初期ヴァージニア植民地

ヴァージニア・カンパニーの紋章
イギリスによる、北米植民地というと、ピルグリムファーザーズによって確立されたニューイングランドのプリマス植民地が有名ですが、最初の成功した、恒久的イギリス植民地は、1607年に、チェサピーク湾に注ぐジェームズ川沿いのジェームズタウン(Jamestown)に設立された、ヴァージニア植民地です。ピルグリムファーザーズより13年前のこと。

ヴァージニアという土地は、もともと、ヴァージン・クウィーンこと、エリザベス1世にちなんでなずけられたもので、当時は、現ヴァージニア州に留まらず、北米のフロリダ以北の、東海岸に面した土地一帯を指したようです。

ジェームズタウンが、イギリスによる最初の「成功した」植民地と書いたのは、これより以前、エリザベス1世のお気に入りの忠臣、ウォルター・ローリーが、女王より、ヴァージニア内に、植民地を設立する権利を与えられ、彼の出資と努力により、1585年、現ノースカロライナ州に属するロアノーク島(Roanoke)に、ロアノーク植民地なるものを築いているからです。が、ロアノーク植民地では、数年で移住者たちは死亡、または植民地を放棄し散々し、消滅。失われた植民地としてのみ、名を残すことになります。

やがて、ウォルター・ローリーの北米に植民地を築く権利は、幾人かのロンドンの商人たちの手に渡り、彼らは、ヴァージニア・カンパニーなるものを打ち立て、時の王、ジェームズ1世から、勅許を与えられます。そして、このヴァージニア・カンパニーにより、ヴァージニアに、100人あまりの植民者が送られることとなります。こうして、彼らは1607年5月に、ジェームズタウンで恒久的北米イギリス植民地開発の第一歩を踏み出すこととなるのです。宗教の自由を求め、新天地を開拓定住を目的としたピルグリムファーザーズとは異なり、ジェームズタウンへ向かった移住者たちは、金銀を見つけ、一獲千金を狙うタイプの人間が多かったという事。

キャプテン・ジョン・スミス
最初の植民者たちは、食糧不足、病気、更には、総長パオハタンに率いられた地元のインディアン部族の襲撃などにより、かなりの人数が死んでいく。初期、植民者の間のリーダー格となったのが、元軍人の、キャプテン・ジョン・スミス。まだ、若かったものの、彼は、それまでに、オランダやハンガリーで戦いを経験し、一度は捕らえられ、白人の奴隷となったものの脱走、などという、すでに、冒険小説の主人公のような半生。やがて、このキャプテン・スミスが、インディアン達との交渉に成功し、移民者たちが持ち込んだ金属の道具、その他もろもろと、インディアン達の食料の物々交換も設立されます。また、「働かざる者食うべからず」と、植民者たちの間では、階級を問わずに共通のサバイバルのための土地開発などのために、労働を強い、規律に従わぬものには、罰を与えるなどして、尊敬を買う一方、敵も作ったようです。(ついでながら、ジョン・スミスというのは、イギリスのそれは典型的な名前で、日本の山田太郎のように、書類を埋める時のお手本に使われる手の名前です。)

1609年終わりには、ジョン・スミスは、ガン・パウダーの爆発によって負った傷と、植民者の間での勢力争いで、ジェームズタウンを去り、イングランドへ帰国。いくつもの新大陸に関する著作を出版することとなるのですが、その記述のひとつに、ジェームズタウンの植民地にいた時、周辺のインディアン部族の長パオハタンの愛娘、ディズニーのアニメにまでなった、かの有名なポカホンタスによって、命を助けられた・・・くだりがあるのです。

彼の著述によると、インディアンにとらえられ、パオハタンの元へれて行かれたジョン・スミス。パオハタンの首をはねよという命令に、絶体絶命。そこへ、自分の身を投げ出して、ジョン・スミスの頭を腕に抱え込み、斧が振り落とされる前に、彼の命を助けてくれと、父に頼んだのが、このポカホンタスという事。ちなみに、ポカホンタスというのは、彼女が幼い時のニックネームで「いたずらもの」「やんちゃもの」を意味するそうです。当時、ポカホンタスは、まだ、乙女というよりは、子供の年。ジョンスミスが、この記述を書いたのは、彼がジェームズタウンを去ってから9年後の事だそうですし、更に、彼は、他の冒険談でも、乙女に命を助けられた云々を書いている事から、事実だか、作り話かは、定かでないようです。いずれにせよ、ジョン・スミスが、パオハタン、ポカホンタスと、交流を持っていたのは確かで、彼がジェームズタウンを去った後、植民者とインディアンの関係は悪化したようです。

