アポカリプス(黙示録)


朝、目を覚ましたら第三次世界大戦が始まっているのではないか、世界が終わっているのではないか・・・そんなことを想像する時代になってきた気がする。毎日の平凡な日常がいきなりまるで無かったように壊される、そんな朝が来るかもしれない・・・。本日のニュースでは、人類最後の日まであとどれほどあるかを象徴的に告げる2025年の終末時計が残り89秒となって過去最も短くなったなんぞと言っている。各地で止まらない戦争、地球温暖化、AIが人類に与える潜在的リスク、AIによる偽情報拡散リスク・・・最後の日が近づく理由は色々。

それでも、ダイニングの窓から庭を眺めつつ暢気に紅茶なんぞ飲んだりしている時、ゆっくり湯ぶねに横たわり居心地よく瞑想したりしている時、自分に言う。「そんなことはあり得ない。この毎日が壊れるはずはない。明日も今日のような日が続くに決まっている」 同時に、あちこちの国での悲惨なニュースを耳にすると、同じ地球上で自分がこうも普通にしていられるのが類まれなる奇跡のようにも思えてくる。

ここ2か月、コ―マック・マッカーシーの「ザ・ロード」やジョン・ウィンダムの「トリフィド時代」など、いわゆるポスト・アポカリプス(終末もの)と称される類の小説をいくつか読んだ。穏やかで平和な世界がいきなり急変してしまった後、今まで築き上げてきた文明なるものの常識が崩壊してしまったあと、人類はどうなるのか、どう反応するのか、どのようなサバイバルを試みるのか。

ポスト・アポカリプスのアポカリプス(黙示録)という言葉は「開示する」ことを意味するギリシャ語に由来するという。英語ではRevelationと訳される。

新約聖書の一番最後の聖典がこのThe Book of Revelation、黙示録だ。これが何故に新約聖書に入れられたのかとびっくりするほどキリストの愛の教えには反する感のある内容で、もし入れるのであれば旧約聖書の方ではないかという気がする。実際、この聖典の聖書への挿入には色々な反対論議もあったようだ。

黙示録はキリスト教がローマ帝国内で迫害を受けていた1世紀後半(ネロ帝またはドミティアヌス帝時代)に書かれたのではないかとされ、「今に見ていろ、酷い目に会わせてやる」といった感じの復讐心と暴力心に満ち満ちている。ヨハネ(英語ではジョン)の黙示録と銘打たれているが、このヨハネがキリストの使徒のヨハネであったかは疑問視する説が多く、内面に燃える怒りを秘めていた全く別のヨハネさんではないかとされる。黙示録はパトモス島にて、このヨハネさんが神からの啓示を受けた内容を綴るという形を取る。神は悪魔にそそのかされたように腐敗した人間社会をありとあらゆる責苦で滅ぼした後、新しい国を築くだろうというのが啓示内容だ。

聖書を小説のように最初から最後まで通読するという人はあまりいないと思うが、この話が最後の締めくくりに出てくると、その前のキリストの教えはなんだったんだろうという違和感におそわれることだろう。汝の敵を愛せよどころか、敵なるアンチクライスト(絶対悪)は徹底的に叩き潰せ・・・のような。これが色々な紆余曲折を得てたどり着いた最後の結論なのかと。

黙示録に盛り込まれているのは、それぞれ違う色の馬に乗って現れる黙示録の四騎士、7つの封印、ラッパを吹き鳴らす7人の天使たち、獣の数字666とその数字を刻印される者たち、大天使ミカエルとドラゴンの戦い、奇妙奇天烈な姿をした獣たち、アルマゲドン、最後の審判、その他、神に守られていない人間たちに襲い掛かるありとあらゆる災害、疫病、戦争、エトセトラエトセトラ。ある意味、何でもありのSFファンタジーものだ。サブカルなどの題材にされるものも多いのは頷ける。比較的短いので興味のある人はざっと読んでみるのも良いかもしれない。「黙示録の四騎士、かっこいい!」などと無邪気に喜んでいる間に、無宗教の日本人などほぼ全員666を刻印されて、後に全滅させられてしまいそうな話だ。

中学の時(卒業式だったか)にヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」を全校で歌わされた記憶がある。当時は何の疑問も持たずに歌っており、何度も練習させられたおかげで今も歌えるのだが、この楽曲の歌詞は「黙示録」の11章と19章から取ったもの。腐敗した人間たちを滅ぼした後の新しく築かれた国を神が永久に統治する至福を讃えている。キリスト教の学校でもないのに、今考えると妙な選択だ。「私はキリスト教徒ではないが、昔、きちんとハレルヤを歌いました!お慈悲を!」と訴えれば黙示録に予告された終末が来ても助けてもらえるのだろうか。

ヨハネの黙示録が書かれた当時の、滅ぼすべき、復讐すべき絶対悪はキリスト教徒を迫害していたローマ皇帝・帝国だったのだろう。よって666とは皇帝ネロのことだなどとも言われる。けれども、4世紀に入りキリスト教が公認され、やがてはローマ帝国の国教となったあとの絶対悪とは何ぞやという疑問が出てくる。

時代の流れと状況、立場と解釈によって絶対悪、絶対善は変化していくことになる。対立する二つのグループがお互いに相手を悪と思っていることも多々あったろう。ヨーロッパでのプロテスタントとカトリックの熾烈な戦いなども。ジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」内での比喩によれば、この両者の戦いは卵を細い方から食べるべきか、太い方から食べるべきかで喧々囂々としていた状況。敵と決めた人を傷つけ殺すのが正義なら、人間としての根本的な道徳とは何なのだろう。

天才科学者アイザック・ニュートンは、サイエンスに関する文献より、実は賢者の石を作り上げるための錬金術やキリスト教に関する書き物を密かに数多く残していたそうだ。彼は黙示録に記載されたことを信じていたという。30以上の聖書を所持していたという彼が、聖書内に隠された鍵を頼りに行った計算によると、黙示録に予言される世界の終わりは2060年までは来ないということになっている。その頃にはおそらく私は生きていない可能性が高いので、悲惨な世界の終わりは見ないで済むかもしれない。

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