ウェディング・ケーキの教会
1666年、ロンドン大火の後、セント・ポール寺院を初め、焼失したロンドン内の多くの教会を設計したのはクリストファー・レン。写真の尖塔を持つ、セント・ブライズ教会(St Bride's Church)も、レンのデザインによるもの。大火後、レンが建て直した数ある教会の中で、一番経費がかかっています。また、レン設計による数ある教会の中でも、大火後、比較的に早めに建てられたもので、これは、当教会関係者が、レンを近くのタバーンに連れて行ってご馳走した、というのがその理由のひとつとやら。
イギリスの新聞業界やジャーナリズムの代名詞のように使われる、ロンドンのフリートストリート(Fleet Street)をちょっと入ったところにあるため、「フリート・ストリートの聖堂」「インクの通りの教会」などとも呼ばれ、ジャーナリストの教会のイメージが強いです。
セント・ブライド教会の有名な尖塔の、もとの高さは、71メートルだそうですが、18世紀半ばに雷に打たれ、2,4メートルほど短くなってしまったそうです。
この地は、過去7つの別の教会が入れ代わり立ち代り建てられた跡地だという事ですが、6世紀に建てられた石作りの教会が、アイルランドの聖人、セント・ブライド、St Bride(またはセント・ブリジッド、 St Brigid)を祭ったものであったため、現教会も、この名で呼ばれています。セント・ブライド(453-525)は、セント・パトリックなどと同じくアイルランドの守護聖人。アイルランドのキルデア(Kildare)に修道院を設立し、当修道院は、学問と精神の中心としての名声を得。彼女が亡くなった2月1日は、彼女の聖人の日(feast day)で、生前の彼女がしたように、豊穣や富みを、貧民に分け与え祝うという事です。
さて、教会に話を戻します。1940年、12月29日、第2次世界大戦中のドイツ軍の爆撃により、かなりの被害を受ける事に。この日の爆撃は、「第2のロンドン大火」などと呼ばれ、シティー周辺にかなりの被害を出し、近くのセント・ポール寺院の巨大なドームが、炎と煙の中に浮かぶ船の様に見えたと。
爆撃で、教会内部は焼け、鐘は、解けて落下したと言いますが、尖塔は、レンの強固なデザインのおかげで、なんとか、その形をとどめ。現在は、きれいに修復された姿で立っています。戦後の修復は、17年の年月がかかり、その経費の大半は、全国新聞社が集まって支払ったということ。やはり、ジャーナリスト達の教会ですから。
ただし、戦後、フリート・ストリートの建物の老朽化と、道路渋滞により、新聞社、報道社は、新しいテクノロジーに対処できるモダンな建物に移るため、フリート・ストリートを次々と去り、ロンドン東部などに移動することになります。ついに、2005年には、唯一残った報道社ロイターが、カナリー・ウォーフ引越しとなった際、セント・ブライド教会で、これを記念するための礼拝が行われたそうです。
当教会の尖塔には、下から上へ、順にサイズが小さくなっていく、8角形の段々重ねが4つあります。この段々は、現在のウェディング・ケーキの形のインスピレーションになったものと伝えられています。1811年まで、フリート・ストリートに住んでいたお菓子職人のウィリアム・リッチ氏。彼が、ケーキ職人として修業した親方の娘の心を射止め、めでたく結婚することとなり、結婚式のために、皆をあっと言わせるウェディングケーキを作ろうと頭をひねっていたところ、自分の店の窓から見えた、セントブライド教会の尖塔に触発されて、段々のウェディング・ケーキを考案し、名声を得たのが事の始まりとされています。教会の名前が、ブライド(bride 花嫁)というのも、また、もってこいですしね。
そう言われてみると、うちのだんなの両親の結婚写真に写るケーキも、尖塔に見えなくはない。段は、節約したのか、2段しかありませんが・・・。
