リトル・ダンサーとケス

テレビで映画「ビリー・エリオット」(Billy Elliot、邦題はリトル・ダンサー)がかかっていたので、見たことがないというだんなと一緒に、私は久しぶりに見てみました。

あらすじは

イングランド北東部の炭鉱の町が舞台。11歳のビリー・エリオットの父と兄は共に炭鉱で働く。少々ぼけてしまっている祖母も同居。時代背景は、1984年から85年にかけての炭鉱ストライキ。国営であった炭鉱の効率の悪さから、時の首相マーガレット・サッチャーの方針で、徐々にイギリス各地の炭鉱、重工業への補助金の削減と、炭鉱の閉鎖が続き、それに反対するストが各地で展開された時代。ビリーの父と兄もストライキに参加。やさしかったビリーの母は死んでおらず、ビリーは常に母を恋しく思う。

ボクシングを習うために通っていた体育館で、ある日、ビリーは、おなじ場所で行われたバレーのレッスンに興味を持ち、父に内緒で、女の子に混じって、バレーを習い始める。やがて、バレーの先生から、ロンドンのロイヤル・バレー学校のオーディションを受けるよう薦められるものの、地元に巡回してきたオーディションを家庭事情で逃してしまうビリー。父は、一時は息子のヘンな趣味にショックを受け、怒るものの、ビリーの踊る姿を見て気を変える。ストライキ中で収入も無く、妻の遺品のアクセサリー類を売り払い、その金で、自らロンドンへビリーを連れてオーディションへ。無事、通過したビリーは、成功し、バレーダンサーになる。

ボクシングとバレーのレッスン一回につき50ペンスというのに時代を感じます。また、バレーの先生と、ビリーの兄の言い争いで、兄の口から、ミドル・クラス(中流階級)のポッシュな家に住んでるあんたによけいなおせっかいされたくない、ような言葉が飛びだすのにも、延々と残るイギリス階級社会の亀裂が見られ。

原題:Billy Elliot
監督:Stephen Daldry
言語:英語
2000年

だんなの感想は、あまりにもシンデレラ物語過ぎて、ちょっと現実味に欠けるというもの。本当の北部の炭鉱の町で、労働者階級の家庭に生まれた子供の生活を見たかったら、ケン・ローチ監督の1969年映画「Kes」(ケス)の方が、いいよん、というので、さっそく、こっちも見てみました。

「ケス」の舞台はヨークシャー南部の炭鉱の町。時代は、ビリー・エリオットよりも前の60年代後半。主人公ビリーの家庭は、父がおらず、母と、炭鉱で働く、気が荒く手が早い兄のみ。小遣い稼ぎのために新聞配達をしてから学校へ行くビリーは、学校では劣等性の問題児。ある日、ビリーは、ハヤブサ(Kestrel)の巣を見つけ、そこから雛を盗み取り、ケスと名づけ、小屋で飼い始める。古本屋から盗んだ鷹の訓練方法に関する本を頼りに、育て方と、訓練の仕方を自分で習い、放課後、野原でケスの訓練をするのが生きがいとなっていく。ある日、兄に、競馬の賭けをしておいてくれるよう頼まれたビリーは、その金を使ってしまう。後に、兄が選んだ馬が勝ち、ビリーが頼まれた通りに賭けをしていなかった事がわかった兄は、怒り狂い、ケスを殺してゴミ箱に捨てる。ラストは、ビリーが、ケスの死骸を埋めるシーンで終わり・・・ああ、そんな・・・

南部のヨークシャー訛りが、なかなか手ごわく、時にちょっとわかりにくいところもありました。北部ヨークシャー出身のだんなによると、「ケス」に描かれている、学校の体育の時間が、自分の子供の時代の体育の時間を髣髴とさせるものがあって、とてもリアルなのだそうです。寒い中、半ズボンで、泥だらけの校庭に出され、大雨で無い限り、サッカーをやらされ、寒くて、惨めで、本当に嫌だったのだそうで。雨が降ったら、降ったで、クロスカントリーのマラソンをさせられたそうです。これは、だんなの幼馴染も、同じように、「ああ、ひどかった、冬の体育の時間・・・」と、ぼやいていましたっけ。着替えのロッカールームやシャワーなども、まるで映画と同じような感じだったそうです。

