ウィンザー城
ロング・ウォークから望むウィンザー城 |
ウィンザー家と呼ばれる、現在のイギリス王室は、18世紀初頭、世継ぎのいなかったスチュアート家アン女王の亡きあと、プロテスタントの王様を探していたイギリスが、わざわざドイツから連れて来た、ジョージ1世のハノーヴァー家から始まっています。エドワード7世の時代からは、エドワード7世の父、アルバート公の名を取って、サクス・コバーグ家と称されていました。が、第1次世界大戦中、時の王ジョージ5世が、「イギリス王家が、敵国ドイツ風の家名だとまずい、もっとイギリス的響きのある名前に変えよう」と、この城の名を取って、イギリス王家は、ハウス・オブ・ウィンザーと改名し、今日に至っています。ハノーヴァー朝設立より、ずっと以前に遡った、イングランドの王室の歴史を彷彿とさせるこの改名は、ドイツ人の血をひく王様としては、なかなか巧妙な動きでした。
バイユータペストリーに描かれるノルマン人の城作り |
城と言うのは、歴代の王様が徐々に手を入れ改善し、教会や大聖堂などと同じに、時代ごとに変化していくものです。また、国家君主たるもの、あちこちの土地に、いくつも城、館を持っていたわけですから、王様によって、お好みの城も、それにつぎ込む意欲も違い。城内で購入したガイドブックによると、ウィンザー城を形作るのに、特に影響が強かった王様は4人で、まずは創設者のウィリアム1世、そして、エドワード3世、チャールズ2世、ジョージ4世。
セント・ジョージズ・チャペル |
ウィンザー城内は、おおまかに、城の敷地への入口であるヘンリー8世門を入ってすぐの低地、ロワー・ワード(Lower Ward)と、そこから坂を少し上がっていく高地にあるアッパー・ワード( Upper Ward)部からなっています。ロワー・ワード部に、エドワード3世の100年前より、すでにエドワード懺悔王に捧げたチャペルがあったものを、エドワード3世は、このチャペルを、ガーター騎士団の守護神でもあるセント・ジョージに捧げなおして、セント・ジョージズ・チャペル(St George's Chapel)の名で呼ばれるようになります。チャペル内は、ガーター騎士団メンバーの旗や紋章が掲げられているのが見れます。もっとも、現在のセント・ジョージズ・チャペルの建築を着工したのは、15世紀後半のエドワード4世の時代で、終了はヘンリー8世の治世に入った16世紀前半。
18世紀より以前のイギリスの王様女王様の大半は、ウェストミンスター寺院に埋葬されていますが、ウィンザー城セント・ジョージズ・チャペルにも数多くのかつての君主、王族が眠っており、ヘンリー8世と、エドワード6世を生んですぐに死んでしまった3番目の妻、ジェーン・シーモアの埋葬場でもあります。イギリス内戦(清教徒革命)中、ウィンザー城は、議会派側の根拠地、または牢獄としても使用されていたため、捕らえられたチャールズ1世は、処刑される前の最後のクリスマスをウィンザー城で過ごし、首ちょんぱでの処刑後、死体は再び、ここに運ばれ、胴体と頭を継ぎ合わせてから、セント・ジョージズ・チャペルに埋葬。その他にも、エドワード4世、ヘンリー6世、ジョージ3世、ジョージ4世、ウィリアム4世、エドワード7世、ジョージ5世、ジョージ6世と現エリザベス女王の母、クイーン・マザー、エリザベス女王の妹のプリンセス・マーガレットなども、このチャペルが永眠の場。現エリザベス女王も、おそらくここになるのではないでしょうか。
チャペルのあるロワー・ワードからアッパー・ワードを望む |
チャールズ2世亡きあとは、城は約100年間、半分見放され、ぼろっとしていくものの、ジョージ3世の時代、やっと修復が始まり、息子ジョージ4世に至っては、自分の頭に描く、ロマンチックな城の構築のために、大盤振る舞いで、城内あちらこちらを改造。絢爛豪華なインテリアにも余念なく。現在、観光客が見る城の大部分は、ジョージ4世のプロジェクトの賜物だということ。
