ビアトリクス・ポターも宿泊したメルフォード・ホール

サフォーク州ロングメルフォード(Long Melford)は、その名の通り、ながーいハイストリート(目抜き通り)が村の真ん中を走っている事で知られています。このロングメルフォードの目抜き通りの北端にあるのが、現在は、ナショナル・トラストによって管理されている屋敷、メルフォード・ホール(Melford Hall)。

この館は、かれこれ9年前の2007年に、一度訪れ、観光済みなのですが、今年の5月に、再訪しました。今年は、ピーターラビットの生みの親、ビアトリクス・ポター(Beatrix Potter)生誕150年記念。彼女は、この館を幾度か訪れた事があるので、記念の年に、また見てみてもいいかと。

前回の訪問で買ったガイドブックを持参で行き、館内で時々立ち止まって読んでいたところ、各部屋にいるボランティアのガイドさんの一人に、「あ、そのガイドブック、かなり古いやつでしょ!今のものと全然違うもの。前にも来たことあるの?」と見抜かれてしまいました。

館の歴史をざっとおさらいすると、

昔々、ノルマン人制服の前の時代から、館のある土地は、サフォーク州ベリーセントエドモンズ(Bury St Edmunds)のベネディクト派修道院の所有で、修道院長が娯楽と休息のために使える館があったのだそうです。周辺の地には狩猟用のシカが放たれ。修道院長は、かなりの贅沢を楽しんでいたようですが、やがては、ヘンリー8世の修道院解散で、国により没収されてしまいます。

ロングメルフォード教会内のウィリアム・コーデルの記念碑
その後、この地を手に入れたのが、地元出身の宮廷人ウィリアム・コーデル(Willam Cordell)。カトリックであったため、ヘンリー8世の娘、メアリー1世(ブラディー・メアリー)に気に入られ、1554年に、メルフォードの地を与えられます。彼が、現在の館の大部分を建設したと思われているようですが、ベリーセントエドモンズ修道院の最後の修道院長であったジョン・リーブ(John Reeve)が、修道院解散の直前にすでに建てたものに手を加えただけではないかという説もあるようです。いずれにせよ、コーデルは、カトリックであったにも関わらず、プロテスタントのエリザベス1世の時代になってからも、成功を続け、1578年には、当館でエリザベス1世をおもてなししています。

17世紀半ばのイングランドの内戦の際には、暴徒により館内が荒らされ、かなりの被害を受けたようですが、後の所有者により修繕改造が行われ、1786年に、現在も館の一角に住んでいるハイド=パーカー(Hyde Parker)家の手に渡ります。この一家は、伝統的に海軍の家柄で、館内には、数々の海戦の絵画なども飾られていました。

第2次世界大戦中は、館は陸軍によって使用されており、1942年、大火事が発生。館の一部と、内部の家具、調度品、絵画のいくつかが消失することとなります。戦後、綺麗に修復されていますが、館内に入ると、火災被害のあった部分は、ちょっとキャラクターにかけており、後から手を入れたというのがわかります。ハイド=パーカー家が、館の一部に居住を続ける前提で、ナショナル・トラストの手に渡るのが1960年。

中世を思わせる、重厚な入り口ホール。

リージェンシー時代の1813年に建設されたライブラリー。

これは、一見全部本棚ですが、隠し扉の様に、一部ドアになっています。

居間にはデリケートなロココ風調度品が並んでいました。

さて、メルフォードホールは、イギリスで初めてセントラルヒーティングのシステムを導入した館のひとつだ、とされているのですが、このセントラルヒーティングというのは、まだ非常に簡単なもの。1階から2階へと上がる階段の踊り場にに、1813年という年代が刻まれた、金属の丸い蓋のようなものがあるのですが、どうやら、階下の暖炉からの温かい空気を上階に逃す役割を果たしたようです。ぞの温暖効果は、さほどなかったと思います、気休め程度で。館内のガイドさんは、今でも、冬になると、内部がいかに寒いかという話をしていました。

さて、ビアトリクス・ポターですが、彼女は、当館のハイド=パーカー家の奥方、エセル・ハイド=パーカーのいとこであったため、時折、遊びに来ていたのです。一家の子供たちは、いつも沢山のペットの動物を連れて到着するビアトリクス・ポターの訪問が楽しみであった様子。

