ロンドン・ブリッジ

テムズ川を渡って、北はロンドンのシティー、南はサザーク(Southwark)を結ぶ橋が、ロンドン・ブリッジ。現在のものは、1973年に開通となった、特に風情も無いコンクリートの橋。上の写真は、北岸から、橋の南端を取ったもの。背景に頭をちょっこり覗かせている教会は、シェイクスピアゆかりのサザーク大聖堂。中世のサザークは、興行娯楽地域でしたので、シャークスピアのオリジナルのグローブ座も、この界隈にありました。

長い間、ロンドンの主な交通の目抜き通りであったテムズ川。物資も人も、テムズ上を船で移動させた方が、陸路を行くより早かったのでしょう。最初に、この辺りに橋をかけたのは・・・、そうです、やっぱりローマ人。43年にイギリスに遠征したクラウディアス帝の軍により、簡単な橋が建設され、後、さらにちゃんとした木製の橋が建てられたと言われます。そして、この橋の北側の、現在のロンドンのシティーにあたる場所が、ロンディニアム(Londinium)と称され、発展することとなります。今のロンドンは、ここから発生し、大きく広がっていくこととなります。ローマ人が去った後、この最初の橋は、取り壊されるか崩れるかし、発掘物から判断する限りにおいては、その後、かなり長い間、この場に橋がかけられた形跡はないようです。

1000年ごろ、木製の橋がかけられますが、これは、何度か侵入してくるバイキング達によって崩されたり、火災や洪水被害にあっては、修復され、建て直され。

ようやく木造の橋に懲りたか、ヘンリー2世の時代の1176年に、石造の橋の建築が始まり、これが完成するのが、1209年。旧ロンドン・ブリッジと呼ばれるものです。「London Bridge was built on woolpacks.」(旧ロンドン橋は、羊毛の上に築かれた)などと言われるよう、建築費の大部分は、羊毛にかけられた税金からまかなわれ。この旧ロンドン・ブリッジは、1831年に、取り壊されるまで、約600年以上もの間、活躍する事になります。橋の長さは約290メートル、19の石のアーチが使用され。

船で、このロンドン・ブリッジの下を通り抜けるのは、なかなか要注意だったようで、「London Bridge was made for wise men to pass over and fools to pass under.」(ロンドン・ブリッジは、賢者が上を渡り、愚か者が下をくぐるよう作られた。)という言い回しも残っています。橋げたに激突とか、転覆とか沢山あったのでしょうか。

旧ロンドン・ブリッジは、イタリアは、フローレンスのポンテ・ヴェッキオさながら、橋の上に店や家が建てられ、店の数は100以上。不衛生であったロンドン市内に比べ、比較的清潔な場所であったため、高級店が多かったと言います。狭い場所をいかすため、中には6階建ての建物もあり、土台はかなり強固に作ってあったのでしょう。長い間、ロンドン内でテムズを渡れる唯一の橋だったものの、店の数の多さから、実際に交通の手段として橋を渡るのも、大変な混雑で時間がかかったとか。やはり、フェリーや船で対岸へ渡る方が、早い場合もあったようです。

橋のサザーク側(南岸)の門の上は、罪人、特に謀反人達の首をさらす場所で、南の郊外からロンドンへ足を踏み込む者たちが、一番最初に遭遇するのは、腐っていく幾つもの首が、からすなどにつつかれているおぞましい光景。上の絵は、サザック側から描いてあるものですが、確かに良く見ると、人間の頭が刺さった棒が、ピンクッションに刺してあるまち針よろしく、門の上から沢山突き出ています。左手前景にあるのは、サザーク大聖堂。

橋と言うより、小さい町の様相があった旧ロンドン・ブリッジは、やはり何度か火災の被害にあいますが、1666年のロンドン大火では、難をまぬがれています。橋の上の建物は1758年から1762年の間に撤去されますが、その後も、橋としては使われ続け、ジョン・レニー設計の新しい橋が1831年にオープンして初めて、撤去されます。それは長い間、おつかれさん。

