangled banner yet wave,
O'er the land of the free and the home of the brave?
ああ、見えるだろう、夜明けの光に照らされ
黄昏の残照の中で高々と掲げた旗が
激しい戦いを越して、そのくっきりとした縞が、その輝ける星が
砦の上に翻るのを
銃弾が赤くいなびかり、爆撃が空気を貫いた
闘争の夜を過ごし、今も旗はそこにある
星をちりばめた旗は、まだひるがえっているか?
自由の国、勇者達の故郷の上に?
こうして、改めて詩を読んでみると、戦闘を背景にした歌詞だというのはわかりますが、アメリカが戦った相手はどの国?そして、時は?・・・これに答えると、敵はイギリス、時は1814年。独立後初めて、アメリカが、他国に対して宣戦布告を行った戦争、米英戦争(1812年~1814年)後半に、ボルティモア(Baltimore)のマクヘンリーの砦(Fort McHenry)が、イギリス海軍から爆撃を受けた翌朝の様子を書いた詩です。
最近、この米英戦争の事をラジオで聞いたので、ついでにちょっとまとめてみましょう。米英戦争は、イギリスとフランス間の戦争の副産物として起こった闘争。
戦争に至るまでのいきさつは・・・ナポレオン戦争真っ只中のイギリスは、中立のアメリカに、にっくきフランスへ物資の輸出をしないように圧力をかける。フランスはフランスでまた、イギリスに物を送るな、とアメリカへ注文。イギリスは、更に、米の輸出品のコントロールのため英国船が出入りするアメリカの港に、他国船の出入りを許さないという処置まで取り始めるのです。また、当時、イギリスの水兵が、海軍から逃げ出し、アメリカで市民権を取り、アメリカの商船で働くことなどが、多々あったようで、イギリス船は、アメリカ船をとめては、船内を探し、元イギリス国民で船乗りだったものを見つけると、強制的に連れ戻すことも、問題にもなっていたようです。とにかく、地球のあちこちで、フランスとのいさかいが続く中、イギリスにとって、船乗り補給はお国の一大事。
そんなこんなで、ジェファーソン大統領は、1807年に、イギリスへの輸出禁止の方策をとるのですが、イギリスからの物資は米に流入し続け、アメリカは経済的打撃を受けるだけに終わり、事の解決には繋がらず、1812年に、ジェームズ・マディソスン大統領により、イギリスへの宣戦布告となるのです。
アメリカはこの戦争中、カナダの一部を、米の領土に加えようというもくろみもあってか、カナダへ何度か侵攻し、カナダのヨークでは、民家や公共の建物を焼き払い、カナダ住民の反感を買い、カナダでのアンチ・アメリカ意識を欠きたてる結果に繋がったようです。イギリス軍はイギリス軍で、ワシントンに侵攻した際、ヨークでの復讐とばかりに、当時の大統領官邸、他、公共建築物に火をつける。この際、アメリカにとっては大切なワシントンの絵と、独立宣言等の重要書類類は、建物から避難させ、難を免れたということ。戦争後、大統領官邸は、焼け焦げながらも残った一部の壁をそのまま使用して建て直されるのですが、焼け焦げ跡を隠すため、上から白く塗った事から、ホワイトハウス・・・という名称で呼ばれるようになった次第。
国歌の詩の背景となったマクヘンリー砦の攻防戦は、24時間ほど続いたのだそうですが、イギリス海軍が、マクヘンリー沖から、爆撃を続ける中、砦に掲げられた星条旗が、次の朝も、無事翻っていたという様子を歌ったもの。上に載せた絵がその様子を描いたもの。星条旗が、朝になったら無くなっているのではないか、朝になったら、ボルティモアは英軍の手に落ちているのではないか、とひやひやしながら暁を迎えたボルティモア市民が、旗を見て、「ああ、良かった、アメリカはまだ、われ等のものじゃ。」と喜んだわけです。イギリス軍は、埒明かぬ、とあきらめてひきあげる。詩を書いたのは、当時35歳の、ボルティモアの弁護士でアマチュア詩人であった、フランシス・スコット・キー。詩の元の題名は「Defence of Fort McHenry マクヘンリー砦の防衛」。この詩に、後に、メロディーがついて、アメリカ国歌とあいなります。ちなみに、メロディーは当時、イギリスの酒場などで歌われて人気だった、イギリスの曲。
うちのだんなは、よく、イギリスの国歌が気に食わないと口走っています。「女王をたたえた歌詞も時代遅れなら、出だしを聞いただけで眠気が襲うメロディーもいただけない。良いところと言えば、短いことくらいだ。もっとアメリカや他のヨーロッパのみたいに、景気のいいメロディーの国歌に変えられないものか・・・!」そのアメリカの国歌のメロディーも、もとはイギリスのものだったというのも、皮肉です。そのメロディー、返せ~!
