ロンドン・ナショナル・ギャラリーで輝くゴッホのひまわり

生きている間は、絵が1枚しか売れなかったヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent van Gogh、オランダ風発音はフィンセント・ファン・ゴッホ)。彼が、1890年7月に銃で自殺した6ヵ月後の1891年1月、彼の芸術生活を支え続けた、アート・ディーラーであった弟、テオ・ヴァン・ゴッホ(Theo van Gogh)が、後を追う様にして33歳で死亡。ヴィンセントも梅毒患者であったようですが、テオも、大切な兄に死なれたショックと、梅毒が原因の病気によるものだったそうで、死の直前は気が狂ってしまったとか。梅毒は、この時代にはよくある話だったようですが。

テオの死後に残った数多くのヴィンセントの絵。これらの絵画たちが、この段階であちこちにバーゲン価格で売り飛ばされたり、処分されてしまっていたら、今、フィンセント・ファン・ゴッホの名を知る人の数はほとんどいなかったかもしれない・・・。ゴッホの絵が、世界に知れ渡り、19世紀絵画の巨匠として知られるようになった過程のドキュメンタリーを見ました。

テオ亡き後、残されたのは、テオの妻、ヨハンナ(ジョアナ)・ボンゲル(Johanna Bonger)と、やはりヴィンセントと名づけられた幼い息子。ヨハンナは、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホと実際会ったのは、わずか数回にかかわらず、夫が大切にしていた兄と、その絵画が、世界的に認められるようにする事を心に誓い、生涯を通してゴッホの絵画の保管者となります。彼女の住んだオランダのアパートの壁は所狭しと、ゴッホの絵画で埋め尽くされるのです。

絵画のディーラーの世界には、ほとんど無知だったヨハンナですが、すばやく、絵画宣伝に関する知識を身につけ、ゴッホの絵画に、生前から感銘を受けていた芸術家達に連絡を取り、ゴッホの絵を、あちこちのディーラーや博物館に貸し出し、アムステルダムで彼の展覧会を開き。また、数あるヴィンセントとテオの間の手紙を整理して、ゴッホの絵画の背景を説明する大切な鍵として、これらの手紙も徐々に発表。このため、苦悩の天才ヴァン・ゴッホの生涯のストーリーも、絵と共に世に浸透していくのです。

ヨハンナの手を通して、約200の絵画が、その芸術的価値を理解してくれるような人物達に徐々に売られていきます。このころは、まだ、現在のような目玉飛び出るほどの価格ではなかったのでしょうが。こうして10年後には、すでに、ゴッホの偽物などが出回り始めるまでの名声を納めたというのですから、かなり腕利きです。こんなことなら、ゴッホの生前から、宣伝を彼女に任せればよかったのに!特に、ゴッホのひまわりの絵シリーズは、初期のうちから人気となり、「ゴッホ=ひまわり」の方程式が確立されます。

その一連の「ひまわり」(Sunflowers)絵画の中でも、本人はもとより、ヨハンナのお気に入りでもあったのが、ロンドン・ナショナル・ギャラリー(National Gallery)蔵の、黄色の背景のものです。この絵のある部屋に踏み込むと、絵から黄金の南仏の太陽が、光り輝いているように見えるのです。

ゴッホがキャンバスにひまわりを描く事11枚。4枚は、咲き終わった後のひまわりの頭のみを並べたもの。7枚は、花瓶にささったもの。

ひまわりの頭だけを描いた4枚は、パリでの作品。我が家の庭で巨大に育っていたひまわりも、もう終わりです。頭を切って、ゴッホのパリ時代の絵風ににちょっと並べてみました。こうして見ると、彼が、絵の題材として面白いと着目した気持ちがわかります。

これらが、尊敬していたポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)から褒められた事にぽっとなり、ゴッホは、南仏アルルで、ゴーギャンを招いて芸術家コロニーを作るアイデアを思い立つのです。ゴーギャンに相談する事も無く、そそくさとパリを去りアルルへ。アルルで、イエロー・ハウスと称される貸家を見つけると、即座にゴーギャンに誘いの手紙を書き、ゴーギャン到着の前に、ゴーギャンの部屋に飾るため、また、彼に見せるため、子供の様に、大はりきりで、いくつものキャンバスを仕上げます。

こうしてゴーギャンの到着を楽しみに待つ、1888年の夏に、花瓶にささったひまわりを4枚描き、2枚のみを、満足いくものとしてサイン。そのうちの1枚がナショナル・ギャラリーのもの。もう一枚は、水色の背景のもので、こちらは、現在はミュンヘンのノイエ・ピナコテーク蔵(上の絵)。

