ジェーン・オースティンの家

ジェーン・オースティンの家の玄関を庭から望む

 ハンプシャー州チョートン(Chawton)という村は、前回の記事で書いたギルバート・ホワイトのセルボーン村から、北西に4マイルほど行ったところにあります。イギリスの女流作家ジェーン・オースティン(Jane Austen 1775-1817)が、人生の最後の8年間を過ごした場所で、彼女が住んだ家は、博物館として保存されています。

ここでジェーン・オースティンの生涯をざくっと書いておくと、

ジェーン・オースティンはハンプシャー州スティーブントンという村で牧師をしていた父の第7子として生まれます。彼女の後にもう一人男児が生まれており、きょうだいの中で、女児は、姉のカッサンドラ(母と同じ名)と彼女だけ。一家は、牧師業の他に、学校経営と農業で生計をおぎなっていたそうです。なにせ、子だくさんですから。

1783年から1786年にかけて、姉のカッサンドラと共に、オックスフォード(後にサウサンプトンへ移動)、その後は、レディングの寄宿学校で、教育を受けます。

彼女は、スティーブントンでの生活を大変気に入っていたようで、1801年に父が引退し、職を長男に譲ると、バースへ引っ越すこととなるのですが、この時、ジェーンは、愛する地を去らねばならぬショックで卒倒したとか、しなかったとか。

1805年に、父が亡くなると、一時的にバースからサウサンプトンへ引っ越し。

彼女の兄で第3男のエドワードは、子供のいなかった裕福なナイト家という家族の養子となっており、チョートンの館(チョートン・ハウス)と土地を相続していたため、彼は、自分の敷地内にあったコテージに、母と、カッサンドラ、ジェーンを住ませる手はずを整え、1809年から、オースティン家の女性親子3人と、親しい友人マーサ・ロイド(彼女はずっと後、かなり年を取ってから、ジェーンの兄、フランシス・オースティンの後家となります)は、チョートンで、のんびりと田舎暮らしを開始。ここで、ジェーンは、「Sense and Sensibility」(知性と感性、1811年出版)と「Pride and Prejudice」(高慢と偏見、1813年出版)の原稿の手直しをし、「Mansfield Park」(マンスフィールド・パーク)、「Persuasion」(説得)、「Emma」(エマ)を執筆します。

ウィンチェスター大聖堂内ジェーン・オースティンの墓

1817年の5月、すでに思わしくなかった体調が悪化したジェーンは、医者の手当てを受けやすいようにウィンチェスターに滞在しますが、約2か月後、カッサンドラに看取られて亡くなります。41歳。ウィンチェスター大聖堂内に埋葬。この墓碑には、彼女が作家であったということに一切触れていないのが興味深かったです。

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私が、彼女の有名な長編6冊(上述の5冊と、「Northanger Abbey」ノーサンガー・アビー)を読んだのは、イギリスに来てからの事です。日本の実家にあった、世界名作全集などという本の中に、「Pride and Prejudice」が、たしか「自負と偏見」という翻訳のタイトルではいっていたのですが、母親が、この話は全く面白くない、読むだけ無駄、などと断言するものだから、読まずじまいになっていました。

ジェーン・オースティンを読んだきっかけは、1995年にBBCがコリン・ファースをミスター・ダーシーとしてテレビドラマ化し、超話題となった「Pride and Prejudice」を見たことですね。放映期間中は、毎週楽しみに、チャンネルを回していましたし、放送のあった翌日は、その話題に花が咲いたりもしていました。オープニングタイトルの軽快な音楽も、ジェーン・オースティンの世界のイメージにぴったりで、よく覚えています。コリン・ファースが、あまりに、はまり役であったため、このテレビシリーズの人気は高く、知り合いの女性の一人などは、DVDを購入して、ダーシーが、ヒロインのリジーに結婚を申し込む場面や、ダーシーが館の敷地内の池に飛び込んでひと泳ぎして、濡れた洋服のまま歩く姿などを、何度も何度も、巻き戻して見ていたそうです。

