薩英戦争から始まる薩摩とイギリスの友好関係

 On the 14th September a most barbarous murder was committed on a Shanghai merchant named Richardson.  He, in company with a Mrs Borradaile of Hongkong, and Woodthorpe C. Clarke and Wm. Marshall both of Yokohama, were riding along the high road between Kanagawa and Kawasaki, when they met with a train of daimio's retainers, who bid them stand aside.  They passed on at the edge of the road, until they came in sight of a palanquin, occupied by Shimadzu Saburo, father of the Prince of Satsuma.  They were now ordered to turn back, and as they were wheeling their horses in obedience, were suddenly set upon by several armed men belonging the train, who hacked at them with their sharp-edged heavy swords.  Richardson fell from his horse in a dying state, and the other two men were so severely wounded that they called out to the lady: "Ride on, we can do nothing for you." She got safely back to Yokohama and gave the alarm.

Chapter V from "A Diplomat in Japan" by Ernest Mason Satow

(1862年)9月14日、極めて残虐な殺人事件が、上海の商人であるリチャードソンなる者の身の上に降りかかった。彼は、香港に居を持つボロデール夫人、横浜在住のウッドソープ・C・クラークとウィリアムマーシャルと共に、神奈川から川崎へと向かう街道を馬で通行していた。その折、大名行列に出くわし、行列のお付きの者たちが、彼らに、脇によけ止まるよう命じた。彼らは、薩摩藩主の父、島津三郎(島津久光)の乗るかごが見えるところまで、道の端を進み続けたが、そこで、引き返すように命ぜられた。そうして、彼らが、それに従い、馬を逆方向へ向けようとしているところを、いきなり、行列の中にいた、数人の武装した男たちに襲い掛かられ、鋭く重い刀で切り付けられたのだ。リチャードソンは、瀕死の状態で馬から落ちた。他の2人の男性も深い傷を負ったため、夫人に「あなたを助けることができないので、馬を飛ばして、逃げなさい!」と叫んだ。夫人は、無事に横浜にたどり着き、事態を通報した。

「日本における一外交官」アーネスト・メイソン・サトウ、第5章

城山から望む桜島

1862年9月14日に起こった、世にいう「生麦事件」です。襲われたイギリス人4人のうち、リチャードソンは死亡、男性二人は重傷を負いながらも命は助かり、女性は無傷で助かります。この事件をめぐって、イギリスと薩摩藩の間で、後に起こるのが、薩英戦争。英語では、一般に、Bombardment of Kagoshima(鹿児島の砲撃)と呼ばれています。

今回の日本旅行で、鹿児島を訪れた事もあり、かなり前に読んだ、アーネスト・サトウ氏の本を引きずり出して、薩英戦争に関する部分などを読み返してみました。幕末と明治維新いう日本にとっては、重要な過渡期に日本で駐日英国公使館の通訳として過ごしたサトウ氏の当時の日記がもととなる、この本は、イギリスから見た、波乱万丈の事態を追う、貴重な資料です。時の著名人にも沢山、会っています。

サトウという苗字から、「なんだ、お父さんは日本人?」なんて感じもしますが、彼はドイツ系のイギリス人。18歳の時にたまたま読んだ、ローレンス・オリファント著のエルギン卿が中国日本へ派遣された際の記述を読み、日本という国へ行きたいという夢が膨れ上がってしまったといいます。そして、大学で、日本への通訳生募集の広告を見、ここぞとばかりに応募。アーネスト・サトウは、写真を見る限りにおいては、なかなか、美男子!本の背表紙には年を取ってからの写真も載ってますが、こちらも渋くていい感じ。😀(おっと、脱線。)

生麦事件に関して、サトウは、最初にニュースを聞いたときも、さほど驚かなかったとしています。当時の日本で、外人に対するこうした殺傷事件があるというのは、わかっていたし、それを覚悟でやって来て任務についているのだから、ある意味、外人殺傷事件は日常茶飯事であると、彼はとらえています。また、そうした感覚が、後、普通だったら危機を感ずるような状況に遭遇しても冷静を保っていられた理由であると。実際、彼は、薩英戦争の最中にも、鹿児島湾にいた、英国艦隊の船のひとつに乗っていて、砲撃を受けていますし。

生麦事件の事後、イギリス側(当時のイギリス代理公使ニール)は、幕府から賠償金10万ポンドをゲット。それとは別に、薩摩藩からも、犯人の裁判と処刑、賠償金2万5千ポンドを請求。薩摩藩が「うん」と言わぬため、イギリスは7隻の艦隊で鹿児島湾に乗り込んでいきます。戦力をちらつかせて圧力をかけるのが目的で、戦意はなかったようなのですが。

