イギリスの初期アングロサクソン時代とロンデンウィック
去年10月に書いた記事、「イギリスのローマ時代」「ロンディニアム」で、ローマ時代のイギリスの概要とローマ人が築いた町であるロンドンの事を書きましたが、今回は、それに続く、初期のアングロサクソン時代とロンデンウィック(Lundenwic)と呼ばれた当時のロンドンの事をまとめてみます。
400年近くローマ帝国の支配下にあったイギリス(ブリタニア)ですが、410年、西ローマ帝国のホノリウス帝は、「あんたたち自分で何とかして。」と、ブリタニアを数々の異民族による襲撃から守る責任と、ブリタニアの統治を放棄。多くの既存の民は、侵入してくるゲルマン系の民族、アングル、サクソン、ジュート族(総称してアングロサクソン)に土地を追われ、西方のコーンウォール、ウェールズ、北はスコットランド南部、アイルランドへ移動。当然、その場に残って、やがては新しい侵入者たちと、混じって生活する人たちもいたでしょう。確立して間もなかったキリスト教の信仰と習慣は、西へ北へと移住した人物たちにより、ほそぼそと明かりをともし続けることとなります。新しいイギリスの支配者たちアングロサクソンは、この頃は、まだ異教の民。更には、やがては英語の元となる異なる言語と、異なる習慣も持ってくる。市壁に囲まれたロンドン(ロンディニアム)も、徐々に人が去って行き、人口はがた落ち、建物は朽ちるにまかせ、かつては栄えた都市生活は崩壊。
さて、このアングロサクソン族は、洗練された都会派ローマ人達とは全くことなった社会観を持っており、すでに構成されていた都市、ロンディニアムを避け、市壁外の西側、現在のコベントガーデン周辺、ストランド(Strand)、オールドウィッチ(Aldwych)に、新しく自分たちの集落を築くのです。この一帯は、アングロサクソン時代、ロンデンウィック(Lundenwic)と呼ばれる場所となります。ウィックというのは、アングロサクソンの言葉で集落や市場を意味します。また、現在、ロンドン東のシティーと、西のウェストミンスターをつなぐ通りは、ストランドと呼ばれますが、ストランドという言葉は小舟を碇泊させることができるような浜を意味し、ストランド南部のテムズ川沿いには、多くの商品を乗せた小舟が乗り上げ、浜辺で船を屋台として使用した商売、取引が盛んに行われるようになります。そのうちに、マーケットで屋台を立てるのに場所代を請求されるように、ストランドで小舟を碇泊させ商売をする場所代をその地の地主(大体の場合が王)に払う必要が生まれ。
なぜにアングロサクソン族は、すでにできあがっていたローマ時代の石造りの町や建物を避け、まだ開けていない土地で生活を初めたのかは、定かではありません。立派な石造りの建物は、巨人によって建てられたとか、黒魔術を使用している、などの懐疑心があったという説もあり。いずれにせよ、農耕を営み、むき出しになった土の上に木製の家を建てる方が性に合っていたようです。慣れ親しんだ、しっくりいくものが一番というわけで。
こうして6世紀までには、アングロサクソン族はイングランド各地に定着し、ケント、イーストアングリア、エセックス、サセックス、ウェセックス、ノーサンブリア、マーシア(Kent, East Anglia, Essex, Sussex Wessex, Northumbria, Mercia)王国の7つの王国が設立されるに至ります。また、7王国の間で、その時々、最も勢力を持った国の王は、ブレトワルダ(Bretwalda、High King、上王)と呼ばれました。そして、最初は異教の民として入って来たものの、少しずつ、特にアイルランドとローマから、キリスト教が再びイングランドに再導入されることとなります。
以前のカンタベリー大聖堂の記事に記したように、ローマから法王グレゴリウス1世によって、アウグスティヌス率いる布教団が、エセルベルト王(Ethelbert)が統治するケント王国内のカンタベリーに派遣されるのが597年。この際アウグスティヌスと共にやってきたマリタス(Mellitus)なる人物は、601年に、当時は、エセルベルト王の甥のサイバート(Saeberht)が王であったエセックス王国の一部であったロンドンの最初の司教(Bishop of London)となります。そして604年には、最初の木造のセント・ポール寺院が建設。これは、現セント・ポール寺院と同じ場所に建設されたと思われているものの、考古学的証拠は一切発見されていません。こうして、比較的、早い時期にセント・ポール寺院が建てられたものの、エセルベルト王とサイバート王の死後、特に、異教の地との貿易が盛んであったロンドンでは、なかなかキリスト教は根付かなかったようで、キリスト教の総本山が、ロンドンではなく、カンタベリーとなったのは、この最初の確固たる基盤が緩かったことに由来するようです。初期アングロサクソン世界では、それぞれの王国の王の方針と王国間の勢力関係で、キリスト教の布教状態もまちまち。
