クレア

漆喰装飾が見事なクレアのエインシェント・ハウス
サフォーク州にある可愛らしい町、クレア(Clare)は、サフォーク内で、ベリー・セント・エドモンズ(Burry St. Edmunds)、ラべナム(Lavenham)に次ぎ、3番目にリステッド・ビルディング(Listed building、歴史的価値があるとし保護されている建物)の数が多い場所であるとされます。が、その観光地としての知名度は、他の2つの場所に比べずっと低く、外国からの観光客などは、ほとんどいないのではないかと思います。私は、約9年前にここを訪れて、大変気に入り、先週、友人と、久しぶりに再訪してきました。

数ある歴史的な中世の建物の中でも、クレアの目玉は、15世紀に建設されたエンシェント・ハウス(Ancient House)。建物周囲の壁に施された漆喰装飾(pargetting)が見事。漆喰装飾自体は、家の建設の2世紀ほど後にほどこされたのではないかとされますが。内部は、ささやかなな地元の歴史に関する展示物のある博物館になっており、1ポンドの入場料で中に入りました。本当に小さく、展示の説明書きを全部くまなく読んでも、30分もあれば、全部見れます。受付のおじさんに、「車で来たの?」と聞かれ、「電車とバス。」と言うと、「それは、オールドファッションな方法で来たね!」と驚かれました。車社会ですから、こういう発言になるんでしょうね。私も、前回はだんなと車で来ましたし。確かに、サドベリー駅から、クレア方面のバスに乗ったとき、2階建てバスであったにもかかわらず、内部はからんとし、乗っていたのは、私たちも入れて、10人もいませんでした。ある意味、貸し切りバスのようで、いいのですが、みんな、もっとバスを使用してくれないと、そのうち、あまり使われないバス路線は打ち止めになってしまうのではないかと、心配にもなります。

エンシェント・ハウスから墓地を隔てた向かいが、町の教会、セント・ピーター・アンド・セント・ポール教会。

町のスワン・パブの、オークの木でできた看板は、イングランドのパブの看板で最も古いものといういわくつき。以前は、クレア城の中にあったものではないかとされます。


クレア城があった一帯は、今は公園となっています。こんもりとした小山の上にあるのが、ノルマン朝13世紀の石の城の塔の廃墟。この小山の高さは19,5メートルほどで、城の土台の小山にしては、結構高い方なのだそうです。

クレアの土地は、ノルマン人征服の後、ウィリアム1世の忠臣、リチャード・フィッツギルバート(Richard fitz Gilbert)に与えられ、リチャードは、この地に城を建てる権利も獲得。実際にいつ、最初の城が建てられたかは定かではないようですが、最初のものは木製であったようです。後、おそらく13世紀に石のものに建て直し。リチャード・フィッツギルバートは、他にもいくつかの土地をイングランドのあちこちに与えられていたものの、彼の家系はやがて、ここクレアから名を取り、クレア家、「ド・クレア、de Clare」と呼ばれるようになります。

城とクレアが最盛期を迎えるのは、11代目の女性領主エリザベス・ド・クレア(Elizabeth de Clare 1295-1360)、人呼んでレイディー・オブ・クレアの時代であったと言います。彼女の父の9代目クレア領主ギルバート・ド・クレアは、エドワード1世の娘ジョーンと結婚しているので、彼女は王家の血筋も入っています。クレアの10代目領主であった兄(父と同じ名のギルバート・ド・クレア)が、子孫を残さず、スコットランドを相手にした戦、バノックバーンの戦いで戦死してしまったため、クレアの地を継承し、女領主となるのです。3回にわたる政略結婚をし、最初の結婚は、なんと13歳の時!当時の貴族にはよくある話かもしれませんが。3人のだんなが皆、先に死んでしまい27歳で未亡人。それでも、それぞれのだんなとの間に、ちゃんと一子ずつもうけています。エリザベスは、1327年から1360年にかけては、クレア城を主な住居とし、城の修理増築に余念なく、また城のすぐわきにあった、クレア修道院の建物もいくつか増築。ケンブリッジ大学のクレア・カレッジも彼女により設立されたもの。

小山をくるりとまくような遊歩道を辿って登ってみると、残っている城跡と言えば壁だけ・・・です。エリザベス・ド・クレアの時代の活気に満ちた城の様子を想像するのは非常に難しいですが、廃墟の上には黄色の地に赤の3本の山の形の線が入った、クレア家の紋章の旗が翻っていました。

城は、17世紀初めには、すでに、旅行者の手記により、「廃墟」と描写されているそうです。また、ダニエル・デフォーも、18世紀初頭にクレアを訪れた際、「貧しい町で、汚い」というような事を記録しているのだとか。17世紀以降、しばらくの間のクレアの衰退はさておき、ここからの眺めはなかなか。

教会のある町の中心地区を望むと、こんな感じ。これを見ながら、ここでサンドイッチを食べ。

別のベンチには、お年寄りのカップルが陣取り、仲良く景色を眺めていました。

城の上から、公園内を望むと、以前当ブログに載せた、「電車の来ないプラットフォーム」という記事で紹介した、1960年代に廃線となるまで使用されていたクレア駅の駅舎と、線路跡のまっすぐな道が見えます。この城の跡地に鉄道を弾くために、土地の一部が、当時の所有者から強制買収されたのが、1860年。路線開通の1865年から、閉鎖の1967年まで、約100年の間、この景色の中を列車が走っていたわけです。同じように閉鎖された、サドベリーからの支線が走っていたラべナムを訪れた時も思ったのですが、この電車がまだあれば、海外からの観光なども、ぐっと簡単だったのに。

上の写真は、以前、近郊の電車博物館で見た、在りし日のクレア駅の写真。1960年の撮影となっていますので、廃線5年前。

最近は地方自治体などもお金がないですから、管理が滞っているのか、9年前に訪れたときは、きれいだった駅舎も、なんだか疲れた感じで、かつてのクレア駅で使用されていたものが飾られていた展示室も閉まっていました。もっとも、駅舎の中で、とんちんかんちん、何やら修繕している様子だったので、再び何年後かにやって来たときにはきれいになっていると期待して。

小山から降りた後、今度は、すぐそばの、クレア・プライオリー(修道院)へとむかいました。クレア修道院は、13世紀に、アウグスチノ派修道院として設立。ヘンリー8世の修道院解散により閉鎖後、土地は私有となりますが、第2次大戦後、1953年に、当時の所有者が、市価の15%の値段で、再びアウグスチノ修道会に売り戻して、現在、アウグスチノ修道院のイギリス内根拠地として使用されているとのこと。

木組みの古めかしいチャペルは趣があります。


学校は春休みですから、クレアの城跡のある公園は、それでも、家族連れやピクニックを楽しむ人たちが何人かいたのですが、こちらは、ひっそりと平和そのもの。修道院の廃墟とサフォーク・ピンクに塗られた修道士の館を眺めるベンチで、鳥の声だけを聞きながら、半日くらい本でも読んで過ごしたいような場所です。エリザベス・ド・クレアの母親ジョーン(エドワード1世の娘)は、この修道院内に埋葬されたのだという事。

ヤマブキがたくさん咲いていました。

現在も使われている教会は、内部はきれいに新しく改造されており、静かにお祈りをしている人が一人。

クレアは小さな町ですので、基本的に観光は半日もあれば済みますが、周囲にウォーキング用のフットパスも充実しており、こんなところでのーんびり2,3日散策しながら過ごしてもいいななどとも思います。バスの本数が少ないので、逃しちゃならんと、5分前には、町の中心部のバス停へおもむきました。

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