トマス・ベケット
カンタベリー大聖堂内トマス・ベケットのステンドグラス |
誰か、このやっかいな司祭を片付けてくれるものはおらんのか?
時は1170年。王の権力に相対する、教会の力を代表するカンタベリー大司教のトマス・ベケット(Thomas Becket 1118-1170年)の頑固ぶりにしびれを切らしたヘンリー2世は、思わず、こう叫んだと言われています。それを聞いていた4人の騎士が、「それでは、俺たちが片付けよう」、とカンタベリーへ向かう。
トマス・ベケットは、1118年、ロンドンに生まれます。父は富裕な商人、母はノルマンディーの出身。幼いころから頭脳明晰で勉学を好み、まずは、イングランド内の現サリー州にある修道院に教育を受けるため送られ、後に当時のヨーロッパの学問の中心であったパリで5年間学びます。この間に宗教の道に進むことを決めたようです。1150年に、イングランドへ帰国後、当時のカンタベリー大司教セオボルド(Theobald)の下に仕え、彼により、更なる、教会および民間の法を学ぶためにボローニャなどに送られます。当時のエリートコースを行く人物は皆そうなのでしょうが、かなりインターナショナルな教養を受けている人。
ヘンリー1世が1135年に亡くなった後、やってくるのは、ヘンリー1世の娘マチルダと、マチルダのいとこのスティーブンとその支持者たちが、王位継承をめぐって戦った、悲惨な内戦の時代。この期間、君臨したスティーブン王が1154年に亡くなり、彼が子孫を残さなかったため、新たに王座に就くのは、マチルダの息子で、ヘンリー1世の孫にあたる、21歳のカリスマ的なヘンリー2世。プランタジネット朝の始まりです。
ベケットは、セオボルトの推薦で、ヘンリー2世の右腕である大法官(Chancellor)の地位に就く。ベケットは、ヘンリー2世より15歳年上だったのですが、この二人、活動的で、決断力、統率力があり、歯に衣着せぬ性格が、非常に似ていたのだそうで、最初からウマが合い、仲良しとなり、乗馬、狩猟などにも、よく一緒に繰り出したのだとか。見た目も、ベケットは、王同様、背が高く、軽く180センチはあったそうです。当時の平均身長は、現在に比べかなり低かったので、それだけでも、ぱっと人目をひくものがあった上、貫くような眼光と、鼻筋も高く、強い性格がそのまま外観からも読み取れるような人物。が、一度こうと決めたらなかなか意見を曲げない二人が、ある事でいがみ合うと、後に大騒動を引き起こるものです・・・。
当時のイングランドを含むヨーロッパ教会制度の上に立つのは、王様ではなく、ローマ法王であったわけで、ヘンリー2世以前から、教会と王の間で、いくつかのいさかいが起こっていました。中でも、教会に仕える者たちは、王と国家による法で裁くことができず、教会内の法によってのみ裁かれる・・・、よって坊さんたちは、甘い刑罰を受けることが多々あった・・・。国家の中に、自分に立ち向かう別の有力国家が存在するような、こうした状況は、王様にとっては、たしかに面白くないわけで。しかも、その領土たるや、現在のフランスの半分近くも含み、法の統一を確立したかったヘンリー2世の事、教会問題をなんとかしたいところ。そうして、1161年に、セオボルトが亡くなり、イングランド内の教会の長であるカンタベリー大司教の座が空くと、ヘンリーは友達のベケットをその座につけるのです。ベケットを通して、教会の改革を図り、教会を王の統制のもとに置くことができると思ったのが・・・大間違い。大司教となると、自分の唯一の長は、王ではなく、神であるとし、教会の法的独立を、頑なに維持する姿勢を見せるベケットと、ヘンリー2世の仲は亀裂。その後、亀裂は、徐々に深まっていき、やがては取り返しのつかぬほどになります。
ついに王の怒りを買い、身の危険を感じたベケットは、1164年から、フランスへ逃亡し、フランス王の庇護の下、6年間留まります。1170年、王からの許しを受け、イングランドに戻る決心をしたベケットは、現ケント州サンドウィッチに上陸。すでに、民衆の間で人気の大司教を迎えるため、サンドウィッチからカンタベリーへの道のりは群衆であふれ、道中、ベケットの帰還を祝っての音楽なども演奏され。イングランドへ戻ってからも、ベケットは、王に妥協する態度は一切見せず。王の側を取った司教たちを、次々に、破門。もうこの段階で、すでに、自分の信条のために死ぬ覚悟ができてたのだとか。
こうして破門された司教たちは、クリスマス期間、ノルマンディーに滞在していたヘンリー2世に、散々、ベケットの文句を並べ、ついには、ベケットの政敵であるヨーク大司教ロジャーが、「あのトマスが生きている限り、王には心休まる時間も、安定した国家も持つことはできないでしょう。」と告げる。これが、引き金で、ヘンリー2世は、冒頭に書いた
"Who will rid me of this turbulent priest?"
