投稿

薔薇が咲いた

イメージ
イングリッシュ・ローズのハーロー・カー 薔薇は今まで一度も買ったことがなかった植物でした。家の前庭を縁取るように6株植わっている薔薇は、この家の前の住民が、おそらく、1980年ころに植えたものではないかと思われます。咲き終わった花をまめに摘んでさえいれば、その年の気温にもよりますが、6月くらいから12月くらいまでの間、繰り返し咲いてくれ、冬季か初春に、枝を短く刈り込む以外は、ほとんどほったからし状態。それでも、毎年、花が咲かないことはありません。見慣れているせいか、ほとんど、室内の家具の一部のように、気にもとめていなかったのですが、今年、再びバラが開き始めたころ、お隣さんが、「あなたの前庭の薔薇、きれいね~!」と言ってくれ、なんとなく、「うーん、そーかーなー。」などと見直したのです。思うに、30~40歳の高齢の薔薇でありながら、こんなに頑張ってくれているのも頼もしいですし。 ビーリー・アビー・ガーデンズのバラ園 そして、先月に訪れた ビーリー・アビー・ガーデンズ (Beeleigh Abbey Gardens)で、イギリスの薔薇育種家のデビッド・オースチンのイングリッシュ・ローズのみを植えたバラ園のただ中を歩きながら、その中でも、とても良い香りを放っていたピンク色の、ハーロウ・カーとガートルード・ジェキルという薔薇に一目ぼれ・・・というか、一嗅ぎぼれ。欲しくなったのです。ビーリー・アビー・ガーデンズの投稿でも書いた通り、ハーロウ・カーは、この訪問の帰りに園芸店のセールで、半額で購入。その後、インターネットで、デビッド・オースチンから直接、ガートルード・ジェキルと、さらに、やはり香りが良いと言う、深紅のムンステッド・ウッドの2つを注文。届いた時点で、両方とも、2,3すでに咲いている花があり、すぐにでも咲きそうなつぼみも沢山ついていました。さすが、デビット・オースチンの直売、残りのシーズンも少し楽しめるようないい株を選んで送ってくれたのでしょう。すでに咲いていた、ティーカップのような花を両手で挟んで、お茶を飲むように、顔をつっこんでみました。ああーいい香り。園芸店で買ったハーロー・カーは、咲いている花はなく、つぼみもまだ小さめのものがついた株でした。基本的には、健康な株でしたし、安く買ったので、文句は言いませんが。庭の花壇全体の整理整頓中なので、とり...

コルチェスターのローマン・サーカス

イメージ
ローマン・サーカスでのチャリオット・レースを描いたモザイク Circus(サーカス)とは、もともと、ラテン語の円を意味する言葉。そして、そこから、ローマ帝国時代、映画「ベン・ハー」でおなじみの、チャリオット・レース(Chariot Race、戦車競走)などが行われた、細長い楕円形の野外競技場が、サーカスと呼ばれるようになります。チャリオット・レース開催の際は、レースとレースの間に、動物の見世物や、アクロバットなどの余興が行われたようで、これが現在の「サーカス」という言葉の元になったのではないかという事です こうしたローマ時代の競技場のローマン・サーカス(Roman Circus)は、実際には、円というよりは、長方形と言った方が近い形です。細長い長方形の、片側はほぼ直線、片側は半円形。レースは、直線側からのスタートとなります。 競技場中心には、一直線のスピーナ(spina)と呼ばれる部分があり、馬にひかれたチャリオットは、このスピーナの周りをぐるぐる、時計と逆方向に回ってレースを行う事となります。(上のモザイクの絵を参照ください。)スピーナには、神々の彫刻やら、オべリスク、噴水、その他もろもろの装飾的建築物の他に、チャリオットが、何度スピーナを回ったかを数えるカウンターも設置されていました。回る回数は、7回とされていますが、これも、競技場のサイズによって、違いがあったかもしれません。「ベン・ハー」では、このカウンターは、そろばんの様な軸に並ぶ7つのドルフィンで、1周するごとに、ドルフィンがひとつひとつ頭を下げていく仕組みになっていました。 一番、事故が起こりやすく危険、その一方、観客にとってスリリングだったのが、いくつかのチャリオットが先を競って、このスピーナの両端を回る時であったようです。観客は、現在の競技場やサッカー場とあまり変わらぬような、階段式の座席に座り、支持するチームや、レーサーに歓声を送り。ローマン・サーカスは、チャリオット・レース以外にも、時に、その他の式典に使用されたということ。 チャリオット・レースは、ローマの上流社会のみを対象としたものでなく、一般大衆が見物につめかけた娯楽。「パンとサーカス」(英語:Bread and circuses)という言葉がありますが、一般庶民には、食いものと娯楽を与えていれば、政治や軍事、その他...