米英戦争は、ナポレオンの失脚と共に、本来の戦争の理由も消え去り、とりたてた具体的取り決めもなく、1814年末に終戦となります。ただ、インターネットもちろん、電話も電報もない時代、ヨーロッパで行われた終戦協定のニュースがアメリカに届くのに、時間がかかり、終戦を知らぬまま、戦い続けた部隊もあったそうで、1815年1月には、ニューオーリンズで最後の闘争が起こり、これはアメリカの勝利に終わったとのこと。イギリスにとっては、対フランス、ナポレオン戦争の小さなエピソードでしかなかったこの戦争は、トラファルガーの戦い、ワーテルローの戦いなどに押されて、イギリス人の記憶の中から消えていく事となります。
この戦争の結果、ひどい目にあい、貧乏くじをひいてしまったのが、イギリスの援助を受けてアメリカに反旗を翻した原住のインディアン達。反抗は抑圧され失敗。更には、戦後、どんどんと、原住の地を追われていくのに加速度がつきます。あるグループの自由と権利は、他のグループの自由と権利を踏みにじらないと達成できないものでしょうか。インディアン達が、もっとパワフルだったら、今、アメリカを自由の地、勇者の故郷と歌っているのは彼らだったかもしれないわけですから。
さて、途中停電に悩まされながらも、スーパーボウルは、星条旗の歌詞の誕生地ボルチモアのチームの勝利に終わり、しかも、開催地は、米英戦最後の戦いの地、ニューオーリンズでした。
さて、このアメリカの国歌ですが、国旗を題材にした歌というのは、題名からわかるけれども、具体的に何を言っているのか、歌詞をみて、ざっと訳してみましょう。
O say can you see by the dawn's early light,
What so proudly we hailed at the twilight's last gleaming,
Whose broad stripes and bright stars through the perilous fight,
O'er the ramparts we watched, were so gallantly streaming?
And the rockets' red glare, the bombs bursting in air,
Gave proof through the night that our flag was still there;
O say does that star-spangled banner yet wave,
O'er the land of the free and the home of the brave?
ああ、見えるだろう、夜明けの光に照らされ
黄昏の残照の中で高々と掲げた旗が
激しい戦いを越して、そのくっきりとした縞が、その輝ける星が
砦の上に翻るのを
銃弾が赤くいなびかり、爆撃が空気を貫いた
闘争の夜を過ごし、今も旗はそこにある
星をちりばめた旗は、まだひるがえっているか?
自由の国、勇者達の故郷の上に?
こうして、改めて詩を読んでみると、戦闘を背景にした歌詞だというのはわかりますが、アメリカが戦った相手はどの国?そして、時は?・・・これに答えると、敵はイギリス、時は1814年。独立後初めて、アメリカが、他国に対して宣戦布告を行った戦争、米英戦争(1812年~1814年)後半に、ボルティモア(Baltimore)のマクヘンリーの砦(Fort McHenry)が、イギリス海軍から爆撃を受けた翌朝の様子を書いた詩です。
最近、この米英戦争の事をラジオで聞いたので、ついでにちょっとまとめてみましょう。米英戦争は、イギリスとフランス間の戦争の副産物として起こった闘争。
戦争に至るまでのいきさつは・・・ナポレオン戦争真っ只中のイギリスは、中立のアメリカに、にっくきフランスへ物資の輸出をしないように圧力をかける。フランスはフランスでまた、イギリスに物を送るな、とアメリカへ注文。イギリスは、更に、米の輸出品のコントロールのため英国船が出入りするアメリカの港に、他国船の出入りを許さないという処置まで取り始めるのです。また、当時、イギリスの水兵が、海軍から逃げ出し、アメリカで市民権を取り、アメリカの商船で働くことなどが、多々あったようで、イギリス船は、アメリカ船をとめては、船内を探し、元イギリス国民で船乗りだったものを見つけると、強制的に連れ戻すことも、問題にもなっていたようです。とにかく、地球のあちこちで、フランスとのいさかいが続く中、イギリスにとって、船乗り補給はお国の一大事。
