シェイクスピアの故郷、ストラトフォード・アポン・エイヴォン

ストラトフォード・アポン・エイヴォン(Stratford-upon-Avon)は、エイヴォン川沿いのストラトフォードの意。言わずと知れたウィリアム・シェイクスピアの故郷です。ちなみに、ロンドンの東部に、やはりストラトフォードという場所があるので、アポン・エイヴォンとつけると、区別がはっきりします。

コッツウォルズ観光をした後、更に北へ進み、このウォリックシャー州のストラトフォード・アポン・エイヴォンへたどり着きました。以前、ここへは数回来て、エイヴォン川沿いに建つ、ロイヤル・シェイクスピア劇場で、芝居も2回ほど見た事があるのです。これも、かなり昔の話で、何を見たのか・・・覚えていない!

駐車場に車をとめ、私と、だんなと、母親で、町の中心地へぽこぽこ歩く途中、アンケートボードの様なものを抱えた、高校生風の男の子に呼び止められ、聞かれました、「すいません。何が目的でストラトフォードに来たのですか?」私は「観光。」すると、男の子はちょっと困った顔をして「えーーーと。」別の、やはり、アンケートボードを抱えた男の子が近寄ってきて、ひそひそと、「何だって?シェイクスピア?」私は、ああ、そういう事か、具体的に何が目的で観光に来たのか知りたいわけね、と気づき。「そうそう、シェークスピアよ。シェークスピア。」最初の男の子は、ホッとした感じで、ボードの上の紙に鉛筆で印をつけ、「サンキュー!」それを横で眺めていただんなは、「GCSE(イギリスの高校レベルでの試験)は、そんなに簡単にはいかないぞ。」と、茶化していました。男の子たちのアンケートの結果は覗き込みませんでしたが、ここは、圧倒的にシェークスピアのおかげで食べている町でしょう。だって、その他に、何が目的で観光に来る人がいるのか?白鳥?

ウィリアム・シェイクスピアの生まれた年と死んだ年は、「人殺しいろいろ。」と覚えるのだ、と母親が、それは何回も道中、繰り返していました。1564(ひとごろし)年~1616(いろいろ)年・・・なるほどね。エリザベス1世、そして、ジェームズ1世の時代を生きた人です。

ヘンリー・ストリートにあるシェイクスピアの生家。(一番上の写真は、家の裏側からのもの。)なかなか立派な家なのです。

皮手袋職人であった、お父さんのジョン・シェイクスピアは、メアリー・アーデンと結婚する直前に、この家を購入。市議会のメンバーともなり、ウィリアムが4歳の時には、ストラトフォードのメイヤー(市長)にまでなった人物。陰で、不法な羊毛の売買や、高利貸的な行為にも携わり、かなりの金を儲けていた様です。政府が、大切な羊毛の不法売買の取締りを強化し始めた結果、ウィリアムが12歳のときに、父は財産を失い、やがては、地元の有力者としての地位も無くすのです。借金に追われ、徐々に所有していた土地も売り払い。

父の破産により、ウィリアムは、7歳から通っていた学校を14歳で出ると、大学へ入ることは断念する事となります。それでも、当時の学校(グラマースクール)、お昼時間を除けば、朝の6時くらいから夕方5時半までと、かなりの過密スケジュール。ラテン語と文法、宗教が重点で、この子供時代のグラマー・スクールでの教育がなかったら、文豪シェイクスピアは存在しなかったかもしれません。詩を読む事なども、学校の教師により奨励されたようです。

18歳で、アン・ハサウェイとできちゃった結婚をした後、ウィリアムの家族も、両親と共に、このヘンリー・ストリートの生家に住んでいたそうです。その2年後に、二人の間には双子が生まれているので、更に、家はぎちぎち。大学にも進めず、結婚してしまったため、職人として弟子入りする事もできず、一家を支えるための職探しも、大変だったのでしょうか、結婚後、約10年間のウィリアムの消息ははっきりわからないのだそうです。色々、あれやこれやと生計をたてるため試みたのかもしれません。ランカシャー州で、教師などをした後、やがて、女王お墨付きの劇団が、ストラトフォードを訪れた際、それに参加し、地方を回った後、やがてロンドンへ趣き、そこで役者と芝居作家としてのキャリアをはじめたという説があります。

