投稿

2025の投稿を表示しています

アガサ・クリスティ、愛の失踪事件

イメージ
 ミステリーの女王、突然消える 1926年12月3日、アガサ・クリスティは自宅を出た後、忽然と行方をくらました。彼女自身が書くミステリーさながらに。そうして始まるのがイギリス最大と言われた人探しの一大捜査。日夜、新聞はセンセーショナルに事の成り行きを報道する。一般庶民はにわか探偵と化し、あれやこれやと自説を披露する。 失踪から11日後、彼女は、イングランド北部、ヨークシャー地方にあるハロゲイトのホテルで発見されるが、生涯、失踪についての理由や詳細を語ることはなかった。その間、記憶を失っていたなどと言う話もある。よって、この事件は今なお多くの憶測を呼んでいる。真相は彼女の墓の中に封じ込まれたまま。 彼女の失踪の背景には、当時の精神的な負担があったなどとされる。特に、最愛の母の死と、夫アーチボルド(アーチ―)からの離婚の申し出が重なったことが、大きな要因だった可能性が高いらしい。そうした状況から逃れるため、彼女は、自宅からは遥か離れたスパタウン、ハロゲイトへと身を寄せたのかもしれない。 映画「アガサ 愛の失踪事件」 当然ながら、この失踪事件は後世の創作意欲を刺激。1979年の映画『Agatha』(邦題:アガサ 愛の失踪事件)もその例だ。ヴァネッサ・レッドグレイヴがアガサ役を演じ、ダスティン・ホフマンが彼女を追うアメリカ人記者として登場する。 この映画は「クリスティの失踪の謎に大胆な仮説を加えたフィクション」として作られたものの、彼女の親族や関係者は激怒したという。しかも撮影が始まったのは、彼女が亡くなってから、すぐ後のこと。 映画内では、クリスティは夫の愛人ナンシー・ニールの後を追ってハロゲイトにやって来るという設定だ。そして、あたかも、ナンシーを殺害する計画を立てているような行動をとる。ホフマン演じる記者は、スクープを狙い、身元を偽るクリスティに接近するが、次第に彼女に恋心を抱き始める。そして、その謎に迫り、彼女の計画を阻止しようとする・・・という内容。 私がはじめてこの映画を見たのは、日本でのテレビのロードショーだったと思う。 覚えていたシーンは二つ。ひとつは、朝食のテーブルで、アーチ―に離婚を迫られたクリスティが、「行かないで!」と、部屋を去ろうとする彼の足にしがみつくシーン。もうひとつは、小柄なホフマンが背の高いレッドグレイヴとダンスをするシーン。背丈の...

ダイナソーとラッダイト

イメージ
「私はダイナソーだから、周りもダイナソーが多いんだ」 「何さ、それ。ダイナソーって恐竜でしょ?」 日本に帰っていた時にそういう会話を友人とした。こういうことはわりとよくある。イギリスで頻繁に使われる表現だから、なんとなく通じるだろうと思って、まんま使いをしてしまう。 dinosaur:恐竜。この言葉は、英語圏ではテクノロジーや変化に対応できずに取り残され、考え方なども古く、時代遅れになってしまっている人を指したりもする。 He is a dinosaur.  あいつは時代遅れだぜ 日本では、生きた化石とでも言った方がいいのだろう。基本的には似たようなイメージか。恐竜たちは、進化を待たずに絶滅してしまったが、生きている化石、シーラカンスなどは、昔の姿のまま細々とサバイバルしている。 He's a Luddite. 奴はテクノロジー反対主義者だ。 と人が言う時、それはテクノロジーや新技術に対して懐疑的な態度を示し、反対の立場を取る人のこと。科学的進歩自体に反対する、といったような、わりとネガティブなシーンで使われている気がする。 ラッダイトの語源は、19世紀初頭、産業革命中のイギリスで、機械化により職を失うと恐れた者たちが、工場や機械の打ちこわし運動などで抗議したラッダイト運動から。この時の打ちこわし運動がラッダイト運動と呼ばれたのは、実在したかは定かでない、当運動の伝説のリーダー、ネッド・ラッド(Ned Ludd)による。 AIの台頭により多くの仕事が消滅するのではという危機が取りざたされる昨今、あまりの急激な変化に批判的、忠言的なことを言う人物は、「ラッダイト」のレッテルを張られてしまう事もあるようだ。 ダイナソーとの違いは、ラッダイトは積極的にテクノロジー批判を行うのに対し、ダイナソーは「気が付くと、わたくし、取り残されていました・・・」風に、心ならずも時代遅れになってしまったという、可笑しくも悲しい雰囲気がある。 さて、私は本当にダイナソーか? スマホはあまり使わず、近くに出かける時はほとんど持ち歩かないのは、自分の意思だ。できる限りのユーザーエンゲージメントのみを最終目的としたアルゴリズムを使用するプラットホームに振り回されたくもない。便利になったなあとは思いつつ、スマホが無かった時代に多少のノスタルジアを感じるのはダイナソー的か?昨今のテクノロジーの...

