イギリスでの牡蠣の歴史

日本にいたころ、牡蠣(オイスター)を食べた記憶と言えば、うちのばあちゃんの得意料理であったカキフライがほとんどで、後は鍋でした。酢漬け以外では、生で食べた事はほとんど無かったと思います。また、ばあちゃんのカキフライの、一回に作る量、かなりのものがあったので、日本では比較的低価格で手に入るものであったのでしょう。

イギリスに来てから食べた牡蠣は、すべて生。食中毒を避けるため、水揚げ後は、最低42時間ほど浄化されてから出されているようです。そのお値段たるや、レストランなどで、生牡蠣を一回に6つほど食べただけで、15~20ポンドくらいは取られます。日本で、フライにして、一挙にばく食いしていた日々が、嘘の様です。牡蠣に関しては、生魚を食べるという文化の日本では、調理したものが主であるのに、ヨーロッパでは生で食べるのが主流という、少々、変わったケースです。特にイギリスなど、魚とくれば、なんでも、フィッシュ・アンド・チップスのように、フライにしてしまえ!のようなお国柄ですから。

牡蠣というのは、人類の歴史上、世界各地で、非常に長い間、食べ続けられてきたと言います。極端な気候でない限り、川が海に注ぎ込む河口の海岸線であれば、簡単に採ることができ、硬い殻に入っているため、そのままの運搬も比較的簡単、そして、たんぱくのみならず、ビタミン、ミネラルも含み、栄養も豊富というスーパーフード。

自然のものを、必要に駆られ、勝手に採って食べるだけではなく、牡蠣の風味を楽しみ、養殖をイギリスで開始したのは、やはり、ローマ人でした。特に、ローマ帝国下のイギリスにおける最初の首都コルチェスター(Colchester)沖で取られ、養殖された「コルチェスター・オイスター」は、味覚の洗練されたローマ人達には、ありがたがられ、わざわざ、イタリアまで、生きたままのコルチェスター・オイスターを持って帰ったりしていたそうです。ローマからは、帝国内の、あか抜けない辺境の地と見られていたイギリスにおいて、牡蠣は「イギリスの唯一の、いいもの。」であったのです。

中世のキリスト教社会では、金曜日など、肉を食べられない、という日が多かったため、魚の代用としても重宝され。やがて、宗教改革後、イギリスがプロテスタントの国となってからは、肉と牡蠣を一緒に混ぜてパイにするというレシピも多々使用されるようになったそうです。

牡蠣のびろびろっとした、ちょっと食をそそわない風体を見て、作家のジョナサン・スウィフトは、

He was a bold man that first ate an oyster.
(オイスターを最初に口にした人間は、勇気がある。)

とのたまったそうですが、本人も牡蠣は好きであったようですから、この勇気のあった開拓者に感謝しないと。

また、ドクター・サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)の愛猫ホッジも、オイスターが好物であったという事で、ドクター・ジョンソンは、ホッジのためにオイスターを買いに出かけています。ジョンソンの伝記を書いた事で有名な、ジェイムズ・ボズウェル(James Boswell)によると、

I never shall forget the indulgence with which he treated Hodge, his cat for whom he himself used to go out and buy oysters, lest the servants having that trouble should take a dislike to the poor creature.
ドクター・ジョンソンが、いかに飼い猫ホッジを可愛がったかは忘れがたい。本人じきじき、ホッジのために、牡蠣を買いに出かけていた。それというのも、召使を買いに出して、召使が、余計な用事を言いつけられたと、ホッジに憎しみを覚えるのを避けたかったためだ。

ドクター・ジョンソンの家の前にあるホッジの像の、ホッジの足元に牡蠣の殻も一緒に彫られています。そう、昔は、牡蠣は、比較的安価に購入できたのです。社会の上層から下層まで、更には、ペットまでが食べられるくらいの値段で。

ドクター・ジョンソンの時代から更に進んだ、チャールズ・ディケンズの時代も、牡蠣というものが労働階級の食べ物としても定着している感があり、小説「ピクウィック・クラブ」(The Pickwick Papers)の中で、登場人物の一人が、

Poverty and oysters always seem to go together.
(貧乏と牡蠣は、相棒という感じだね。)

というセリフを述べる場面があるそうです。

また、「ビーフ・アンド・オイスター・パイ」なる牛肉と牡蠣を一緒にパイ生地に入れて焼き上げたパイも、ヴィクトリア朝に人気があったそうで、貧しければ貧しいほど、このパイの内部は、牛肉よりも、牡蠣の割合が増えたのだそうです。今のイギリスでは、高価な牡蠣をパイなどに入れるのはもったいない気がします。

上の絵は、1843年に描かれた、エドワード・ダンカン(Edward Duncan)という画家による「Billingsgate, First Day of Oysters, Early Morning」(ビリングスゲイト魚市場、牡蠣荷揚げの初日、早朝)という絵。ロンドン、テムズ川北岸の、ビリングスゲイト魚市場に、上記エセックス州コルチェスター近郊また、ケント州ウィスタブル(Whitstable)などから多くのテムズ・バージと呼ばれる底の浅い帆船が到着し、積んであった牡蠣を荷揚げをしている様子を描いています。ビリングスゲイト魚市場は、この絵が描かれた当時は、現存する、ヴィクトリア朝の立派な建物がまだ建てられていない頃で、木製の小屋が連なったような場所であったようです。もっとも、魚市場は、碇泊する多くの船の帆のむこうに隠れ、あまり様子が見えませんが。ロンドンでは、伝統的に聖ヤコブの日(St James Day、7月25日)を、牡蠣の新しいシーズンの始まりとしていたそうで、絵の題名の「First Day of Oysters」とはこの日の事。一説によると、牡蠣シーズンの初日は8月5日であったとも言われますが。いずれにせよ、この牡蠣シーズンの始まりを告げる荷揚げの初日は、ロンドンの通りはお祭りの雰囲気に満ちていたようです。