ディス

イメージ
前回の投稿 で、サフォーク州アイ(Eye)を訪れた話を書きましたが、その後、回る予定であった近郊の村ホクソン(Hoxne)へ行くバスに乗りそびれたため、そのまま、ロンドンからの電車が通っている駅がある町、ディス(Diss)へバスで戻り、ホクソンの代わりに、ディスの町中をゆっくり観光することにしました。ディスの町の古い部分の中心は、駅から、ちょっと離れていて、歩いて10~15分。アイから乗ったバスの終点が、ディスの町の中心近くなので、駅前ではなく、そこで下車しました。この辺りは、サフォーク州とノーフォーク州の境界線にありますが、ディスはノーフォーク州に入ります。 まず目に入るのは湖(ミア、Mere)。湖は、英語でレイク(Lake)というんじゃないのかい、と思う人もいるかもしれませんが、 湖水地方 でも、ウィンダ ミア のように、ミアと呼ばれるものもあれば、ダーウェント・ウォーター(Water)などのように、ウォーターと呼ばれるもの、更にはターン(Tarn)と称されるものもあります。ミアとレイクなるものの違いはなんじゃ?と聞かれても定かではないようで、習慣で、ミアと呼ばれるものもあるという事にしておきます。ディスの湖もミアと呼ばれ、また フラムリンガム城 の近くにあった湖もミアと称されていました。もっとも、大きなウィンダミアなどに比べると、ディスのミアも、フラムリンガムのミアも、日本語では、規模的には、大型の「池」と呼んだ方が的確か、という気もします。 19世紀、このミアは、周りに存在した帽子、染色業者により、水銀の汚染がひどかったようで、にもかかわらず、この時代に、ミア内にはウナギが放たれていたのだそうです。この汚染に耐えかねたウナギたちは、水から陸地へ跳ね上がり、こんな汚い水内にいるよりは、と大量自殺を図ったのだとかいう話が、まことしやかに伝えられています。 現在は汚染の心配をすることもなく、数人、釣りをしている人たちもいました。ミアの脇には、ピクニックテーブルやベンチが並び、家族連れなども、アイスクリームを食べながら憩い。 ディス出身で、一番有名な人物は、ディスのタウン・サイン(上の写真)にも描かれている、詩人のジョン・スケルトン(John Skelton)。ジョン・スケルトンは、まだ王子であった頃の、ヘンリー8世の家庭教師をしたことで...

アイ

イメージ
アイの城跡からの眺め アイ(Eye)というサフォーク州の小さな町に行ってきました。このアイと言う名は、目玉のアイではなく、島を意味する言葉からきたそうで、初めてここに集落ができた時は、周辺を水で囲まれており、その後もしばらくは湿地で、大水の後などは島状になっていたようです。今は、そんな形跡などは一切ありません。 ここにたどり着くには、まずロンドンのリバプールストリート駅から、ノーフォーク州の州都 ノリッチ へ行く電車に乗り、(Diss)という駅で下車。ロンドンからは、ディスまで約1時間半。ディスからは、タクシーかバスとなります。私たちは、当然、けちってバス。駅の近くのバス停からは10分足らずで到着。 まずは、周辺の地と、素晴らしいという評判のセント・ピーター・アンド・セント・ポール教会の塔を見下ろせる、城跡のある小山の上に登りました。 アイにあった最初の城は、ノルマン人征服のすぐ後に建てられます。ヘンリー2世の時代の1173年、王の長男が父親に対して反旗を翻した際、当時の フラムリンガム城 の城主であった、ノーフォーク伯、ヒュー・ビゴッド(Hugh Bigod)も反乱側に加わり、アイにあった城を攻撃。やがて反乱は収められ、フラムリンガム城は、ヒュー・ビゴッドから取り上げられ、破壊されるのですが、彼の息子の時代に再び、フラムリンガムの土地はビゴッド家に返され、フラムリンガム城は再築。現在も、その立派な外壁が丘の上に堂々と残っている次第。 一方、アイにあった城は、その後、そのまま、すたれていきます。城内の牢獄には、ブラディー・メアリーこと、カソリックのメアリー1世の時代に、プロテスタント信者たちが、何人か、処刑の憂き目にあう前に投獄されていたそうで、牢獄としては、17世紀まで使用され続けたということ。19世紀前半に、ウォータールーの戦い(ワーテルローの戦い)に参戦した、アイの住人、エドワード・ケリソン(Edward Kerrison)将軍は、この小山の上の城跡に、ウォータールーの戦いで、自分にお供をした従僕のために、隠居用の家を建ててあげたという話で、リビングルームやキッチンの壁などが、崩れかけながらも、今も残っています。慈善家であったという彼は他にも、アイに貧民の子供のための学校なども建設。 さて、城跡から降り、教会へ。教会の墓...