誰か、このやっかいな司祭を片付けてくれるものはおらんのか?
を叫ぶに至ったと言われます。一説によると、「turbulent priest 厄介な司祭」ではなく、 「low-born priest 身分の低い・成り上がりもの司祭」であったという話もありますが、まあ、結果は同じ。これを耳にした4人の騎士たちが、王の望みをかなえ、一旗揚げようと、ノルマンディーから出発し、海を渡ってイングランドはカンタベリーへと向かうのです。
左:大聖堂の戸口に立つ3人の武装した騎士たち、中央:祈りを捧げるベケット、右:大聖堂内の一人の騎士と僧 |
ベケット殉教の瞬間を描いた大聖堂内の絵 |
騎士たちが逃げ去った後、聖堂内の僧侶たちはどうしていいやら、恐怖と困惑で、途方に暮れ、ベケットの死体は、4,5時間そのままにされていたそうです。が・・・、大聖堂内での惨事の噂を聞きつけたカンタベリーの市民たちが、次々と聖堂に流れ込み、床に広がるベケットの血を、聖なる遺品とばかりに、布にしみこませたり、入れ物に掬い取ったりしていく。死後ほんの数時間で、ベケットは、教会のために命を捧げた聖人としての評判が確立。この様子を見て、気を取り直した僧たちは、騎士たちが戻ってきて、ベケットの死体を持っていかれないように、大急ぎで遺体を、大聖堂の地下のクリプトに埋葬。そうして、ベケット殺害後、2,3日のうちに、すでに、ベケットの血の混ざった水で水浴びをしたら麻痺していた体が治った、とか、夢に出てきたベケットのお告げを聞いて願っていたことが本当になった、などと各地で、ありとあらゆるトマス・ベケットの奇跡の話が伝えられ始めるのです。
ベケット殉教の場 |
後悔の念を示すために、ヘンリー2世は、1174年、裸足でカンタベリーの町を、セント・トマスの棺の前まで歩き、その前にひれ伏すると、修道長と、8人の僧たちに鞭打たせるという公の懺悔を行います。その後も、王は、事あるにつけ、カンタベリー大聖堂で祈りを捧げたとか。実際、このトマス・ベケットの暗殺と、後に起こる息子たちによる反乱がなければ、歴代の王様の中でも、国の統治にかなりの才を見せた優秀な王様であったというのに。(ヘンリー2世の広大な領土と、それをめぐっての息子たちの反乱については、過去の記事「ヘンリー2世のお家騒動」を参考ください。)
時がたち・・・、アン・ブリンと結婚したいばかりに離婚を望み、ローマ法王と喧嘩、最終的にイングランドをローマ法王の権力から離脱させ、王を長としたイギリス国教会をうち立てたのは、ヘンリー8世。これによって、ヘンリー2世の望んでいた、教会を王の支配下に置くことが可能となったのですが、王の権威に逆らったトマス・ベケットは、聖人の位を無効にされ、逆に、謀反人のレッテルを張られる事となります。ヘンリー8世の行った修道院解により、カンタベリー大聖堂内のトマス・ベケットの廟は破壊され、彼の遺体は燃やされてしまったという話です。
シティー内、チープサイドで見られるトマス・ベケット生家の記念碑 |
こんにちは。いつも愛読させて頂いております。イギリスの歴史や史実に、興味津々です。毎年3回は仕事でイギリスに行くのですが、都度時間があると小さな街に訪れていますが、イギリスの豊かな地方色に出会うたびに、歴史の積み重ねのある国にいる事を実感します。思い立てば、直ぐに訪れる事が叶うminiさんが羨ましいです。
返信削除あねごさん
削除過去の歴史の形跡を、実際に見ることができる場所が、いくつも残っているというのが、イギリス(ヨーロッパ)の良いところでしょうか。(イギリス国内、足を踏み入れたくないような場所もありますが!)シティーなどの比較的小さな範囲ですら、歩くたびに、以前気が付かなかった歴史物に遭遇することがいまだにあります。来英の度に、少しずつでも、記憶に残る場所を訪問できると良いですね。