1863年8月15日、要求になかなか応じようとしない薩摩藩にしびれを切らし、イギリス側は、朝、薩摩藩所有の汽船3隻を拿捕。これが、薩摩藩に戦いの火ぶたを切らせるきっかけとなります。鹿児島の海岸線にいくつも据え付けられていた砲台から、イギリス艦船へ向けての砲撃が開始。直後に、イギリス側は拿捕した汽船を焼き払う報復手段に出るのですが、焼けてしまう前にと、船乗りたちは、船内のものを色々かっぱらい、サトウ氏も、ちゃっかり、火縄銃と陣笠をゲットしたとあるのが笑えます。とにかく持ち運べるものは何でも略奪され、お金を見つける者、グラスなどを持っていく者、古いむしろを持って行った船乗りまでいたとか。薩摩の攻撃に対する直接の反撃は遅れ、

サトウの手記によると、

It was said that the tardiness of the flagship in replying to the first shot of the Japanese (two hours ) was due to the fact that the door of the ammunition magazine was obstructed by piles of boxes of dollars, the money paid for the indemnity being still on board.

日本側からの最初の発砲に対する旗艦の反撃が(2時間)遅れたのは、弾薬の倉庫を開けるドアの前に、幕府から受け取った賠償金のドル箱が山積みにされ邪魔になっていたことによるという話だ。

艦隊には、薩摩の大砲よりも射程距離がずっと長いアームストロング砲が備わってはいたものの、不意打ちを食らったうえ、天候は嵐、なかなか、反撃にてこずった模様。さらには、旗艦ユーリアラス号は爆撃を受け、艦長を含めた数人の死亡者を出しています。

やがて、イギリス側は、反撃に出、鹿児島の城下町の襲撃を行い、折からの風にあおられ、多くの建物が焼失したようです。

翌16日朝には、命を失った船員の水葬が行われ、再び、遠くから町への砲撃。日本の大砲は射程距離が短く(イギリスの約4分の1の射程距離)、遠巻きにしていたイギリス艦隊まではとどかなかった模様。

17日、艦隊は横浜へと移動。鹿児島湾を出るまでの間、薩摩の砲撃はまだ続いていたものの、やはり標的には届かず。

こうした3日にわたる戦いの後、イギリス艦隊は横浜へ到着します。

サトウは、同年10月に、今度は、やはり乗馬していたフランス人が切り殺されるという事件を報告しています。この際、死体から少し離れたところに、切り落とされ、まだ手綱を握ったままの右手が落ちていたとし、刀という武器の恐ろしさを描写しています。こちらの犯人は見つからず。・・・彼によると、生麦事件のように、偶然に起こる外人殺傷事件というのはほとんどないという事で、犯人は、自分の素性がわからぬよう綿密に計画するのが常、という事。

のち、11月に、薩摩藩との講和が成立。薩摩藩は、犯人は見つかっていないが見つかり次第処罰という公約を行い、幕府から借りた金で賠償金の支払い。この、「犯人が見つかっていない」というのは、嘘であったわけですが、イギリス側も、嘘であろうとわかっていながら、その辺は目をつぶって、講和に応じたようです。また、薩摩藩による幕府からの借金は・・・返却されることなく、踏み倒し!

鹿児島城

不思議なのが、これを機に、薩摩とイギリスが仲良くなってしまう事。薩摩は、日本よりも優れたイギリスの軍事力を見て、争うより仲良くして知識吸収する、イギリスからの船や武器の購入を行う、事に意義を見出し。

後、イギリスは、1年後の、1864年夏の下関戦争で争った長州藩とも仲良くなっていき、幕府側と親しくするフランスと反対のポジションを取るわけです。ライバルのフランスが幕府に近づいていたから、イギリスが反幕側についたというのもあるのか、純粋に、弱体化し、優柔不断、影響力を失っている幕府にいらつき、反幕側の気骨に期待をかけ、その方が貿易がスムースに行くと思ったのか、その辺は、微妙。

サトウ曰く、

...neither the Satsuma nor the Choshiu men ever seemed to cherish any resentment against us for what we had done, and during the years of disturbance and revolution that followed they were always our most intimate allies.

薩摩も長州も、我々の行為に対して、いっさい、憎しみを抱き続けることないように見え、不穏な日々と後に来る革命の間、彼らは、常に、我々の最も親しい友であった。

城山を背景にした西郷隆盛像

当然、サトウ氏は、西郷隆盛にも何度か会っており、彼の事を、大きな黒いダイヤの様に光る眼をしており、喋るときに浮かべる微笑みがとてもフレンドリーだと語っています。

西郷さんが、大久保利通宛に、サトウとの会合について書いた手紙の内容が載っていましたが、その中に、

I told him the French said Japan must have a single concentrated government like all western countries and the daimios must be deprived of their power. Above all it was desirable to destroy the two provinces of Choshiu and Satsuma, and that it would be well to join in subduing them.