ダイアナの死20周年

イメージ
1997年8月31日のダイアナ妃、プリンセス・オブ・ウェールズの死から、もう20年も経ちましたか、早いものです。同年の春には、若かりしトニー・ブレアが、労働党を大勝利に収め首相となったばかりで、国のムードは、希望に満ちて、明るいものがありました。彼女もトニー・ブレアに、自分の公人としての価値を見出してくれる人が登場した、と世界をまたにかけた、チャリティー活動などのキャンペーンに更なる力を入れだした矢先だった気がします。 ダイアナの死に関連するドキュメンタリーなどもいくつかテレビでかかっていました。20年も経つと、さすがに、心の整理も済んでいるのか、かつては、母が死んだときの事は聞かないで欲しいなどと言っていた王子たちも、当時の気持ちを語っていました。15歳の少年だった息子のウィリアム王子は、葬儀の際に、公の目の前で、母親の棺の後をついて歩くのが、義務とは言え、やはり、苦痛であったようで、うつむきながら、そのころはまだあった前髪の下に、顔と表情を隠す気持ちで歩いた、などとインタヴューで言っていました。その彼も、今は、2児のパパで、若禿のため、隠れられる前髪も無くなっているわけです。やはり、インタヴューで、母を死に追いやったパパラッチたちが、車が衝突した後も、ケガをして車内にいる瀕死の母を助けようともせず、写真を撮り続けた・・・というのが、今も一部のメディアに対する不信感につながっているようです。それはそうでしょう。 以前、 ケンジントン宮殿観光の記事 で書いたように、私は当時、彼女が住んでいたケンジントン宮殿近郊のノッティングヒルに住んでいたため、彼女の死後、何度かケンジントン・ガーデンズを歩くごとに、山と積まれた花束の数が増えていき、その香りがむせるようだったのを今でもよく覚えています。私は、ウィリアム王子とは違って、髪の毛はまだ沢山ありますが、当時の自分の生活を思い返すと、状況の変化も大きく、思えば遠くへ来たもんだと感じます・・・。 数年前に、2000年生まれの姪っ子がイギリスに遊びに来た際、 セント・ポール寺院 の前を通った時、「チャールズとダイアナが結婚した場所だよ。」と教えると、「ダイアナって誰?」と言われ、世代のギャップに衝撃を受けたのです。自分が、大変な過去の人になった気がしました。姪には、ちゃんと、ユーチューブであとから、ダイアナの結婚...

ビーリー・アビー・ガーデンズにて

イメージ
エセックス州ブラックウォーター川河口の町 マルドン (Maldon)近郊にある、ビーリー・アビー・ガーデンズ(Beeleigh Abbey Gardens)を訪れました。  アビーという名でわかるよう、ヘンリー8世が、イギリス国教会を打ち立て、 修道院解散 を行った以前は、修道院であったのが、その後、周辺の土地は個人の手に渡り、居住用の館などが建てられ、今は、修道院時代の名残は館に組み入れられた一部を除いては、ほとんど残っていません。現在の館の持ち主は、2009年から敷地の庭園を夏季の間の数日のみ、一般公開しています。 2012年の訪問、藤棚の下で 私は、過去、2012年の 藤の花 が咲く季節に一度訪れたことがあったのですが、今回は、ちょっと違う花が見れるかな、と晩夏の先週再訪しました。現入場料は、大人6ポンド。 入場の時にもらったパンフレットにのっていたざっとしたビーリー・アビーの歴史は、 1180年に、厳格な、Premonstratensian派の修道院として設立。敷地の北側を流れるチェルマー川(River Chelmer)のそばから泉が湧くため、この地が選ばれたようです。水は大切ですから。ビーリーで生まれ、後にロンドン司教となり、マグナ・カルタの署名にも立ち会ったロジャー・ニガー(Roger Niger)という人物は、後に聖人となり、彼の心臓が、当修道院の祭壇に埋葬されたため、1241年から、それを目当てに巡礼者も多く訪れたのだそうです。修道院解散後の、この土地の初めての所有者は、9日間の女王 ジェーン・グレー を支持したことから、1553年に打ち首の刑。修道院解散の破壊の後に、わずかに残った部分は、17世紀に建設された個人の館の一部として組み入れられたそうです。庭園の大本の基本は、この当時からさほど変わっていないということ。 現館の所有者は、2009年に庭園の一般公開を始めてから、少しずつ、色々な要素を加えていっているようで、2012年に私が来たときは、無かったものもいくつか目に入りました。 この噴水も去年設置したものだそうです。 イギリスはガーデニング王国ですので、庭園訪問が好きな人はどっちゃりいます。私たちが到着したのは比較的遅い時間だったのですが、この日も、かなり賑わっていました。 敷地内の...