この日は、また「グロット・デイ」などとも呼ばれ、ロンドンの貧しい子供たちは、大量の牡蠣の殻を集めて、道端に、小さなグロット(grotto)を作り、道行く人たちに、「グロットのために。」とお金をせびり、小銭を牡蠣の殻で集めるという習慣がありました。当時、すでにかなり長く続いていた風習であり、更には、なんでも、1950年代まで続いていたのだそうです。グロットとは、洞窟を意味する言葉ですが、当然、牡蠣の殻で作るグロットなので、人が入れる大きさではない、ミニチュアです。イラストレーテッド・ロンドン・ニュース(Illustrated London News)という週刊雑誌に、1851年8月に掲載された、上の挿絵を見ると、左手の方で、子供たちが牡蠣の殻のグロットを作っており、中央で、牡蠣の殻をかざして、子供たちが通行人にお金をせがんでいます。グロットの中には、ろうそくがともされたそうです。

大量の牡蠣が、こうしてロンドンへ運び込まれ、全ての階層によって消費されていたのです。20世紀初頭には、イギリスの牡蠣産業は、世界の水産業の中でも最大規模であったという事ですので。

オイスター・バーという、アルコールと共にオイスターを出すバーもロンドン内で増え、そうしたオイスター・バーを経営していたジェイムズ・ピムズ氏により、今はイギリス夏の風物詩となっている飲み物、ピムズが考案されています。

あまりにも大量に採られ、食されたため、やがて牡蠣の量もどんどん減っていき、2つの大戦後は、牡蠣の生息地の管理もすたり、水質も悪化し、伝染病にもやられ、更に、幾度かの非常に寒い冬の影響で、1960年代には、原産の牡蠣(ヨーロッパヒラガキ、学名Ostrea edulis)はほぼ全滅状態となります。こうして、枯れてしまった原産の牡蠣のかわりに、60年代に、日本と同じ、マガキ(学名:Crassosterea gigas)が導入される事となり、今、イギリスで食べられているものの大半は、このマガキです。この事は、以前エセックス州マルドンについて書いた時にも触れたのですが。コルチェスター、ウィスタブルでも、原生のものも、少し売られているようですが、値段は高めで、マガキに比べ、数も少ないです。

伝統的に、牡蠣を食べるのは、スペルの中に「r」のついている月とされ、「r」の無い5月から8月にかけては、牡蠣は食されなかった。これは、この季節が牡蠣の産卵期であるためであったそうですが、現在では、年中食べられています。ただし、先日、ケント州ウィスタブルを訪れた時、マガキは売られていたものの、オイスターを売る店の看板に、地元原産の牡蠣に限っては、「r」のつく月のみ販売、と書かれていました。ついでながら、牡蠣は、時に性を変えて、男になったり女になったりするのだそうです。色々な生き物がいるものです。

こうして、かつてのイギリスで、貧民の強い味方であった牡蠣は、今では、昔に比べ、値段も高く、ロンドンなどでは、ちょっと高級そうなバーやレストランで食べるものといった感じです。当然、猫にやろうなんて気は、サラサラ起こりません。

最後になりますが、アメリカでも、牡蠣は長い間人気で、東海岸では原住のインディアン達ももちろん、ピルグリム・ファーザーズたちも重宝した食べ物です。私の大好きなローラ・インガルス・ワイルダーによる「小さな家」シリーズの「プラムクリークの土手で」も、19世紀には、北米の内陸部でも乾燥したもの、缶詰にしたものなどが出回っていた事が書かれています。また、カソリック教徒のアイルランドの移住者たちの間では、まだクリスマスには肉を食べない習慣が強く、オイスター・シチューを食べていたというのも、興味深い事実です。

コメント

  1. こんにちは。友人が牡蠣の町ウィスタブルに住んでいる為、時々遊びに行きます。
    市内は魚は勿論ですが、牡蠣に特化したレストランも多い様ですね。
    小さいけれど、見学するところも多く、大好きな珠玉の町です。
    牡蠣は現在では欧米だと(ローマ時代から生産されていたにも関わらず)『ハレ』の食べ物といった趣ですが、日本では冬の食卓に普通に登場する庶民の食材。
    また夏も岩ガキという巨大な牡蠣も、最近は普通に流通しています。
    古くは安価で普通に流通していたイギリスの牡蠣、再びそういう感じで買い易くなると良いですね。
    衣を付けてサクッと油で揚げて食べる自宅でのカキフライが、最も美味しいカキフライの食べ方、というのは今も変わりません。

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    1. 調度、初めて行ったウィスタブルの事を書き終わるところです。そもそも、カキの歴史を調べたのも、ウィスタブル訪問がきっかけです。ウィスタブル、小さくてのんびりできる良いところで、大変気に入りました。うちの方からも、ストラトフォードから電車に乗って、行きやすくなりましたし。
      私も、牡蠣と言えば、カキフライですね。祖母は、いつも細かく刻んだキャベツを付け合わせにして、ウスターソースをかけて食べていました。懐かしい味です。「衣をつけてサクッ」などと言われると、また食べたくなります。

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