映画版「ジキル博士とハイド氏」

このアメリカ映画は、ロバート・ルイス・スティーブンソン著「Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde ジキル博士とハイド氏の奇怪なる事件」を基にしていますが、ストーリーラインは、かなり原作と違いますので、原作が好きな人は、比べるとがっかりする可能性ありです。原作を読んでいない人、または、全く別物として見ると、それなりに楽しめます。

霧の都、ヴィクリア朝のロンドン。名声高い医師であるジキル(フレドリック・マーチ)は、人間は内部に善と悪の2面性を持ち、サイエンスの力により、その2つを分割する事が可能である、という意見を持つ。彼は、美しいミリアムと婚約が決まってはいるものの、結婚が待ちきれず、ミリアムの父に、即座にでも結婚させてくれるように頼むが、断られる。悶々とするジキルは、夜のロンドンで、暴力を振るわれていた売春婦、アイヴィーを助け、アイヴィーは美男で紳士的なジキルにちゅーっとキスをし、スカートをめくり上げ足を見せて、友人と共に去るジキルに、「また会いに来てね」。これが、彼女の大失敗となります。

結婚を早める事ができない上、ミリアムは、父と、数ヶ月ロンドンを離れてしまい、ついにジキルの辛抱が切れる。自分の様な、守るべき名声のある男が、ロンドンの町を徘徊して、女遊びをし、羽目をはずすわけにもいかない。そこで、実験の結果作り上げた、邪悪な心を、善から分離し解き放つ薬をがぶがぶっと飲み干し、ジキルはハイドに変身。これで、おおっぴらに好きな事ができると、ハイドは、アイヴィーを探し当てるのです。アイヴィーは、ハイドのゴリラの様な様相と粗悪な態度に恐れおののき、嫌々ながら、愛人となり囲われることに。

やがて、ミリアムがロンドンへ戻ったと知ったジキルは、ハイドに変わる事を諦め、アイヴィーを離れる決意をする。そして、ミリアムの父からは、念願の、結婚式の日付を早める約束を取り付ける。ところが、ジキルの中に存在するハイドが、強くなりすぎていたため、薬を飲まずにジキルはハイドに変わってしまうのです。そして、アイヴィーの元へ現れ、アイヴィーを絞殺。更にはミリアムまでに襲い掛かろうとするのを、警察と、事の次第を知った医師の友人に追われ、銃で撃ち殺される。倒れたハイドの顔は、徐々に、ジキルの顔へともどり、ジ・エンド。

映画が、原作と大幅に違うところは、ハイドが代表する悪が、主にお色気方面に向けられていること。まあ、ヴィクトリア朝に蔓延したモラルの二重性(ダブルスタンダード)・・・表向きは紳士で模範的な夫、夜になると、売春宿を訪れる、などという現実を、反映してはいます。実際、こうしたしょうがない紳士達は、売春婦から梅毒が感染し、それを奥さんにうつしてしまい、最悪、自分はキャリアーとして生き残りながら、奥さんが梅毒で死ぬ、というケースもあったようです。原作での悪は、もっと一般的、総括的な悪であり、ジキルには、婚約者もいなければ、ハイドが殺すのも、関係があった女性ではなく、通りがかりの男性。

また、映画のハイドは、まるで狼男と猿の惑星の中間の様な人間離れした顔で、うがーっと笑ったときの歯並びもひどく、妙に尖がった頭が、何とも可笑しい。最初の変身場面では、大笑いしてしまいました。公開当時は、こういうの、怖かったのでしょうか。また、ジキル博士も、うっすらとアイシャドーを付けているような面持ちで、こちらは、いささかドラキュラを思わせます。原作でのハイドは、描写しがたいが、見る者に嫌悪と恐怖の念を引き起こさせる顔であり、特にどこが異常であるわけでもないのに、何故か奇形の印象を与える顔・・・となっていて、ゴリラの様な顔ではないのです。また、原作では、背の高いジキル博士が、ハイドに変わると、背がぐっと低くなり、洋服がだぶだぶとなるのが、映画では、背丈の変化は無し。この辺りは、視覚的に、原作どおりにするのは難しいというのもあります。

映画の出だしは、バッハのトッカータとフーガ、ニ短調で始まり、これは、ジキル博士が、何故か居間に設置してあるパイプ・オルガンで、自ら弾いている演出になっています。また、映画の出だしと、幾つかのシーンで、カメラが、主人公の視線から取られているのが、なかなか効果的でした。

フレドリック・マーチは、この映画でアカデミー主演男優賞を獲得しています。

原題:Dr. Jekyll and Mr. Hyde
監督:Rouben Mamoulian
言語:英語
1931年

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