パッセンジャー


ジェニファー・ローレンス、クリス・プラット主演の、2016年の映画「Passengers、邦題:パッセンジャー」は、公開された当時、新作映画紹介番組を見て、「なんか、くだらなそうだな」と思った記憶があります。もともと、CGをたくさん使った宇宙ものがあまり好きでないのも手伝い。ジェニファー・ローレンスのつるっとした顔は結構好きなのですが。

この映画が、ちょっと前に、テレビで、たまたまかかっていたのを見たのですが、思ったより良く、SFとしてより、人間ドラマとして面白かったです。そして、今の新型コロナの日々へのはげましにもなるような、映画の底辺のメッセージが気に入ったので、ここにちょっと載せておくことにします。

基本的には、男女が恋に落ち、その後、2人の間に争いが起こり、最後に、争いを乗り越え結ばれる、という典型的ラブ・ロマンスのパターンを踏んでいます。

簡単なストーリーは、

映画の舞台は、地球を出発し、新しい惑星での植民を始めるための、乗客5000人を乗せた宇宙船。新惑星まで宇宙船が到着するのに120年かかるため、乗客たちは、到着5か月前に目が覚めるように設定されている、カプセルホテルの様な、それぞれの睡眠ポッドの中で、すやすや。

ところが、このうちの一人の、技師であるジムの睡眠ポッドが異常を起こして、ジムは、到着まで90年あるというのに、目を覚ましてしまう。一人だけ、目的地に着かずして、宇宙船の中で生きて死ぬこととなる運命に、怒り、絶望、諦めを感じるジム。彼の唯一の話し相手は、船内のバーで働くアンドロイドのバーテンダー、アーサー。(このマイケル
・シーン演じるアーサーが、本当にアンドロイドと思えるような顔つきと表情で、人間とも機械とも言い難い不思議な感じをかもし出していました。あれは、メークのせいか、演技の賜物か。)

孤独の日々の中、ジムは、ある日、睡眠ポッドに眠る美しいオーロラに恋してしまう。(オーロラって、「眠れる森の美女」のお姫様の名前ですね。)彼女の履歴を調べ、作家とわかり、彼女が植民地についてから、そこでの生活などを書き綴る抱負などを語るビデオなども観ているうちに、ますます惚れ込み、彼女の目を覚まさせようか、でも、そうすると、彼女の惑星での新生活の夢を壊すことになると、もんもんと悩む日々。アーサーまでに、悩みを打ち明けながら、ついに、耐えきれず、彼女のポッドを開けて、起こしてしまう。

ジム同様、最初は、早く目覚めてしまったという恐怖とパニックのオーロラも、やがて、ジムと恋仲になり、それなりに楽しい日々を送るようになる。が、ある日、アーサーがオーロラに、オーロラが目覚めたのはポッドの故障のためではなく、ジムが故意に開けたのだという事を喋ってしまい、自分の人生を奪った人物として、オーロラのジムに対する怒りが爆発。二人は機内で別生活を送るに至る。

そのうちに、機内に異常が起こり、このままでは、宇宙船は目的地に着く前に乗組員全員が死亡する事がわかる・・・そこで、技師であるジムが大活躍。(このあたりの詳しい事はめんどうなので省きます。ここの部分、ちょっと退屈して、紅茶作るのに立ち上がったりしましたし。)無事に危機を免れ、宇宙船を修理した後、ジムは、一人だけ、再びポッドに戻すことができるとオーロラに告げ、オーロラに眠りに戻るように勧める。が、彼女は、惑星での新生活を捨て、愛するジムと、宇宙船で終わる人生を選択する。

90年後、乗客たちが、次々にポッドから目覚めた時、船内は、ジムとオーロラが植えた木で包まれ、乗客たちは、もういないオーロラからの船内アナウンスを聞き、彼らの物語を知るところでジ・エンド。

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オーロラは、宇宙船に乗り込んだときは、自分の目的であったはずの、新惑星での生活を、作家として記録することを、宇宙船という限られた空間内で終わる日々を満喫し、それを綴るという人生に置き換えたわけです。最初は、状況により強制的に、最終的には自由意志で。


ちょっと別の映画の話に飛びます。邦画の「おくりびと」(英語のタイトル:Departures)で、もっくん演じるチェロ奏者が、所属する楽団が解散となり、無職となってしまった時、田舎で新しい生活を模索するため、高価なチェロを手放すシーンがありました。「人生最大の分岐点を迎えたつもりだったが、チェロを手放したとたん、不思議とらくになった。今までしばられていたものからすーっと解放された気がした。自分が夢だと思っていたものは、多分、夢ではなかったのだ。」という、この時の主人公のナレーションが、私には、この映画で一番記憶に残っているものです。

人間は、人生に意味を見つけたいので、生きがい、夢、目的を持つ。何かの影響や、状況の変化で、それを取り上げられてしまった時、どうすればいいのか。新しい状況に対応して、今までの固執観念を捨てる、価値の再判断をする、そして新しい道を探す。それまでの夢にしがみついていると、不幸な人生を送ることになりかねない。これは、ごく世俗的なところでは、失恋なんかもそうでしょう。ふられた男や女の事を思って一生過ごしますかって?そのまま、人生のリセットボタンを押しそこなうと、小説「嵐が丘」のヒースクリフのようになってしまう。

夢と信じていたものを手放すことによって、より多くの可能性や選択肢が広がってくることもあり得ますし。あるものを諦めるというのは、ある意味、心を開放する事であり、やがてはそれが幸せにつながるのかもしれません。

小説「赤毛のアン」の1作目の最後もそんな感じですね。高等教育へ進もうとしていたところへ、育て親のマシューが突然死んでしまい、残されて目が悪くなっているマリラを助けるため、一時的に、進学を断念し、家のきりもりと、学校の先生で金を稼ぐ事に決めたアンが思うのが、「まっすぐだと思っていた道が曲がってしまった。でも、曲道にもそれなりの魅力がある。そして、進んでいく道が狭くても、道端にはきっと花が咲いている。」

何らかの理由で軌道からはずれてしまい、予定外であった、曲道、小道を歩くことになった時、その場その場で遭遇するものを楽しめる能力が、サバイバル能力でもあるのでしょう。

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