コルチェスターのローマン・サーカス

ローマン・サーカスでのチャリオット・レースを描いたモザイク
Circus(サーカス)とは、もともと、ラテン語の円を意味する言葉。そして、そこから、ローマ帝国時代、映画「ベン・ハー」でおなじみの、チャリオット・レース(Chariot Race、戦車競走)などが行われた、細長い楕円形の野外競技場が、サーカスと呼ばれるようになります。チャリオット・レース開催の際は、レースとレースの間に、動物の見世物や、アクロバットなどの余興が行われたようで、これが現在の「サーカス」という言葉の元になったのではないかという事です

こうしたローマ時代の競技場のローマン・サーカス(Roman Circus)は、実際には、円というよりは、長方形と言った方が近い形です。細長い長方形の、片側はほぼ直線、片側は半円形。レースは、直線側からのスタートとなります。

競技場中心には、一直線のスピーナ(spina)と呼ばれる部分があり、馬にひかれたチャリオットは、このスピーナの周りをぐるぐる、時計と逆方向に回ってレースを行う事となります。(上のモザイクの絵を参照ください。)スピーナには、神々の彫刻やら、オべリスク、噴水、その他もろもろの装飾的建築物の他に、チャリオットが、何度スピーナを回ったかを数えるカウンターも設置されていました。回る回数は、7回とされていますが、これも、競技場のサイズによって、違いがあったかもしれません。「ベン・ハー」では、このカウンターは、そろばんの様な軸に並ぶ7つのドルフィンで、1周するごとに、ドルフィンがひとつひとつ頭を下げていく仕組みになっていました。

一番、事故が起こりやすく危険、その一方、観客にとってスリリングだったのが、いくつかのチャリオットが先を競って、このスピーナの両端を回る時であったようです。観客は、現在の競技場やサッカー場とあまり変わらぬような、階段式の座席に座り、支持するチームや、レーサーに歓声を送り。ローマン・サーカスは、チャリオット・レース以外にも、時に、その他の式典に使用されたということ。

チャリオット・レースは、ローマの上流社会のみを対象としたものでなく、一般大衆が見物につめかけた娯楽。「パンとサーカス」(英語:Bread and circuses)という言葉がありますが、一般庶民には、食いものと娯楽を与えていれば、政治や軍事、その他の治世に関しては、興味も文句も持たずに、毎日をえへらえへらと過ごすことだろう・・・という、非常にシニカルで安易な政治姿勢を指すフレーズです。こんなのは、ローマ時代も、今の世の中も変わっていない気がします。現政府も野党も、しっかりとした方策を打ち立てることもせず、「パンとサーカス」での大衆の人気取りに走る政治家が大半の感じですから。

もともと、ローマ人は、ギリシャのヒポドロームでの戦車競走からアイデアを頂戴し、それを発展させ、サーカスでのチャリオット・レースを始めたそうで、ローマ時代には、帝国内あちこちに、100は、ローマン・サーカスがあったとされますが、現在でも、その形跡が残っている場所は、40か所だそうです。ローマン・サーカスの中で、最も有名なものが、ローマにあるサーカス・マクシムス(チルコ・マッシモ Circus Maximus)。「ベン・ハー」での大迫力チャリオット・レースは、このサーカス・マクシムスで行われた設定となっています。大体のサーカスは、地中海沿岸の地にあり、ヨーロッパアルプスを越えた北側にあるものは、2つのみ。ひとつは、ドイツのトリーア(Trier)にあったもの、そして、もうひとつが・・・イギリスのエセックス州コルチェスター(Colchester)のもの。当然、コルチェスターのものは、イギリス国内では唯一のローマン・サーカスとなります。
イギリス内で記録される最古の町とされるコルチェスターは、ローマ時代は非常に大切な場所でした。コルチェスターの町の中心から少しだけ離れた南部に、ローマ時代のサーカス跡地が発見されたのは、わりと最近の2005年のこと。