夜空に火星と木星を見る

イメージ
 我が家の庭は、ほぼ真南を向いている。 冬の凍てつく晩には、この南の空を東から西へと オリオン座 が渡っていくのが良く見える。「おお寒」などとつぶやきながらも、庭に座って時に夜空をながめるのは、冬の楽しみのひとつでもある。特にイギリスの夏の夜は暗くなるのがとても遅いため、星でも見ようなどと言うより「もう寝るか」となってしまう。 雲に覆われる日が多いイギリスで、特にこの冬は、めげるような 曇った日が続き 、12月、1月とあまり庭で星を見ることも無かった気がする。それが、2月に入ってからのここ数日、夜の空は晴れ、久しぶりに星を見に庭に出ている。 夜の9時。マフラー、手袋、帽子を装着し、庭に座って前方を見ると、オリオン座は空のど真ん中あたりで堂々としている。オリオン座の斜め上東側にはオレンジがかった色をした火星がおり、それと張り合うようにオリオン座斜め上西側には黄色がかった木星がまばゆく光る。 現在、火星はふたご座のカストルとポルックスの二つの星と共に小さな三角形を作っている。一方、木星の方はおうし座の只中に陣取り。月は上弦で、この時は西の空におり、昨日はほぼ半月。すばらしい光景。 上にのせた図は、2月4日の夜、南の空に見えた星座たちだが、この図の中で火星と木星、どれだかわかるだろうか。2月の初め、火星と木星は双方逆行しており、東から西へと動いていたのが、木星の逆行は2月4日で終わり、これからは順行し徐々に東へ移動していくということ。火星は2月の終わりまで逆行し西への移動を続けるようだ。 惑星、planetの語源はギリシャ語で、wanderer(放浪者)を意味するという。場所を動かず星座を形成する恒星と異なり、惑星たちは天空でその居場所を変えていく。ギリシャ人たちはそれを「さまよえる者たち」と呼んだわけだ。 ちなみに火星は英語でマーズ(Mars)。木星はジュピター(Jupiter)。マーズはローマ神話の軍神マルス。その燃えるような赤い色が血と戦いを連想させたためらしい。ジュピターは言わずと知れた主神(ギリシャ神話のゼウス)で、命名の理由は、他の惑星と比べた木星の大きさと地球から見たその明るさにある。王様的貫録というやつ。 肉眼で見ることができる5つの惑星たち(水星、金星、火星、木星、土星 :Mercury, Venus, Mars, Jupiter, Saturn...