現サフォーク州サットン・フーで発見された、有名な、イーストアングリア王、レドウォールド(Raedwald)を埋葬した船と内部の遺品は、625年頃のものとされ、イングランドが、まだ異教の香りを残しながら、キリスト教へ移行しつつある過渡期にあたるものです。
7世紀中ごろになると、エセックス王国の司教となったケッド(Cedd)が、周辺のキリスト教の布教に尽力。エセックス州海岸線のブラッドウェル・オン・シーには、当時の姿かたちをとどめたケッドによる教会がまだ海を背景にたたずんでいます。世界最古の木造教会として知られる、聖アンドリュー教会の立つ場所が、キリスト教信仰の地として設立されたのもこの頃。
675年、王族の血筋であったと言われるアーケンヴォルド(Erkenwald)がロンドン司教となると、彼は、現ロンドン東部に位置するバーキング(Barking)の地に、当時大変重要とされた、バーキング修道院を設立。これは男女共受け入れた修道院であったそうで、アーケンヴォルドの妹であったエセルバーガ(Ethelburga)が修道長となります。今や、ほとんど消え失せた、このバーキング修道院は、征服王ウィリアム1世が、ノルマン人征服直後、一時的に住処とした場所でもあります。アーケンヴォルドは、また、火災で焼け落ちたセント・ポール寺院を石で再建しています。シティー内には、バーキング修道院長であったエセルバーガから名を取った、セント・エセルバーガ教会があります。
8世紀にはいると、イングランド中央部に位置したマーシア王国が勢力を伸ばし、ロンドンを含むエセックス王国、サセックス、イーストアングリア、ケント王国は、すべてマーシアの支配下に入り、特に、ブレトワルダとして勢力を誇ったオッファ王(Offa、757-796年)の時代には、現ロンドンのシティー内にあるウッド・ストリート(Wood Street)周辺にオッファ王が滞在の際に使った宮殿があったとされる説もあります。
ウッド・ストリートの真ん中には、クリストファー・レンによる教会(セント・オールバン教会)の塔が残っていますが、当教会建設の際に、8世紀に遡る教会の跡が発掘されたとされます。これが、オッファの宮殿内にあり、彼が祈りを捧げたチャペルではないかというのです。ちなみに、セント・オールバン教会は第2次世界大戦の爆撃で崩壊。今は塔だけが残っています。
オッファの死後、マーシアは徐々に衰退し、やがてはウェセックス王国などの諸王国がマーシアの勢力から再び独立するに至ります。そして、後に、ウェセックス王国が生み出すのが、新しい侵略者たちであるヴァイキングに果敢に立ち向かった、アルフレッド大王。彼が、初期アングロサクソン時代のロンドンの中心地であったロンデンウィックを、再びローマ人が築いた市壁の中へ移動させるのです。・・・と、この話は、またいつか、別の機会に書くことにします。
初期アングロサクソン時代は、いくつもの王国が常に形を変え、勢力範囲を変え、この時代の学者にでもなろうなどと思わない限りは、いちいちその変化をすべて覚え、各国の王様の名前もすべて覚え、などという面倒な事はしていられません。基本的に、6世紀までには、7王国が確立されていた事、キリスト教の布教がそれぞれの国の王の意向に従って、徐々に広がっていった事、ロンドンは一時的に、その中心がシティーの西の市壁外の地に移動しロンデンウィックと呼ばれたことなどを、把握していればよいのではないかと思います。
数ある王様の中では、初めてキリスト教に改宗したケント王国のエセルベルト王、イングランドの大部分を制覇したマーシア王国のオッファ王などの名をなんとなく、記憶にとどめておき、重要な遺跡としては、イーストアングリア王国のサットン・フーの遺跡、更には、特にロンドンのキリスト教関係者では、第一代目ロンドン司教マリタス、ロンドン司教であり、バーキング修道院の設立者アーケンヴォルド、その妹でバーキング修道院長であったエセルバーガ、そしてキリスト教確立に貢献したケッドあたりを知っておけば花丸ものでしょう。