彼女がハイド=パーカー家の子供たちにあげたという、あひるのジマイマ(Jamima Puddle Duck)のモデルのぬいぐるみも展示されています。年代物なので、片目がなくなっているそうで、目がまだ残っている面が、こちらに向けられていました。

ビアトリクス・ポターがお泊りの時に使用したベッドというのがこちら。

このベッドにねずみが寝ている彼女の絵が壁に掛けられていました。いたずら描き風で、楽しいです。

彼女は、滞在中、館内や庭園で色々スケッチをして過ごし、特に、庭の、蓮に覆われた丸池は、1906年出版の「The Tale of Mr. Jeremy Fisher、ジェレミー・フィッシャーどんのおはなし」のシーンを描くのに役立ったそうです。ちなみに上の池の写真は、9年前に訪れたときのものです。今年行ったときは、池は、緑色の藻に覆われ、その他、内部に何も生えている気配がなかったので。

「ジェレミー・フィッシャどんのおはなし」は、この家の次女ステファニー・ハイド=パーカーに捧げられており、冒頭に、

For Stephanie from Cousin B.
ステファニーへ、いとこBより

と書かれてあります。この話を、絵入りで英語で読むのは、下のリンクまで。上に載せたジェレミー・フィッシャーのイラストもこのサイトから拝借しています。
http://www.gutenberg.org/files/15077/15077-h/15077-h.htm

この本の出版の前年1905年の夏に、ビアトリクス・ポターは、編集者であり婚約者であったノーマン・ウォーンをリンパ性白血病で亡くしており、有名な湖水地方のコテージ、ヒル・トップも同年に購入。婚約者を亡くした悲しみを、ヒル・トップの整理や、ジェレミー・フィッシャーの物語出版に向けて働く事で紛らわせたようです。ノーマンから引き継いで編集を司った、ノーマンの兄、ハロルドに、「仕事に専念することと、あなたの思いやりが、今の私の慰めです。」といった趣向の手紙を残しています。

メルフォードホール館内の案内係の人に、まだ行っていなかったら、この後、館の前の道路を渡ってから、少し北へ歩いて、ロングメルフォードの教会にもぜひ行くようにと勧められ、アドバイスに従い、教会へ。教会へ至るのに、それは広い緑地を越えていくのですが、振り返った見晴らしもなかなか。

毛織物の富で築かれた数あるサフォーク州の立派な教会の中でも、ロングメルフォードの教会は、まるで大聖堂かと思うほど大きく、この周辺で見た中では、最も威厳あるものです。

教会内の、お土産コーナーでティータオルを購入したのですが、この時、レジにいた女性は、以前、ご主人の仕事の関係で、数年、東京に住んでいたことがあるそうで、その頃の思い出話をひとしきりしてくれました。

今年5月のこの訪問の際は、近郊の町、サドベリーの駅まで電車で行き、そこから、今は無い鉄道路線が遊歩道となっているのを辿って北へ歩き、ロングメルフォードへ到着しました。この時、遊歩道は、両側にはこぼれるようにさんざしが咲いていて美しかったのです。

前回のラヴェナムに関する記事では、ラヴェナムから、閉鎖された鉄道の遊歩道を辿ってロングメルフォードまで歩き、バスの待ち時間の間、メルフォードホールでお茶をしたという話を書きましたが、この、今は無き鉄道路線は、昔は、サドベリーから、ロングメルフォードを通り、ロングメルフォードから、一つの線は、ケンブリッジ方面まで続き、もうひとつの線は、ラヴェナムを通過してベリーセントエドモンズまで続いていたのです。この両路線がまだ生きていたら、周辺の旅行も、バスや車のみに頼ることなく、もっと簡単だったのでしょうに。車ばかりが増えているのも、駐車や渋滞の問題が深刻となり、困りものですし、海外からの観光客誘導には、鉄道があるのとないのとではかなり違いますから。残念です。

長いロングメルフォードの目抜き通りには、可愛らしいカフェやアンティークセンターなどが点在します。帰りは、さすがに疲れたので、歩いて帰る元気はなく、サドベリー駅までバスで戻りました。

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