虚偽は飛び回り、真実は後から足をひきひきやって来る

イメージ
・・・as the vilest writer hath his readers, so the greatest liar hath his believers: and it often happens, that if a lie be believed only for an hour, it hath done its work, and there is no farther occasion for it. Falsehood flies, and truth comes limping after it, so that when men come to be undeceived, it is too late; the jest is over, and the tale hath had its effect: like a man, who hath thought of a good repartee when the discourse is changed, or the company parted; or like a physician, who hath found out an infallible medicine, after the patient is dead.・・・ 最も劣悪なる作家にも読者がいるように、極めつけの大ウソつきにも信者がいる。よくあることだが、嘘が一時間でも信じられたが最後、その役目はもう果たしてしまったと言え、もうそれ以上要はない。虚偽は飛び回り、真実はその後から、足をひきひきやって来る。よって、人が騙されたとわかった時にはもう後の祭り。いたずらは終わり、嘘物語はその効果を発揮してしまっている。話題がすでに別のことへ移ってしまった後、または会合が終わってしまった後に、機知に満ちた言葉を思いついた人物のごとく、患者が死んでしまった後に、効果満点の薬を発見した医者のごとくだ。 (日本語訳:本人!AIさんに頼ってませーん!) The Examiner誌 14号(1710年11月9日)に掲載されたエッセイよりの抜粋(英語全文は こちら ) これはAnglo-Irish(イギリス系アイルランド人)作家、ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)によるエッセイの一部。いつの世も変わらぬものだと思う。...

AIスロップとコンテンツのクソ化にどう対処する?

イメージ
「何、これ・・・?」 30年以上前の話になる。美術学校に通っていたイギリス人の友人が、学年末の展覧会のための作品を作っているところへ遊びに行ったことがある。彼の前にでんとかまえていたオブジェは、新聞紙やら紙やらをくしゃっと潰して作ったものだった。かなり雑に作ったペーパーマシェといった風。4本の足のついた箱があり、その前には巨大エッグスタンドのような代物が据えられている。エッグスタンドの中には、空き缶やら煙草の空箱やら丸めた紙くずやらテークアウェイのプラスチック容器やらが入っている。ゴミ箱のように。そしてエッグスタンドの全面からは二つの筒のようなものが飛び出し、4本足の箱につながっている。 「どうだ」と言わんばかりの友人の視線を浴びながら、私はしばしその物体を見つめ、必死に頭の中で誉め言葉を探したが、見つからず、出てきた言葉は素直な疑問・・・「何、これ?」だった。彼はわからないのかとびっくりしたような眼を見開いた。「クソのようなテレビ番組を何時間も見ている人間たちの頭が、やがて、くずでいっぱいになるというメタファーだ!」 なるほど、この箱はテレビか。エッグスタンドは頭の部分が切り取られ空洞になっている人間の頭から肩というわけだ。空洞の中に入っているごみは、テレビに吸い付いた眼球(2本の筒)から取り込んだ内容物。言われてみると、エッグスタンド前面には鼻のようなものがついており、赤い絵の具で狂ったような笑いを浮かべた口も描かれている。彼はその後、延々とテレビ番組の内容の薄っぺらさを語った。当時のイギリスのテレビ番組はチャンネル数が日本のそれと比べてかなり少なかった。にもかかわらず、バラエティー番組ばかりの日本より、面白くためになるものも割とあると感じていた私だったが、一応ふんふんと意見を伺った。 こんな事を思い出したのは、AI slop とenshittificationという言葉に初めて行き当たった時だ。slopとは名詞の場合「汚水、泥水、残飯」などの意味。今更私ごときがエラソーに説明する必要もないのだろうけれど、AI slopは、AIが作り上げる低価値のコンテンツ。大量に流れ出すとインターネット、SNS上を汚染しまくることになる。enshittificationは新語で、直訳は「クソ化」。プラットフォームの劣悪化を指す。テレビの内容を心配するという時代から、ネット、S...

アポカリプス(黙示録)