コルチェスターは、近年では、イギリス陸軍の町でもあり、町の南部には駐屯地があるのですが、軍が、新しい建物へ移動するため、ヴィクトリア時代に遡る駐屯地が売り出され、土地開発会社が、そこを新しく住宅地とする前に、念のためと、2002年あたりから、考古学者による発掘作業が行われました。やがて、この発掘作業中、妙に長く、大きい、楕円形の建物の土台の一部が発見されるに至り、「いったいこれは、何だろう!ひょえ、なんと、ローマン・サーカスではないか!」とあいなったわけです。こんな貴重な発掘現場の上に家を建てるわけにもいかないので、この部分は、開発から守られることとなっています。なにせ、かなり大きなエリアをまたにかけた遺跡とあって、地主の許可、発掘のための資金確保などで、まだ十分調査が行われていない部分もあるようで、今後、時と共に、少しずつ、観光地らしく変化していくかもしれません。壁に囲まれた町の中心部に、遺体の埋葬を行う事が禁じられていたため、市壁外にあったサーカスの周辺からは、多くの埋葬跡、埋葬品も発掘されています。

サーカス跡地とはいえ、ほんのわずかな土台以外の建築素材は、中世の時代に、他の建物を建設するために、再利用され、ほとんど持っていかれてしまっています。コルチェスターにある立派なお城も、90%はローマの廃材で作られたなどという話ですので、コルチェスター城建設にも、ここのサーカスの素材が使用されたかもしれません。ですから、何も知らずに、この場を訪れたら、なんだか、うら寂しい場所だな・・・くらいで、サーカスがあった場所などと気付かずに行き過ぎてしまう可能性もあります!現在、それらしきものは、上の写真の、サーカス西側の、スタート・ゲイトがあった地点のみ。覗き透明ガラスが設置されており、それを通して見ると、かつて、こんな感じのゲイトが建っていたとわかるようになっています。

ここにある情報ボードに、当時のイメージ図も載っていました。ここから出発した8機のチャリオットはスパインの周りをくるくる7回走ってゴールとなります。

ひとつのチャリオットをひく馬は大体の場合、4頭。レースの日には、約400頭近くの馬が、この地の周辺に大集合となったそうです。そして、周辺に食べ物、土産物などを売る屋台が立ち並び。チャリオットを操縦するレーサーは、各地から優秀なタレントを求めて探されたようで、サッカーや野球のスカウトと同じ。

コルチェスター・ローマン・サーカス、右手が西の出発ゲイト
サーカスのサイズは、場所によって、まちまちで、最大級のローマのサーカス・マクシムスは、長さ620メートル、幅150メートル、チャリオットがスタートを切るゲイトの数は12、観客は最低15万人収容可能。コルチェスターのものは、長さ450メートル、幅71メートル、8つのスタート・ゲイト、観客は、最低8000人は収容可能であったのではないか、ということ。

コルチェスターのサーカスが確立されたのは、ハドリアヌス帝(英語名は、Hadrian ヘイドリアン)時代の、117~138年ではないかとされ、約150年後の270年あたりには、あまり使用されなくなり、朽ちるに任せたようです。

使用されていたチャリオットは、「ベン・ハー」で見るような金属製のがっしりしたものではなく、もっと軽量なものであったとされます。そういえば、ローマ軍に恨みをもち、その復讐に、コルチェスター、後に、ロンドン、セント・オールバンズを焼き払った、イケニ族の女王、ブーディカが乗っていたチャリオットもこうした軽量の物であったようですし。

観客席は、こんな感じだったというのを見せるため、サーカスの外壁と内壁の土台の間に、ちょっとした模型が組み立てられてありました。写真の左後ろに見える建物には、サーカスに関するちょっとした展示品と、カフェが入っています。

上記の通り、後の発掘や整理整頓により、将来的にもう少し「観光地」という感じに変わる可能性のある場所です。掘り起こされた土台を風雨にさらしておくと破損の可能性もあるので、土台のほとんどは、再び埋められており、後々、こういう形でした・・・というマークか線を描く計画があるという話を聞きました。現段階では、ここに、かつて、大観衆が訪れ、自分の好きなチームに声援を送っていたと実感するには、かなり想像力を働かせる必要がありますが、それなりに面白い訪問でした。

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