イギリスの新聞業界やジャーナリズムの代名詞のように使われる、ロンドンのフリートストリート(Fleet Street)をちょっと入ったところにあるため、「フリート・ストリートの聖堂」「インクの通りの教会」などとも呼ばれ、ジャーナリストの教会のイメージが強いです。
セント・ブライド教会の有名な尖塔の、もとの高さは、71メートルだそうですが、18世紀半ばに雷に打たれ、2,4メートルほど短くなってしまったそうです。
この地は、過去7つの別の教会が入れ代わり立ち代り建てられた跡地だという事ですが、6世紀に建てられた石作りの教会が、アイルランドの聖人、セント・ブライド、St Bride(またはセント・ブリジッド、 St Brigid)を祭ったものであったため、現教会も、この名で呼ばれています。セント・ブライド(453-525)は、セント・パトリックなどと同じくアイルランドの守護聖人。アイルランドのキルデア(Kildare)に修道院を設立し、当修道院は、学問と精神の中心としての名声を得。彼女が亡くなった2月1日は、彼女の聖人の日(feast day)で、生前の彼女がしたように、豊穣や富みを、貧民に分け与え祝うという事です。
さて、教会に話を戻します。1940年、12月29日、第2次世界大戦中のドイツ軍の爆撃により、かなりの被害を受ける事に。この日の爆撃は、「第2のロンドン大火」などと呼ばれ、シティー周辺にかなりの被害を出し、近くのセント・ポール寺院の巨大なドームが、炎と煙の中に浮かぶ船の様に見えたと。
爆撃で、教会内部は焼け、鐘は、解けて落下したと言いますが、尖塔は、レンの強固なデザインのおかげで、なんとか、その形をとどめ。現在は、きれいに修復された姿で立っています。戦後の修復は、17年の年月がかかり、その経費の大半は、全国新聞社が集まって支払ったということ。やはり、ジャーナリスト達の教会ですから。
ただし、戦後、フリート・ストリートの建物の老朽化と、道路渋滞により、新聞社、報道社は、新しいテクノロジーに対処できるモダンな建物に移るため、フリート・ストリートを次々と去り、ロンドン東部などに移動することになります。ついに、2005年には、唯一残った報道社ロイターが、カナリー・ウォーフ引越しとなった際、セント・ブライド教会で、これを記念するための礼拝が行われたそうです。
当教会の尖塔には、下から上へ、順にサイズが小さくなっていく、8角形の段々重ねが4つあります。この段々は、現在のウェディング・ケーキの形のインスピレーションになったものと伝えられています。1811年まで、フリート・ストリートに住んでいたお菓子職人のウィリアム・リッチ氏。彼が、ケーキ職人として修業した親方の娘の心を射止め、めでたく結婚することとなり、結婚式のために、皆をあっと言わせるウェディングケーキを作ろうと頭をひねっていたところ、自分の店の窓から見えた、セントブライド教会の尖塔に触発されて、段々のウェディング・ケーキを考案し、名声を得たのが事の始まりとされています。教会の名前が、ブライド(bride 花嫁)というのも、また、もってこいですしね。
そう言われてみると、うちのだんなの両親の結婚写真に写るケーキも、尖塔に見えなくはない。段は、節約したのか、2段しかありませんが・・・。
MagはCo.Kildareに住んでいます。
返信削除アイルランドにはKilがつく地名が多いですね。
Magにも会う予定なのでSt Brigidゆかりの場所を
見られるかもしれません。
教会の尖塔、どこまで人が登れるのでしょうね。
そうですよね。この教会の事を調べている時、キルデアってどこかで聞いた、ウィキで調べても、このページ前に見たと思ったんですよ。
返信削除ローマ時代の後、アングロサクソンの侵入と共に、英国内のキリスト教は、西に追われ、アイルランドなどで生き長らえ、後に、アイルランドとローマからの宣教師が、再び、イングランドへキリスト教再布教。後、イギリスは、ローマ風キリスト教に迎合するので、アイルランド由来の教会の地は歴史が古いものが多いらしいです。
尖塔は、登れないような気が。次回入ったら、また見てみます。