イメージ
朝、目を覚ましたら第三次世界大戦が始まっているのではないか、世界が終わっているのではないか・・・そんなことを想像する時代になってきた気がする。毎日の平凡な日常がいきなりまるで無かったように壊される、そんな朝が来るかもしれない・・・。本日のニュースでは、人類最後の日まであとどれほどあるかを象徴的に告げる2025年の終末時計が残り89秒となって過去最も短くなったなんぞと言っている。各地で止まらない戦争、地球温暖化、AIが人類に与える潜在的リスク、 AIによる偽情報拡散 リスク・・・最後の日が近づく理由は色々。 それでも、ダイニングの窓から庭を眺めつつ暢気に紅茶なんぞ飲んだりしている時、ゆっくり湯ぶねに横たわり居心地よく瞑想したりしている時、自分に言う。「そんなことはあり得ない。この毎日が壊れるはずはない。明日も今日のような日が続くに決まっている」 同時に、あちこちの国での悲惨なニュースを耳にすると、同じ地球上で自分がこうも普通にしていられるのが類まれなる奇跡のようにも思えてくる。 ここ2か月、コ―マック・マッカーシーの「ザ・ロード」やジョン・ウィンダムの「トリフィド時代」など、いわゆるポスト・アポカリプス(終末もの)と称される類の小説をいくつか読んだ。穏やかで平和な世界がいきなり急変してしまった後、今まで築き上げてきた文明なるものの常識が崩壊してしまったあと、人類はどうなるのか、どう反応するのか、どのようなサバイバルを試みるのか。 ポスト・アポカリプスのアポカリプス(黙示録)という言葉は「開示する」ことを意味するギリシャ語に由来するという。英語ではRevelationと訳される。 新約聖書の一番最後の聖典がこのThe Book of Revelation、黙示録だ。これが何故に新約聖書に入れられたのかとびっくりするほどキリストの愛の教えには反する感のある内容で、もし入れるのであれば旧約聖書の方ではないかという気がする。実際、この聖典の聖書への挿入には色々な反対論議もあったようだ。 黙示録はキリスト教がローマ帝国内で迫害を受けていた1世紀後半(ネロ帝またはドミティアヌス帝時代)に書かれたのではないかとされ、「今に見ていろ、酷い目に会わせてやる」といった感じの復讐心と暴力心に満ち満ちている。ヨハネ(英語ではジョン)の黙示録と銘打たれているが、このヨハネがキリストの使徒のヨハ...

ドゥンケルフラウテ

イメージ
 今朝、久しぶりに太陽を見た気がする。 ここ一週間というもの、ドゥンケルフラウテ(dunkelflaute)と称されるような天気が続いていた。ドゥンケルフラウテはドイツ語で「陰鬱な凪」のような意味だという。空をぴったりと覆いつくした雲のため、一体全体太陽がどこにあるかわからない灰色の世界。風も動かないので雲も動かない。一日中、何かの器の中に入って生活しているような雰囲気だ。もともと、この言葉は再生エネルギーに関連して使われる用語のようで、太陽エネルギーも、イギリスで盛んな風力エネルギーもあてにならない天気を指す。ドゥンケルフラウテ、ドゥンケルフラウテ……。散歩しながら何度か心の中で繰り返した。言葉の響き自体の澱んだ重苦しい感じが妙に風景にぴったりくる。 先月、米の作家レイ・ブラッドベリ(Ray Bradbury)の小説をいくつもオーディブルで聞いた。SFものなども多く書いていた人で、その短編のひとつにThe Rocket Man(宇宙飛行士)という話があった。萩尾望都がこれを漫画化していた記憶がある。宇宙に出ると地球の妻と息子が恋しく、地球にいると宇宙にまた旅立つことを夢見るという、二つの世界にゆれる宇宙飛行士の話だ。やがて、彼は宇宙船の事故で太陽に落ちて死んでしまう。以後、愛する人を奪った太陽を見るのがつらく、彼の妻と息子は日中はカーテンを閉めて眠り、外に出るのは夜か雨の日だけになった・・・というエンディング。これがイギリスの冬だったら、日中でも太陽を見ることなく、ほぼ毎日出歩けるのに。 11月は、丸一ヶ月日本へ帰国しており、青空の下色々と出歩いた。イギリスに戻った途端、この重苦しい天気に「うわ、戻って来てしまった!」と思った。帰国の翌日から日光不足を補うためのビタミンⅮの錠剤を取り始めた。年明け早々、イギリス人が一斉に次の夏の南国でのホリデーの予約に走るわけだ。「コスト・オブ・リビングで、生活費が急上昇して国民の生活は大変です」などとのニュースが流れたそのすぐ後で「夏のホリデーの予約が殺到しています」なんぞと言った感じの全くの矛盾のようなニュースが流れる。これを矛盾と感じないのは、夏の長期海外ホリデーが市民権のひとつのように捉えられているような国ならではか。 以前のブログ記事にも書いた1816年は 夏のない年 と呼ばれ、タンボラ火山噴火が原因で太陽が遮ら...