この時代を知るための文献としては
1.The Anglo-Saxon Chronicle(アングロサクソン年代記)
アルフレッド大王の時代(890年代)から編纂され始めたアングロサクソン王国とイングランドの歴史をつづる年代記。著者は複数、無記名のため、各年代、誰の手によるものかは不明。1100年代半ばまで続けられた。
2.Bede's Ecclesiastical History of the English People(イングランド教会史)
イングランド北部ノーサンブリアの修道院で生活した聖職者ビード(Bede、672-735年)筆。イングランドがキリスト教に改宗していく歴史を綴ったもの。
の二つがあります。
*相変わらず、英語のカタカナ表記、特にアングロサクソン時代の名前のカタカナ表記には苦労させれています。エセルベルト王なども、英語読みではエセルバートなので、私自身は、エセルバートとして覚えていますし。また、一般に日本で使用されているカタカナ表記とは異なった記述をしている場合もあるかもしれませんので、悪しからず。
400年近くローマ帝国の支配下にあったイギリス(ブリタニア)ですが、410年、西ローマ帝国のホノリウス帝は、「あんたたち自分で何とかして。」と、ブリタニアを数々の異民族による襲撃から守る責任と、ブリタニアの統治を放棄。多くの既存の民は、侵入してくるゲルマン系の民族、アングル、サクソン、ジュート族(総称してアングロサクソン)に土地を追われ、西方のコーンウォール、ウェールズ、北はスコットランド南部、アイルランドへ移動。当然、その場に残って、やがては新しい侵入者たちと、混じって生活する人たちもいたでしょう。確立して間もなかったキリスト教の信仰と習慣は、西へ北へと移住した人物たちにより、ほそぼそと明かりをともし続けることとなります。新しいイギリスの支配者たちアングロサクソンは、この頃は、まだ異教の民。更には、やがては英語の元となる異なる言語と、異なる習慣も持ってくる。市壁に囲まれたロンドン(ロンディニアム)も、徐々に人が去って行き、人口はがた落ち、建物は朽ちるにまかせ、かつては栄えた都市生活は崩壊。
さて、このアングロサクソン族は、洗練された都会派ローマ人達とは全くことなった社会観を持っており、すでに構成されていた都市、ロンディニアムを避け、市壁外の西側、現在のコベントガーデン周辺、ストランド(Strand)、オールドウィッチ(Aldwych)に、新しく自分たちの集落を築くのです。この一帯は、アングロサクソン時代、ロンデンウィック(Lundenwic)と呼ばれる場所となります。ウィックというのは、アングロサクソンの言葉で集落や市場を意味します。また、現在、ロンドン東のシティーと、西のウェストミンスターをつなぐ通りは、ストランドと呼ばれますが、ストランドという言葉は小舟を碇泊させることができるような浜を意味し、ストランド南部のテムズ川沿いには、多くの商品を乗せた小舟が乗り上げ、浜辺で船を屋台として使用した商売、取引が盛んに行われるようになります。そのうちに、マーケットで屋台を立てるのに場所代を請求されるように、ストランドで小舟を碇泊させ商売をする場所代をその地の地主(大体の場合が王)に払う必要が生まれ。
なぜにアングロサクソン族は、すでにできあがっていたローマ時代の石造りの町や建物を避け、まだ開けていない土地で生活を初めたのかは、定かではありません。立派な石造りの建物は、巨人によって建てられたとか、黒魔術を使用している、などの懐疑心があったという説もあり。いずれにせよ、農耕を営み、むき出しになった土の上に木製の家を建てる方が性に合っていたようです。慣れ親しんだ、しっくりいくものが一番というわけで。
こうして6世紀までには、アングロサクソン族はイングランド各地に定着し、ケント、イーストアングリア、エセックス、サセックス、ウェセックス、ノーサンブリア、マーシア(Kent, East Anglia, Essex, Sussex Wessex, Northumbria, Mercia)王国の7つの王国が設立されるに至ります。また、7王国の間で、その時々、最も勢力を持った国の王は、ブレトワルダ(Bretwalda、High King、上王)と呼ばれました。そして、最初は異教の民として入って来たものの、少しずつ、特にアイルランドとローマから、キリスト教が再びイングランドに再導入されることとなります。
サクソン時代900年ころに遡る石の十字 |