私(西郷)は、彼(サトウ)に、フランスは、日本は西洋のように、一つの集中した政府を確立すべきで、大名からは権力を取り上げるべきだと言っている事を告げた。特に、長州と薩摩をつぶすことが望ましいとし、長州・薩摩を征伐するのに加わるかもしれないという事を。

これに対してサトウは、

the English idea was that the sovereign of Japan should wield the governing power, and under him the dimios should be placed, and so the establishment of the constitution (or national polity) would be similar to the system of all other countries.

イギリスの考えは、日本の元首(おそらく天皇の事)が政治を行う力を持ち、その下に諸大名を置くべきだというものだ。そうすれば、国家の構造は、他の国と同じようなシステムとなろう。

また手紙の結びの部分には、

Satow's language about the Bakufu is very insulting. I will tell you all in detail. Good-bye.

Saigo Kichinosuke

Okubo Ichizo sama

サトウが幕府に対して使った言葉は、非常に辛辣だった。後にまた詳細を知らせる。それでは。

西郷吉之助

大久保一蔵様

サトウ氏と西郷さんは、日本語で語り合ったと思うのですが、サトウはどんな辛らつな言葉で幕府を形容したのか、ちょいと知りたいですね。また、日本の元首というのはいったい誰なのか、最終決定権は誰にあるのか、幕府なのか、天皇なのか、黒船後に日本との貿易を執り行おうとした列強の間では、このあいまいさが、時に問題を起こし、不可解であったようです。一体、誰に話を持っていけばいいんだ・・・と。

この手紙に書かれた会合の翌日、二人はまた会って、その際の事を、サトウは

He talked a good deal of a parliament of the whole nation, to be established as a substitute for the existing government of the Tycoon, which I found from my young friend Matsune was a very general idea among the anti-Tycoon party. To me it seemed a mad idea.

彼(西郷)は、将軍を長とする現在の幕府に代わり、国全体を代表する国会の設立の事を、多く語った。私の若い友人、松江によると、これは、反幕側の間では、一般的な考えであるという。私には、無謀な考えのように思えたが。

と、書いています。黒いダイヤモンドの瞳で理想を追う西郷さんに、サトウ氏には、「現在の封建の世の中から、いきなり、そこまでやるんかい?あんた、早すぎるよ。」という感覚があったのかもしれません。

また、駐日英国公使のハリー・パークスについて、

If he had taken a different side in the revolution of 1868, if he had simply acted with the majority of his colleagues, almost insurmountable difficulties would have been placed in the way of the Mikado's restoration, and the civil war could never have been brought to so speedy a termination.

もし、彼が、1868年の革命において、反対側(幕府側)についていたら、もし、彼が、他の大半の彼の同僚と同じような行動を取っていたら、帝の政権を復活させるのは、苦難の技であったかもしれない、そして、続く内戦が、あそこまで早く終結することはなかったであろう。

と、明治維新をもたらした、影の功労者は自分たちイギリスである、ような雰囲気もちゃっかり漂わせています。表面上は中立的立場を取っていたのですが、列強の中で、新政府をいち早く正式に承認したのはイギリスでもありました。

桜島を借景にした島津家別宅の仙巌園の庭

イギリスの歴史は、把握するのが難しい、なぜというのは、その多くが、海外で展開されたからだ・・・なんて事をよく聞きます。ですから、極東の島国でのこうしたイギリスの活動なども、日本への興味が強い人でなければ、イギリス人のほとんどが知らない歴史です。アーネスト・サトウという名前を聞いたことがある人も、少ないと思いますし、さらには、時代さかのぼって、ウィリアム・アダムスなども、イギリス国内では知名度低いですね。

さて、最後に、もともと黒船を引き連れてやってきて、明治維新への序曲を作ったアメリカは、どうしていたのかというと、1861年から1865年に起こった国内の一大騒動・・・南北戦争で、その間も、その直後も、あまり日本に干渉している余裕がなかった・・・というのがあるのでしょう。南北戦争後、その際に使用され、いらなくなった武器などが、日本にも流れ込み、今度は日本の内戦で使用されたりしたようです。また、横浜開港当初からの一番の貿易相手国となったのは、アメリカではなくイギリスであったそうです。

アーネスト・サトウ著のA diplomat in Japanは、インターネットで読めます。こちら(英語のみ)。また「一外交官の見た明治維新」のタイトルで翻訳物も出ているようです。

*文中の日付はすべて、新暦です。明治改暦は、1873年(明治6年)。このため、旧暦1872年(明治5年)の12月は2日間のみで、旧暦12月3日が、新暦1873年(明治6年)1月1日となります。

コメント