プロテスタントの国となったイングランドで、シェイクスピアの家は、昔ながらのカソリックの傾向があり、実際、母メアリー・アーデンの出た、アーデン家の親戚に当たる、エドワード・アーデンは、プロテスタントのエリザベス女王を暗殺する計画をたてた疑いをかけられ、逮捕、処刑されています。

ロンドンで大成功を収めたシェイクスピアは、やがて、ストラトフォードで2番目に大きかったという家(ニュープレイス)を購入。ロンドンの舞台から半引退をした1613年には、ニュープレイスに移り住み、1616年に死去。死の原因ははっきりわからないらしいですが、飲み好きの舞台人のこと、ベン・ジョンソンなどと一緒に、前の晩に大酒を飲んで、その後、熱を出し死んでしまったと言うのが、わりと信憑性がある説として信じられているようです。52歳。

彼の死の数年後、劇団仲間の友人何人かが協力して、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲36作をまとめて出版。世にファースト・フォリオと呼ばれるこの全集のおかげで、彼の名と作品は不滅のものとあいなるのです。(ファースト・フォリオとそれをまとめた貢献者たちへの記念碑は、ロンドンのシティー内で見ることができます。こちら。)そして、今でも、世界各国から、ストラトフォード・アポン・エイヴォンに人がやって来る。

シェイクスピアの生家は、18世紀後半まで、シェイクスピア家の子孫が住んでいたようですが、19世紀前半には、ぼろぼろとなり、やがて、売りに出される事となります。チャールズ・ディケンズを初めとした著名人物達が、シェイクスピアの生誕地の大切な建物を守ろうと、一大キャンペーンを展開し、シェイクスピア・バースプレイス・トラスト(シェイクスピア生誕地保存協会)を設立し、資金を集め、1847年に、協会は、めでたく生家を購入。現在、観光客が内部見学をできるのも、このおかげ。

さて、話を、今回の旅行に戻します。シェークスピアの生家の、隣の建物内のチケット売り場は、行列が出来ており、学校の団体なども目に付きました。私は以前、ここへは入ったこともあるし、母親も、「こういう古い家は、一つ入れば、皆同じ。」などと、行列してチケットを買う熱意もないようなので、外側からだけ眺めて、代わりに、後で、奥さんアン・ハサウェイのコテージにでも入ろうという事で、とりあえず、エイヴォン川へむかいました。

川の側に建つシェークスピアの像。フォルスタッフ、ヘンリー5世、マクベス夫人、ハムレットの像に囲まれています。

白鳥が沢山のエイヴォン川。劇場の脇の船着場にやって来たとき、調度、40分の遊覧ボートが出るところだったので、乗り込みました。歩きたくない80歳を連れていると、こういうのが一番。以前来たときは、友人と漕ぎボートに乗ったのですが、非常にボート漕ぎが下手な人で、あの時は、ほぼ同じ場所を、白鳥に馬鹿にされながら、ぐるぐると円を描いて回っていて、時間切れとなった記憶があります。私は、全く漕げないのでえらそうな事を言っていられないのですが。今回の遊覧ボートでは、そんな心配もなく、観光客で込み合った中心地から離れた、のんびりした風景を楽しむだけ。

生まれたばかりのシェイクスピアが洗礼を受け、また彼の墓もあるホーリー・トリニティー教会。この教会を越すと、船はすぐ引き返して反対方向へ進み。

橋を越えてしばらく行くと、片側に立派な家がいくつか立ち並び、片側はまるで田舎の草原。遊覧が終わった後は、ささっとロイヤル・シェークスピア劇場のロビーを覗いて、駐車場へと戻りました。町内の他の観光は一切無し。駐車場へ戻る道を忘れて、右往左往した以外は!

教会内部も見なければ、シェイクスピアの隠居した家ニュープレースの跡のある庭園、シェイクスピアの孫娘が夫と住んだナッシュの家、シェークスピアの娘スザンナが医師の夫ジョン・ホールと住んだホールズ・クロフトなども見ずに。個人的には、ちょっと残念でしたが、まあ、今回は、親孝行が一応目的であったので、「雰囲気を楽しむだけでいい。町中を歩きたくない。」と言われれば、仕方ない。時間も無かったし、じっくり、全部見たかったら、もっと余裕を持って来ないとだめですね。シェイクスピアで食べている町、と書きましたが、本当にそうです。上に並べた観光名所も、すべて、シェイクスピアになんらかの関わりがあった人物の住んだ場所ですから。

ここから、また車で、少しだけ離れた、アン・ハサウェイのコテージへと向かいました。

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