そんなこんなで、ジェファーソン大統領は、1807年に、イギリスへの輸出禁止の方策をとるのですが、イギリスからの物資は米に流入し続け、アメリカは経済的打撃を受けるだけに終わり、事の解決には繋がらず、1812年に、ジェームズ・マディソスン大統領により、イギリスへの宣戦布告となるのです。
アメリカはこの戦争中、カナダの一部を、米の領土に加えようというもくろみもあってか、カナダへ何度か侵攻し、カナダのヨークでは、民家や公共の建物を焼き払い、カナダ住民の反感を買い、カナダでのアンチ・アメリカ意識を欠きたてる結果に繋がったようです。イギリス軍はイギリス軍で、ワシントンに侵攻した際、ヨークでの復讐とばかりに、当時の大統領官邸、他、公共建築物に火をつける。この際、アメリカにとっては大切なワシントンの絵と、独立宣言等の重要書類類は、建物から避難させ、難を免れたということ。戦争後、大統領官邸は、焼け焦げながらも残った一部の壁をそのまま使用して建て直されるのですが、焼け焦げ跡を隠すため、上から白く塗った事から、ホワイトハウス・・・という名称で呼ばれるようになった次第。
国歌の詩の背景となったマクヘンリー砦の攻防戦は、24時間ほど続いたのだそうですが、イギリス海軍が、マクヘンリー沖から、爆撃を続ける中、砦に掲げられた星条旗が、次の朝も、無事翻っていたという様子を歌ったもの。上に載せた絵がその様子を描いたもの。星条旗が、朝になったら無くなっているのではないか、朝になったら、ボルティモアは英軍の手に落ちているのではないか、とひやひやしながら暁を迎えたボルティモア市民が、旗を見て、「ああ、良かった、アメリカはまだ、われ等のものじゃ。」と喜んだわけです。イギリス軍は、埒明かぬ、とあきらめてひきあげる。詩を書いたのは、当時35歳の、ボルティモアの弁護士でアマチュア詩人であった、フランシス・スコット・キー。詩の元の題名は「Defence of Fort McHenry マクヘンリー砦の防衛」。この詩に、後に、メロディーがついて、アメリカ国歌とあいなります。ちなみに、メロディーは当時、イギリスの酒場などで歌われて人気だった、イギリスの曲。
うちのだんなは、よく、イギリスの国歌が気に食わないと口走っています。「女王をたたえた歌詞も時代遅れなら、出だしを聞いただけで眠気が襲うメロディーもいただけない。良いところと言えば、短いことくらいだ。もっとアメリカや他のヨーロッパのみたいに、景気のいいメロディーの国歌に変えられないものか・・・!」そのアメリカの国歌のメロディーも、もとはイギリスのものだったというのも、皮肉です。そのメロディー、返せ~!
米英戦争は、ナポレオンの失脚と共に、本来の戦争の理由も消え去り、とりたてた具体的取り決めもなく、1814年末に終戦となります。ただ、インターネットもちろん、電話も電報もない時代、ヨーロッパで行われた終戦協定のニュースがアメリカに届くのに、時間がかかり、終戦を知らぬまま、戦い続けた部隊もあったそうで、1815年1月には、ニューオーリンズで最後の闘争が起こり、これはアメリカの勝利に終わったとのこと。イギリスにとっては、対フランス、ナポレオン戦争の小さなエピソードでしかなかったこの戦争は、トラファルガーの戦い、ワーテルローの戦いなどに押されて、イギリス人の記憶の中から消えていく事となります。
この戦争の結果、ひどい目にあい、貧乏くじをひいてしまったのが、イギリスの援助を受けてアメリカに反旗を翻した原住のインディアン達。反抗は抑圧され失敗。更には、戦後、どんどんと、原住の地を追われていくのに加速度がつきます。あるグループの自由と権利は、他のグループの自由と権利を踏みにじらないと達成できないものでしょうか。インディアン達が、もっとパワフルだったら、今、アメリカを自由の地、勇者の故郷と歌っているのは彼らだったかもしれないわけですから。
さて、途中停電に悩まされながらも、スーパーボウルは、星条旗の歌詞の誕生地ボルチモアのチームの勝利に終わり、しかも、開催地は、米英戦最後の戦いの地、ニューオーリンズでした。
こんばんは
返信削除よくわかりました。外国の国歌は聴く機会はあってもその歴史は知りません。
ありがとうございました。
書くと頭に入るので、私も勉強になりました。
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