現サフォーク州サットン・フーで発見された、有名な、イーストアングリア王、レドウォールド(Raedwald)を埋葬した船と内部の遺品は、625年頃のものとされ、イングランドが、まだ異教の香りを残しながら、キリスト教へ移行しつつある過渡期にあたるものです。
7世紀中ごろになると、エセックス王国の司教となったケッド(Cedd)が、周辺のキリスト教の布教に尽力。エセックス州海岸線のブラッドウェル・オン・シーには、当時の姿かたちをとどめたケッドによる教会がまだ海を背景にたたずんでいます。世界最古の木造教会として知られる、聖アンドリュー教会の立つ場所が、キリスト教信仰の地として設立されたのもこの頃。
675年、王族の血筋であったと言われるアーケンヴォルド(Erkenwald)がロンドン司教となると、彼は、現ロンドン東部に位置するバーキング(Barking)の地に、当時大変重要とされた、バーキング修道院を設立。これは男女共受け入れた修道院であったそうで、アーケンヴォルドの妹であったエセルバーガ(Ethelburga)が修道長となります。今や、ほとんど消え失せた、このバーキング修道院は、征服王ウィリアム1世が、ノルマン人征服直後、一時的に住処とした場所でもあります。アーケンヴォルドは、また、火災で焼け落ちたセント・ポール寺院を石で再建しています。シティー内には、バーキング修道院長であったエセルバーガから名を取った、セント・エセルバーガ教会があります。
オッファ王の銀貨 |
シティーのウッド・ストリート、ここにオッファの宮殿とチャペルがあった? |
オッファの死後、マーシアは徐々に衰退し、やがてはウェセックス王国などの諸王国がマーシアの勢力から再び独立するに至ります。そして、後に、ウェセックス王国が生み出すのが、新しい侵略者たちであるヴァイキングに果敢に立ち向かった、アルフレッド大王。彼が、初期アングロサクソン時代のロンドンの中心地であったロンデンウィックを、再びローマ人が築いた市壁の中へ移動させるのです。・・・と、この話は、またいつか、別の機会に書くことにします。
初期アングロサクソン時代は、いくつもの王国が常に形を変え、勢力範囲を変え、この時代の学者にでもなろうなどと思わない限りは、いちいちその変化をすべて覚え、各国の王様の名前もすべて覚え、などという面倒な事はしていられません。基本的に、6世紀までには、7王国が確立されていた事、キリスト教の布教がそれぞれの国の王の意向に従って、徐々に広がっていった事、ロンドンは一時的に、その中心がシティーの西の市壁外の地に移動しロンデンウィックと呼ばれたことなどを、把握していればよいのではないかと思います。
数ある王様の中では、初めてキリスト教に改宗したケント王国のエセルベルト王、イングランドの大部分を制覇したマーシア王国のオッファ王などの名をなんとなく、記憶にとどめておき、重要な遺跡としては、イーストアングリア王国のサットン・フーの遺跡、更には、特にロンドンのキリスト教関係者では、第一代目ロンドン司教マリタス、ロンドン司教であり、バーキング修道院の設立者アーケンヴォルド、その妹でバーキング修道院長であったエセルバーガ、そしてキリスト教確立に貢献したケッドあたりを知っておけば花丸ものでしょう。
この時代を知るための文献としては
1.The Anglo-Saxon Chronicle(アングロサクソン年代記)
アルフレッド大王の時代(890年代)から編纂され始めたアングロサクソン王国とイングランドの歴史をつづる年代記。著者は複数、無記名のため、各年代、誰の手によるものかは不明。1100年代半ばまで続けられた。
2.Bede's Ecclesiastical History of the English People(イングランド教会史)
イングランド北部ノーサンブリアの修道院で生活した聖職者ビード(Bede、672-735年)筆。イングランドがキリスト教に改宗していく歴史を綴ったもの。
の二つがあります。
*相変わらず、英語のカタカナ表記、特にアングロサクソン時代の名前のカタカナ表記には苦労させれています。エセルベルト王なども、英語読みではエセルバートなので、私自身は、エセルバートとして覚えていますし。また、一般に日本で使用されているカタカナ表記とは異なった記述をしている場合もあるかもしれませんので、悪しからず。
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