ジョン・スミスが去った後、残されたジェームズタウンの植民者たちは、それは厳しい、飢えの冬を迎え、大勢が死亡。生き残った者たちは、翌1610年春に、その地を捨ててイギリスに帰ろうとしている時、新しい植民者150人以上を乗せた船が2隻やってくるのです。この新しい植民者の一人がジョン・ロルフ(John Rolfe)。彼の乗った船は、ジェームズタウンに到着する前に嵐で、カリブ海で難破し、バミューダ諸島のひとつにしばし碇泊。ロルフは、おそらく、この時期に、カリブ海のどこかで、スペイン植民地で栽培されていた、たばこの種を入手し、ジェームズタウンに降り立つ。

ヴァージニアでは、すでに現地で育成されていた、原産のたばこがあったものの、このヴァージニア産のたばこは、いささか苦く、味が悪く、ヨーロッパ人の好みに合わなかったようで、ヨーロッパ向けの商品とはなりえなかったようですが、ジョン・ロルフが導入した、スペイン植民地からのたばこは、ずっと香りと味が良く、ヴァージニアでの栽培も大成功。大幅にロンドンへの輸出が始まり、ヴァージニア植民地の運命の向上の大事な要素となります。しかし、同時に、かなりのマンパワーを必要とするたばこのプランテーションでの大量生産は、やがて、アメリカ南部での奴隷制への種をまく事にもなるのですが。

イギリスへやって来たポカホンタス(レーディー・レベッカ)
イギリスから連れて来た妻を、到着後すぐに亡くしたジョン・ロルフは、1614年に、ポカホンタスと結婚。なんでも、ポカホンタスは、人質として、植民者たちに誘拐されたという話で、彼女は、ジェームズタウンで、キリスト教に改宗し、レベッカという西洋の名を得ています。1616年、バージニア・カンパニーの出資で、ロルフ、ポカホンタス、そして2人の間にできた息子のトマスの家族3人は、イギリスへと旅立ち、対英中、ポカホンタスは、レーディー・レベッカと呼ばれ、社交界にひっぱりだこ、ジェームズ1世にも謁見。ところが、北米への帰途に着く直前、1617年3月に、ケント州グレーブズエンドで、ポカホンタスは急病となり、他界。息子トマスは、イギリスで教育されるべく、残り、ロルフは一人北米へ戻り、再婚。翌1618年には、ポカホンタスの父、パオハタンも死亡し、一時的に、ロルフとポカホンタスの結婚で、平穏を取り戻したかに見えた、ヴァージニアのインディアン達と、白人移住者の関係は、以後は悪化の一方を辿ります。

1622年春、白人移住者たちによる、プランテーションのための土地のさらなる拡大に業を煮やしたインディアンは、ジェームズタウンに大掛かりな攻撃をかけます。ジェームズタウンの虐殺と称されるこの事件で、約400人の植民者が殺されたと言われています。ジョン・ロルフも、この時に殺されたのではないか、という説があり、いずれにせよ、彼は、この年に死んでいます。1624年には、バージニア・カンパニーは、解散となり、植民地は、ジェームズ1世の元、イギリス王家直属の植民地、ジェームズタウンはその首都となります。幾度かのインディアンの抵抗にも関わらず、植民地は拡大。1699年には、バージニア植民地の首都はジェームズタウンから、当時のイギリス王、ウィリアム3世の名を取った、ウィリアムスバーグへと移動します。裕福な植民地として発展するヴァージアは、イギリスからの独立戦争後、初代大統領のジョージ・ワシントンを出すこととなるのです。

ロンドン、シティー内にあるキャプテン・ジョン・スミスの像
ジョン・スミスは、ポカホンタスとジョン・ロルフが結婚した1614年には、今度は、現メイン、マサチューセッツ州沖の北米東海岸北部の探索を行い、この周辺の地を「ニューイングランド」と名付けます。その後すぐに、このニューイングランドの地に植民するピルグリムファーザーズたちも、キャプテン・スミスのこの探索から、多くの情報を得たという事。

こうして、インディアンのお姫様ポカホンタスと関わりのあった二人のジョン、ジョン・スミスとジョン・ロルフは、後の北米イギリス植民地の行く末に大きな影響を与える事となったわけです。

コメント

  1. こんにちは。偶然アメリカ東海岸出張先にてブログ拝読。この地で読むと一層感慨深いです(笑)。この時代でいわば侵入者とも言える人と愛し合い連れ添う決意は、並大抵のことではなかったでしょうね。そんなアメリカも、今は白人の方が少数派になろうとしています。

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    1. 東海岸南方に、ハリケーン・フローレンス接近中の様ですが、出張先は、大丈夫ですよね。時間があったら、植民地ゆかりの土地ツアーでもしてきてください。二つの文化を見事に渡ったポカホンタスの短い生涯、画期的なものです。

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