私も、母親がけなしていた作品なのに、「なんだ、とても面白いじゃないの。」と、開眼。描かれている社会風習も面白いし、彼女の人間観察力も光っている。ブロンテ姉妹と比べて、からりと明るい感じの作風も好きです。この雰囲気の違いは、住んでいた土地の違いか・・・などと思ったりもします。この後すぐ、英語で原作を読み、続いて他の5冊も読み、すっかり気に入り、チョートンのジェーン・オースティン・ハウスには長い事行きたいと思っていたのです。教訓:子供や友人に、自分の意見を、絶対のものと押し付けるのはやめましょう。というより、他人の感想は、参考程度で、妄信しないようにしましょう。人間の感性は違いますから。もっとも、うちにあった本の、日本語訳がひどかったという可能性もあり、だとするとその翻訳ものを読んで、私もつまらないと決めていたかもしれない、という事もなきにしもあらずです。となると、最初から英語で読んでしまったのは正解であったかもしれません。

という事で、やっと訪れたチョートンのジェーン・オースティンの家。どんなに混んでいるかと思いきや、コロナの影響がまだあるため、外国人観光客の客足がもどっていないのも原因でしょうが、かなりすいていて、のんびりと見学できました。前もって、インターネットで予約せず、飛び込みでチケットも買えましたし。外人観光客は、フランス人女性の2人連れを見ただけでした。

比較的、小さく、ごく普通の家、というのが印象です。チョートンでは、カッサンドラが、妹が、執筆に時間を使えるようにと、ほとんどの家の切り盛りを行い、ジェーンの家庭内での仕事は、朝食の用意と、お茶の用意、ワイン戸棚と、紅茶の葉を収めた箱の鍵の管理だけだったそうです。(紅茶の葉は当時高価であったので、この鍵のついた紅茶入れの箱も展示されていました。)パーラーと呼ばれる上の写真の部屋で、過ごすことが多かったそうですが、この部屋に、彼女が著作を行ったテーブルと言うのがありました。

こんなに、小さなテーブル・・・。バランスをくずすと、物がずり落ちそうなサイズです。訪問者がいきなりやってくると、彼女はささっと、原稿を隠していたため、この部屋へのドアは、わざと油をささずに、開くとぎぎぎ、と音がするようになっていたという事。

ベッドルームは子供のころからの習慣で、ここでも、ずっとカッサンドラと一緒に使っていたそうです。

一家は、3人の召使(メイド、料理人、男性の従僕)を雇っていたという事。彼女は、当時の女性にしては、かなり足で周辺を歩き回った人のようですが、さすがに、町に買い物に出る時、ちょいと離れた場所の友人を訪れる時などは、ロバにひかせた馬車でお出かけしていたと言います。

チョートン・ハウスへと続く私道

兄のエドワードが住んでいた館チョートン・ハウスも歩いてすぐで、本当は、ここも内部を見学したかったのですが、この日は、ウェディングのベニューに使われていたので、残念、しまっており、外から眺めて終わり。ジェーンたちの住んだコテージより、さすがに立派です。

チョートン・ハウスへ向かう道の脇に、オースティン一家も礼拝に訪れていたセント・ニコラス教会がありますが、母と姉はこの墓地に埋葬されています。ジェーンは上述の通り、ウィンチェスター大聖堂が埋葬場ですが、

教会の入口そばには、彼女の銅像がありました。

カッサンドラは、ジェーン、そして母親の死の後も、同じコテージに生涯結婚せずに住み続けます。享年72歳、わりと長生きです。ジェーンも、色っぽい話もあったようですが、彼女の作品のヒロインたちのように、素敵な男性との結婚生活に入ることなく、生涯独身。

さて、彼女が実際どんな顔をしていたか・・・1810年あたりに描かれた、カッサンドラによるスケッチが、一番、信ぴょう性があるものとされています。あまり、上手くはない感じですが。

現在のイギリスの10ポンド札には、ジェーン・オースティンの肖像画が印刷されていますが、こちらは、後の世に、カッサンドラのスケッチを基にして、少し・・・いや、かなり手を加えて、美化し、ロマンティックな感じに修正したものを使用しています。キャッスレス決済が広がってきたところへ、コロナ禍で、現金を使う事が、ますます少なくなってきて、10ポンド紙幣を財布から取り出す機会も少なくなってきています。入館の時も、カード決済をしましたが、今、考えてみると、せっかくだから、たとえ、わざと美化してあっても、ジェーンの肖像の入った10ポンド札を使えばよかったと後悔しています。

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