ダニエル・デフォーのペスト

ダニエル・デフォー作1722年出版の小説、「A Journal of the Plague Year」(ペストの年の記録)を読みました。日本では、「ペスト」の邦題で翻訳出版されているようです。 

 1665年。その4年前(1661年)の王政復古で、王座に着いた、陽気で、寛容、派手好きのチャールズ2世の下、クリスマス、芝居、その他、楽しい事は、全て禁じられていた、オリバー・クロムウェルの共和制から釈放され、活気を取り戻していたロンドン。 

・・・ところが、同年4月、シティーの外側(やや西側)に住む住民がペスト(黒死病)にかかるのが、悪運の始まり。異様に暑い天候も手伝い、病に感染する人物はどんどん増え、やがて、シティー内部へも飛び火。夏は特に病は勢いを増し、最終的に10万人(当時ロンドンの人口の3分の1)もがペストで死んだと想定されています。冬の訪れとともに、徐々にその猛威は下火になったものの、1666年の初めまで、死人は出ていたようです。 

 この小説は、ペストが広がっていく中、田舎に逃げようか、ロンドンに留まろうか、迷った挙句、留まる事を決めた、比較的冷静、客観的な主人公による、当時のロンドンの観察記録としてドキュメンタリー・タッチで書かれています。デフォーは、当時はまだ子供だったというので、自伝ではありませんが、緊急状態に陥ったロンドンでの出来事、社会の様子、追い詰められた人々の行動が、詳しく描写されていて興味深いものがあります。また、特に、地震、津波、原発の被害への対処がまだ続く日本の状況と重ね合わせて、時と場所を越えながら、似ている部分もあり。 病気が広がり始めると、特に、田舎につてがある者や、裕福な者達は、大急ぎで家族そろってロンドンから脱出。しばらくの間、朝から晩まで、道がワゴンや荷車に荷物を詰め込み去っていく人々でいっぱい。また、ロンドンを出た後、他の町に入るには、「この人物は健康である」という証明書を要したため、この証明書を得るための行列がまた大変。また、この期間、借りる事ができる馬もいなくなり、主人公が、田舎へ脱出する機会を逸する要因のひとつとなります。宮廷はオックスフォードに移り、芝居やダンスルーム、ミュージックハウスの類もほとんど閉鎖。後に、何とか助かろうと、行く当ても無い貧民達が、健康証明も持たずにロンドンから逃げ出し、そのまま野たれ死にをする、というケースもあったようです。 

 今では、一般的に、ペストは、ねずみ(ねずみに寄生していたのみ)により蔓延したと言われていますが、当時は、その原因がわからないまま、自由に移動する犬や猫などのペットは良くないものとして、殺してしまったというので、おかげさまで、ねずみは天敵の猫もいなくなって、ますます徘徊。 ペストの蔓延を極力防ぐため取られた処置として、患者の出た家の閉鎖(shutting up of houses)があります。これはどういうことかと言うと、ひとつの家庭に一人でもペスト患者が出ると、その家のドアに、赤い十字で大きなマークをつけ、外から錠をかけ、患者以外の健全な家族のメンバーを全て、内部に閉じ込め、出られなくしてしまう事。ドアの赤い十字の側には、「Lord, have mercy upon us」(神よ、我々に慈悲を)と印刷された文字が貼られ。家の外には交代で見張りが立ち、家の者の用足しや買い物なども、この見張りが執り行ったという事。中には、召使が病気になり、雇い主の家族全員が閉じ込められるというケースもあったようです。本の中には、こうして、病気でもないのに閉じ込められた人々が、なんとか、あの手この手で、閉鎖された家から逃げ出そうとする様子なども書かれています。また、閉鎖されるのが怖さに、家庭内で病気が起こっても、何とか外部から隠そうとする家族、見つかって閉鎖の憂き目に合う前に、夜逃げする家族なども。また、死者が出ると、その死体は手早く共同墓地に埋葬され。 