「リトル・ダンサー」は、「ケス」から、かなり、頂いています。「ケス」から、アイデアを取って、もっと明るく、観客がいい気分で劇場を出れるように仕上げたのが、「リトル・ダンダンサー」といったところ。

大体、「ケス」の主人公の名前からして、ビリーですし。ハヤブサの訓練のための本を盗む様子も、ビリー・エリオットがバレーの本を盗むところで再現されています。周辺の町並みや景色もそっくり。二人とも貧しいバクグラウンドの中、それぞれの生きがいを見つけるのですが、「リトル・ダンサー」は、お父さんと、兄さんが、最終的には、ビリーの将来のためを思う人間だったのに対し、「ケス」のビリーのお母さんは、子は思うものの、積極的に何をするわけでもなく、放任。暴力的な兄は、何をくだらないことに浮かれているのだ、とビリーの大切にしているものを破壊。問題児扱いされるビリーに、唯一理解を示す学校の先生が一人登場し、ビリーがケスを操る様子を見学に来るのですが、彼の存在も、ビリー・エリオットのバレーの先生の存在の様に、主人公の将来を向上させる影響力までには至らずに終わります。

「リトル・ダンサー」は、人間やれば何でもできる、というフィール・グッド映画に仕上げたのでしょうが、家庭状況と育った環境で、周囲に手を差し伸べてくれる人もいなければ、夢も希望も持てないという事もあり得るのです。また、当時のイギリスの炭鉱、工業地域においては、「ケス」のようになってしまう事の方が多かったのかもしれません。他に思い浮かぶのは、「長距離ランナーの孤独」などですね。

原題:Kes
監督:Ken Loach
言語:英語
1969年

かつて、「イギリス労働階級(現在は特にアンダークラス)の貧しさは、物質的なものよりも、向上心の貧しさである」、というような事を言った政治家がいたようですが、俗に言うワーキング・クラス、アンダー・クラスでは、ビリー・エリオットのように、自分の理解できないものに夢中になったり、良い学校に入ろうと努力する子供を、積極的に助けて奨励する家庭は、わりと少ないのが現実かもしれません。子供が自分より高級と思われることをしようとすると、「何様だと思ってるんだ」「俺たちのやることじゃない」と、親や周囲のものが、子供の可能性を殺してしまう事も多々。上に登ろうとする者の足をひっぱり、自分と同じレベルに引き摺り下ろす文化。(それが文化と呼べるなら。)自分の子供が、自分の馴染みの世界の圏外に踏み出し、自分の知らない事を学び、自分を馬鹿にするようになる、という恐怖も手伝っているのかもしれません。

そういえば、ちょっと前に、イングランド北東部の町、ニュー・キャッスルの、かつての造船地域出身の歌手スティングのインタビューを聞いたのを思い出しました。彼は、周囲の多くの人間が造船業に携わっているのを見て、「自分はああいう危険な仕事はしたくない。」と思い、「どうすれば、別の仕事につけるか。勉強して、グラマー・スクール(公立の選別校)に入れば、なんとかなるかも。」と、がんばってグラマー・スクールに潜り込み、「ギターなんかをやると、それも、何かの役に立つかも。」とギターを始めた・・・などと言っていました。彼の両親が協力的だったか、周りに助けてくれる人はいたかなどには、触れていませんでしたが、少なくとも、邪魔はされなかったのでしょう。また、「ケス」のビリーほどひどい家庭ではなかったのでしょうし。それでも、早いうちに、将来の可能性を広げる事ができた、ラッキーな人です。

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