ちなみに、この時に描かれた、サインされていないもののひとつは、背景は濃い青色をし、オレンジの額に縁取られたものでしたが、こちらは、日本人により1920年代に購入されるのですが、第2次大戦中に米軍の爆撃により、消失・・・あーあ。もう1枚のサイン無しのものは、今は個人蔵。

ひまわりは、もともと、南米のペルーから1560年代にヨーロッパに持ち込まれた植物なのだそうで、半分ペルーの血が入るゴーギャンには、うってつけのウェルカム。また、ひまわりは、太陽(神)を追うことから、オランダでは、崇拝と信仰の意味もあるとか。尊敬していたゴーギャンへ心をこめて描いたのでしょう。

10月に、ついにアルルに現れたゴーギャンは、やはりナショナル・ギャラリーのひまわりを一番気に入ったようです。ところが、いまや有名な、性格不一致の大喧嘩、耳きり事件で、ゴッホの芸術家コロニーの夢は、年の明けぬうちに無残に崩壊。「こんな反狂人と住んでおられん」と去っていた後になってから、ゴーギャンはゴッホに手紙で、ナショナル・ギャラリーのひまわりを指して、「あのひまわり頂戴」なんて、ちゃっかり頼むのです。ゴッホは、これは断ったものの、妥協として、「同じ絵のコピーを2枚描くつもりだ」と返答。こうして、翌年1月に、ナショナル・ギャラリーのひまわりの複写2枚が描かれます。これらは、現在は、それぞれ、アムステルダムのゴッホ美術館と日本の損保ジャパン東郷青児美術館蔵。さらには、ミュンヘンのものの複写も、同時期に1枚完成(米フィラデルフィア美術館蔵)。

ナショナル・ギャラリーが、このヴァン・ゴッホの一番有名なひまわりを購入するのは、1924年の事です。最初に、ナショナル・ギャラリーが、この絵の購入をめぐって、ヨハンナに連絡をとった時の、彼女の反応は、「これは、どうしても売りたくない。」彼女には、30年以上、毎日眺めてきた、大切な、一番好きな絵であったのです。が、有名美術館の壁にかかり、多くの人々に見てもらう事で、巨匠フィンセント・ファン・ゴッホの栄光が、将来的に確実なものとなると考え直し、ついに手放す事を決心。ゴッホ自身も、そう望むに違いないと。ゴッホは、ロンドンにも住んだ事があり、ゆかりもあるわけですし。ヨハンナは、「ひまわり」がナショナル・ギャラリーに売られていった翌年に亡くなっています。彼女の死後、残った絵のほとんどは、アムステルダムのゴッホ美術館へ。

ナショナル・ギャラリーの「ひまわり」の絵の前に立ったときに眺めるのは、ゴッホがそして、ゴーギャンが、更に、彼を有名にしたヨハンナが、やはり眺めて愛した絵画。そう考えると、更に、生き生きと語りかけてくるように見えてくるのです。館内ショップでの、絵葉書を含む、ゴッホのひまわりグッズは、ナショナル・ギャラリーの一番の稼ぎ手でもあるそうです。

フィンセントと弟テオの手紙のやり取りを基にして、1934年には、「Lust for Life」(生への欲望、邦題:炎の人ゴッホ)という伝記が米作家アーヴィング・ストーンにより発表され、人気をはくします。これは、後にカーク・ダグラスがゴッホ役で主演、アンソニー・クインがポール・ゴーギャンで映画化されています。この中のダグラス、かなりの大げさ演技ですが、顔は、ゴッホの自画像にかなり似ているのです。

毎日のようにキャンバスに向かい、ばさばさと描く。食うのも忘れ、他の事はさておき。ひたすら、人生を投じて、寝ても覚めても、ひとつの事に専念するというのが情熱なら、それは、確かに狂気に近いものがあるやもしれません。「私の生きがいはこれ」、「私の人生で一番大事なのはあれ」、と人は色々口にしても、ここまでの情熱は、なかなか降り注げないものです。だから、悲劇ではあっても、彼の人生に心惹かれる人は多いんでしょうね。ほとんどの人間が感じることの無いようなに情熱を体現して、焼け落ちた人だから。こんな人生大変だろうと思うし、また、実際、こういう人が周りにいたら、かなりお騒がせで、迷惑蒙る事もありましょう。でも、皆、彼の世渡りのぎこちなさに愛しさを感じ、心のどこかで、ゴッホの生き方に、ある一種の羨望感もあるのかもしれません。

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