敷地内中間地点に位置する丸い塔も、ジョージ4世が、もっとドラマチックにするために、以前のものよりさらに背を高くさせ。現在、この塔は、色々な文献の所蔵場となっているそうです。たまたま、この日、同じ宿に泊まって、翌日の朝食の時に会話をした女性は、第一次世界大戦中の歴史書を執筆中だという事で、この塔内で戦時中のウィンザー城の状況に関する文献を調べるために、ウィンザーに滞在しているのだと言っていました。また、ジョージ4世は、装飾品の買い物にもエネルギーを投じ、特に革命後のフランスでは、多くの貴族の所持品がバーゲン価格で販売されており、ジョージ4世も、それを利用して、ここぞとばかりに色々収集したようです。
ジョージ4世は、城改造の成果をゆっくり楽しむ間もなく死んでしまい、この新しくなった城でくつろぎの時を過ごし始めるのは、ジョージの姪にあたるヴィクトリア女王とアルバート公。アルバート公亡き後、喪服でひっそりと過ごしたヴィクトリア女王は、ウィンザーの未亡人という異名も取り。
アッパー・ワードにあるステート・アパートメント(State Apartments)が観光の中心で、きらびやかな装飾の数々の部屋の他に、ジョージ5世(ヴィクトリアの孫)の妃メアリーのために作られた、それは手の込んだ人形の家、Queen Mary's Dolls' Houseも見れます。
1992年11月にあったウィンザー城の大火災で、ステート・アパートメントの一部が焼け落ちていますが、今は見事に修復され。国賓を招いて女王が催する晩餐(State Banquet)は、もっぱらバッキンガム宮殿内で開かれますが、時にウィンザー城内の、火災後修復されたセント・ジョージズ・ホールで行われることもあります。アパートメント内の部屋の一つ一つの描写はきりがないので、ここでは書きません。
入場券を買うと無料でオーディオ・ガイドを貸してくれますが、自分で観光を始める前に、ちょっとした概要を、30分くらいでささっと、敷地内を回って教えてくれる英語のウォーキング・ツアーがあったのでこれに参加。ちょっとしたオリエンテーションと、歴史の概要を頭に入れるのに役に立ちました。参加者は、ガイドさんを除くと、私の他に、中年カップル2人と、3人だけの親密ツアーで、ステート・アパートメントの入り口でおひらきとなり、あとは、一人でオーディオ・ガイドに頼って、観光を進めました。
とにかく、ウィンザーまでの電車の中、さらに駅を降りた瞬間から、中国人の観光客がとても多かったのが、特に目につき、耳につき。日本語が耳に入ったのは、一回だけ。敷地内で、ガイドさんに連れられた日本人団体さん一組に遭遇した時のみ。日本人ガイドさんは、「それでは、ここで、オーディオ・ガイドの9番ボタンを押してくださーい。」なんて言って、こちらもオーディオ・ガイドに頼ってました。ボタン押してください、だけで済む、あのくらいのガイドなら、私もできるな、なんて思って見てましたが。
ウィンザー城内から見たイートン校 |
12時から閉館まで、ゆっくりと見て回った後、ウィンザー中心から徒歩10分くらいの場所に取った宿へチェック・イン。部屋でお茶を飲んで一服してから、夕暮れの散歩に、テムズ川を経て、イートン校へと足を運びました。イートンについては次回書くことにします。
ウィンザーへの行き方
ウィンザー・セントラル駅のショッピングモール |
ショッピング・モールを出てすぐに城の壁とヴィクトリア女王の像 |
ちなみに、ウォータールー駅から直行でウィンザー・アンド・イートン・リバーサイド駅まで行く方法もあります。こちらの方は、所要時間約1時間と、乗り換えはないけれど、多少長くかかります。
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