 さて、病気ですが、首や足の付け根など、リンパのある部分に大きなおでき状のものができ、それが段々大きく固くなっていく。この膨れ上がった部分が、大変痛いのだと言う事で、病人のうめき声は、外を歩いていても聞こえてくる事もあり。また、痛さに耐えられず自殺、窓から飛び降りる者などもおり。そうかと思うと、そういった症状は一切出ず、平気で街中を歩いていた人物が、いきなりばたんと倒れて死んだりする事もあったとあります。ある意味では、そういう表向きは元気な人のほうから感染させられる確立は高かったかもしれません。 貧しい者、仕事を失った者のため、ロンドン内外の富裕者から、寄付金が大量に流れ込み、ペストの期間中、貧民は何とか、必要最低限の物、食料は授与されたようです。ロンドン市長と行政機関の対処も比較的効率的であった事も手伝い、この期間、パン等食料のインフレはほとんど見られず、多少の窃盗やさぎはあったものの、暴動や犯罪が急増する事もなく。 ロンドンでのペストでの死者の数が増えるに従い、海外の貿易港は、徐々に、ロンドンからの船を港へ入れず、荷揚げを拒否するようになります。情報網が優れた現在でさえ、災害地の現状を正確に判断するのは時に難しいのに、テレビもラジオも無い当時、ペストの恐怖の噂は海外で誇張され、主人公は、海外に住む知り合いから、ポルトガルやイタリアでは、「ロンドンでは、週に2万人が死に、健全な人間の数が減っているので、死体は埋葬されないまま山となっている。」などの話が徘徊していると聞かされます。日本の原発騒ぎが、誇張して報道され、地球の反対側に住む人間までが、放射能の影響を防ぐ錠剤などの買い込みに走る状態と、あまり違わない気がします。

海外貿易は、ペストが去った後もしばらく回復せず、当時のライバルのオランダ、フランダースがそれを利用して、マーケットを独占した、とデフォーは書いています。 職工や商売人なども、ペストの時期は廃業、失業を余儀なくされますが、この後、特にロンドン大火で、更に住民が多くの物を失い、いざ、復興となった際に、こうした産業は再び繁栄することに。ロンドン大火後の7年間は、特に非常な伸びをみせたとありました。日本も、少し落ち着いて、建て直しを始めた際に、それに伴う産業に伸びがあるだろうと言われていますが。 

 ペストが下火になり、生活が通常に戻るにつれ、田舎にいた人物達もロンドンへ戻り始めますが、ロンドンに残った人物の中には、逃げていった人物に対して侮蔑を表現するものも多く、また自分がいかに果敢にロンドンに居残ったか、などと自慢するものもいた、という話も面白く読みました。デフォーの主人公は、居残って、運よく生き延びた人物も、無知のためから居残った場合や、他に行く場所も無かったためなど、決して勇気があったからではない場合も多いのだから、もっと他者に対する慈善心や、謙虚な心を持つべきだ、のような感想を述べています。特に、こうした状況下では、できるだけ、早い機会に判断をし、できるだけ遠くに要領よく逃げるのが、助かる確立は、一番高いでしょうから。私も、金とつてがあったら、逃げます、きっと。ただ、坊さんなども、多く逃げ散った様で、彼らが、ペストの後に、ロンドンに戻り、再び、何も無かったように、教会でお説教をしようとして、市民からひんしゅくを買ったという話は、わかる気がします。まだ宗教が重要な時代ですから、全体のトーンとして、本内で、「神」は良く言及されます。 

 ちなみに、このペストで死ぬ人間は、未だに世界で年間3000人いるのだ、と先日テレビでやっていてびっくりしました。どこの国かは言わなかったので、わかりませんが。 ペスト騒ぎがおさまって、1年も経たぬ、翌年の1666年9月には、ロンドンは今度は、前述の通り、ロンドン大火により炎に飲み込まれる事となります。ペストの直前もそうでしたが、ロンドン大火の前も、多くの彗星が空に現れたという話。華やかな宮廷、文学芸術、科学が栄えた時代であったものの、チャールズ2世の治世は、ペストとロンドン大火と、歴史に残るロンドンの2大災害のダブルパンチを経験する、踏んだり蹴ったりの部分もあったわけです。

コメント

  1. こんばんは
    桜も今日の雨で散ってしまいました。いつも散り際はあっという間です。
    黒死病は中世ヨーロッパの社会は変えてしまう天災だったのでしょう。今、日本には放射線の不気味な死の影が迫っているように思います。

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  2. 放射能は、目に見えない、そして、一般人の認識する知識の幅が狭い(具体的に数字を与えられても、それを見て、どういう状態になっているか、客観的判断を下せる一般庶民はほとんどいない)、一部メディアも、詳しい調査をせずいい加減な事を書いたりする、また政府や情報源に関する不信感で、現状が掴みにくい所が、怖さに繋がりますね。

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