ジャッカルの日

フレデリック・フォーサイスによる同名小説の映画版です。

1954年から1962年にわたるアルジェリア独立戦争。フランス領アルジェリアには、100万人以上のフランスからの移住者(コロン)が住んでおり、彼らが事実上アルジェリアの政府を牛耳っていました。そこへ、約900万人のアラブ人とベルベル人が、FLN(民族解放前線)に率いられ、フランスからの独立を求めて武力活動を開始。コロンは当然、独立に反対、フランス軍内やパリ政界内にも、独立運動を阻止しようとするコロンへの共鳴派は数多く、フランス政府は、しばらくFLNによるゲリラ活動や戦闘に、武力鎮圧を試み、双方、多くの死者負傷者を出すのです。

このアルジェリア問題をめぐって、フランス政府は困難に陥り、1958年5月、10年以上、政治のセンターステージから離れていたシャルル・ド・ゴールが事態解決のために政界へ帰り咲き。同年6月にフランス第4共和制の首相となり、翌年には、フランス第5共和制の初代大統領となります。

当初、ド・ゴールは、アルジェ独立に、反対するものとの期待をかけていたコロンは、1962年3月に、大統領がアルジェリア独立を承認したことに激怒。7月には、アルジェリアは独立国となります。アルジェ在住だった大半のコロンたちはフランスへ戻る事を選択。うち、強硬派コロンたちは、裏切り者ド・ゴールへの復讐に燃え、彼らがうちあげたOAS(秘密軍事組織)は、ド・ゴール暗殺を企てるのです。

と、前置きが長くなりましたが、ここまでが、映画の背景事実。「ジャッカルの日」は、1962年8月22日に、実際にフランス郊外で起こったド・ゴール夫妻暗殺未遂事件で始まります。このさいに発射された銃発は、128発。ド・ゴールと夫人を含め、奇跡的に一人も怪我を負わずに、車で超スピードで逃げ切り、助かるのです。この暗殺事件に加わったものは、6ヵ月後に処刑という強硬措置。映画のこれ以後の話は、フィクションとなります。

暗殺未遂の後、OASの主要メンバーは、外国からプロの殺し屋を雇い、さらなるド・ゴールの暗殺を謀ることに。そして、彼らが選ぶのは金髪青い目のイギリスの上流風いでたちの青年、コードネームはジャッカル(エドワード・フォックス)。

OASのメンバーのひとりは捕えられ、拷問により、大統領暗殺の計画があること、コードネームがジャッカルであること、外人の殺し屋であること、の情報が搾り出される。政府にとって、公式行事のスケジュールを一切変更しようとしない頑なな大統領は頭痛の種である上、また、全ての調査を極秘で続ける必要があり、腕利き調査官クロードが、ジャッカルのアイデンティティーと、その行動を追うことを任命される。こうして始まる、クロード率いる調査側ととジャッカルの知恵比べ。調査側にとっては、必死の時間との戦いともなります。

途中、イギリスで発行されたパスポートのアイデンティティーがばれ、髪を染め、めがねをかけ、予備に用意してあったパスポートでデンマーク人としてパリ入りするジャッカル。彼は、8月25日の、ナチスドイツからのパリ解放を祝う式典に参加予定のド・ゴールを暗殺に成功するのか・・・。

このジャッカルという人物像は最後の最後まで、実際何者であったのか、本当にイギリス人であったのか、本当の名は何だったのかは、謎に包まれたまま終わります。性格もまるで機械的で、他人に対する愛着等は一切持たないのです。一夜を共にした人妻も、パリで家へ泊めてくれた男性も、自分の素性がばれそうになると、ためらいなく、さっさと始末。まあ、プロの殺し屋は、一々、情にほだされていたら生計立てられないわけですが。

当時は、先進国も、拷問などを使って情報を得ることが、まだ平気だったのですね。それほど、おおっぴらにはできなかったでしょうが。また、時代を感じたのが、イギリス側で、ジャッカルに発行されたパスポートの名を調べる作業で、まだ、コンピューター化などがされていないので、全て書類をめくって調べる手作業だったこと。「ホリデーシーズンだから、数が多くて大変だ」のような事を言いながら、それでも、まだ、今に比べれば、パスポート発行数もぐんと少なかったでしょうから、なんとか探し当てる事ができたわけです。

はらはら、どきどき面白い映画でした。

原題:The Day of the Jackal
監督:Fred Zinnemann
言語:英語
1973年

*ド・ゴールとイギリスの因縁の関係

ド・ゴールは、イギリスでは、戦時中に、亡命政府「自由フランス」のリーダーとして、英米に助けられながら、とんだ恩知らずで、愛国心過多、フランスの力を世界に広げるだけが目的の、お騒がせ人物と見られることが多いです。だだをこねて、周りに問題を撒き散らす、典型的フランス問題児の権化の様な存在。非常にプライドが高く、柔軟性に欠け、扱いにくい人物であったようで、第2次大戦中、チャーチルとルーズベルトは、彼への応対に閉口し、ド・ゴールは、ド・ゴールでこの2人、ひいてはイギリスとアメリカに邪険に扱われたと、根に持ったようです。

そして、イギリスがEECのメンバーになろうとした1963年、ド・ゴールは、復讐の時がやってきた、と言わんばかりに、それを阻止。「イギリスのお友達は、アメリカと、イギリス連邦諸国じゃないの?ヨーロッパのクラブには、入れてやらないもんねー!」という感じでしょうか。これは、いけずです。1967年に、イギリスが再びメンバーシップを得ようとすると、また、ド・ゴールが、「イギリスを入れるなら、フランスは出て行く」と大騒ぎして阻止。イギリスがやっと、EECメンバーとなるのは、ド・ゴールが去った後、ポンピドゥー大統領の時の1973年。非常に親ヨーロッパであった、時の英首相エドワード・ヒースの念願の達成となります。

1961年に、EECのメンバーシップに関する話し合いで、ド・ゴールが、時の英首相ハロルド・マクミランの田舎の自宅を訪れた際、首相宅周辺は、イギリスとフランスの警官で囲まれ、ド・ゴールは暗殺されそうになった場合のため、輸血用の血をどっさり一緒に運び込み、マクミラン首相は、その血液保存用に特別の冷蔵庫を用意せざろうえなかった、という逸話を読んだ事があります。

やれやれ・・・。こういうお騒がせ人物に限って、運が良かったりするものです。

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