さて、ジョン・レニーによる新しいロンドン・ブリッジは、後年、徐々に沈み始め、1968年には、再び新しいものを建設する必要から、アメリカの実業家ロバート・P・マカロック(Robert P.MuCulloch)に売られる、という変わった運命を辿ります。こうして、解体された、ジョン・レニーの新ロンドン・ブリッジはアメリカへ旅立ち、マカロックが、アリゾナ州のハバス湖岸に土地を購入して、築き上げた新しい町、レイク・ハバス・シティー(Lake Havasu City)へと運ばれ、砂漠のど真ん中に構築されるのです。橋の下に水を引くのは、なんと、橋を建てた後に行ったという事。今では、アリゾナ州の観光の目玉となっているようです。「マカロックは、ロンドン・ブリッジを、タワーブリッジと間違って買ってしまったんだ」、というまことしやかな噂もありますが、金持ちの米人をあざ笑おうとする、イギリス人のいじわるジョーク。確かに同じお金を払うなら、私もタワーブリッジが欲しいところですが。マカロック側は、この噂は、宣伝になると、特に否定はしなかったのだそうです。いずれにせよ、彼は、レイク・ハバス・シティーの土地住宅を、アメリカの寒い地方の住民に、絶好のリタイヤーの場所として宣伝販売し、ロンドン橋を買った金額は十分に賄うに足るお金を儲けたと言います。

上は、アリゾナの観光サイトから拝借した、ジョン・レニーのロンドン橋の写真。現在のものより、威厳あります。

上の写真は、現ロンドン・ブリッジの下から望むタワーブリッジ。

さて、ロンドン・ブリッジと言って、どうしても避けられない話題は、ナーサリー・ライムの「ロンドン橋落ちた」。

London Bridge is falling down,
Falling down, falling down.
London Bridge is falling down,
My fair lady.

ロンドン橋が落ちていく
落ちていく、落ちていく
ロンドン橋が落ちていく
マイ・フェア・レディー

この後の歌詞は、木と土で作り、それも落ちたので、レンガで作り、それも壊れて、鉄で作り、鉄が曲がると、金銀で作り、金銀で作ると、盗むやつが出るから、門番をつける・・・と続きます。どうしてこういう歌が出来たのかの謎解き説は色々。また、今では、オードリー・ヘップバーンのミュージカルのタイトルとしても有名な「マイ・フェア・レディー、美しい貴婦人」は誰を指すのかにも、諸説がある様子。

ローマ時代までに遡り、焼けたり、壊れたりしては、ほぼ同じ場所に建て直されてきた橋。謎解きに明け暮れずとも、その歴史をさっと見ただけで、「ロンドン橋、落ちた」と歌い出したくはなるのです。

*余談*
Uチューブで、「London Bridge is falling down」の歌の検索をしたところ、タワーブリッジらしき絵を載せて、この曲を流すビデオ2つに行き当たりました。それを見ながら、「米人が、タワーブリッジだと思ってロンドン・ブリッジを買ってしまった」という上記の話が出るのもわかる気がしました。

いずれにしても、インターネットで情報が比較的簡単に入手できる現在でも、タワーブリッジがロンドン・ブリッジと呼ばれると信じている人は・・・いるようです。人間、知らない事は沢山あるのは当然なので、勘違いしている事自体が恥ずべき事だとは思いませんし、また、本人で勝手にそう思い込んでいるだけなら無害ですが、アップロードして公に見せようというのであれば、その前に、確認くらいしたらいいのに、と思うのです・・・。イメージサーチで調べれば、1分とかからないでしょうに。

コメント

  1. はい!私もロンドンブリッジがタワーブリッジと思って、ロンドンブリッジの駅で降りて、「ありゃ?あっちだ!」と気がついたおばかさんのひとりです^^
    さすがに、昨年は間違わずにタワーブリッジを渡りましたが・・この橋にもそんな歴史があったのですね。ロンドン橋落ちた~という歌は、私が子供の頃初めて覚えた英語の歌です。
    今も英語はまったく話せないのですが、この歌だけは今でも英語で歌えます^^
    冬のテムズ川・・寒そう・・・

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  2. あはは、わりと良くある話なのかもしれませんね。今のロンドン橋はあまりぱっとしない見栄えだから。ただのああ、勘違いならご愛嬌ですよ。タワーブリッジの写真を大きく載せて、「これがロンドンブリッジであります」とネット上で断言し、そのまま気がつかなかったら話は別でしょうが。

    ここのところ、お天気まあまあです。先月初めの雪は記憶のかなたに薄れていっています。

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