薔薇の名前

テレビで、映画「薔薇の名前」がかかっていたので、実に久しぶりに見てみました。イタリアの作家ウンベルト・エーコ原作、14世紀前半、北イタリアのベネディクト派修道院を舞台にしたなぞの殺人事件の顛末を追う物語。当修道院を、弟子アドソを連れて訪れるのは、フランシスコ派の僧バスカビルのウィリアム(ショーン・コネリー)。ショーン・コネリーが出ている映画で見た中では、一番好きなものです。彼は、マネキンの様なかつらをつけていたジェームズ・ボンド時代より、この辺りからの方が、渋みが増してよいのです。物語は、年を取ったアドソが、過去を振り返って書き留めるというナレーションによって、語られます。

あらすじ

キリスト教教義についての会議に出席すべく、ウィリアムとアドソは、山の上のベネディクト会修道院を訪れる。修道院では、彼らが到着する直前に、若く美しい装飾写本者の僧が塔から墜落死するという事件があり、僧達の間では、院内に悪魔の力が潜んでいるのではと、不穏の空気が流れていた。過去、異端審問官であった経験のあるウィリアムに、院長は、事件解決のための相談をもちかけ、ウィリアムは、シャーロック・ホームズよろしく、独自の調査を始める。ワトソンを引き連れるようにアドソを引きつれ、現場を観察しながら「エレメンタリー!」などと言うところも、ホームズを髣髴。

その後、いくつかの殺人が起こる。殺害された者達のひとさし指と舌は、なぜか真っ黒に染まっていた。事件のなぞは、図書館係りの者と、盲目の長老以外の立ち入りが禁じられている塔内の図書館に収められた本にある、と睨むウィリアムは、夜中、アドソと共に図書館に侵入。塔の中にあったのは、貴重本を多々含む、キリスト教世界の中で、最もすばらしい図書館であった。ウィリアムが、事件が院内の者による殺人である事を院長に告げると、スキャンダルを恐れる院長は、異端審問官、ベルナルドを招く。ベルナルドは、過去、ウィリアムが異端審問官であった時代に、意見を対立させた宿敵であり、彼のせいで、ウィリアムは一時命を落としかけたという過去がある。

ベルナルドは、頭の弱いせむし男と彼の保護者、そして、たまたま修道院に居合わせた貧しい娘を捕らえ、彼らが悪魔の力で殺人を犯したとして、火あぶりの刑を命じる。ウィリアムは、彼らの無実の証明のため、再び図書館へ侵入。内部で、存在が定かではないとされていた、アリストテレスの「詩学」の第2部の本を抱える長老と遭遇。笑いとユーモアを、キリスト教の敵として憎悪する長老は、喜劇の効用を説くこの本の角に毒を塗り、この本を探し当て、ページをめくりながら、指をなめた者達が、その毒で死んでいったのだった。ウィリアムが真相を突き止めたと知ると、長老は、塔に火を放つ。燃え上がる塔を見て、火あぶりの刑の執行中であったものの、ベルナルドはあわてて馬車で修道院を去ろうとし、門の外で、怒った村人達により馬車を転倒させられ、死亡。ウィリアムは、いくつかの本を抱えて命からがら塔から逃げ延びる。貧しい娘は、ぎりぎりで、火あぶりにあわず助かる。

アドソは、修道院滞在中に、院内でこの貧しい娘と出会い、美青年である彼は、娘に一目で気に入られてしまい一夜を共にし、若気の至りか、彼女に惚れてしまう。ウィリアムと共に、院を後にするラストシーンで、娘が、彼の前に姿を現し、心揺れるものの、彼は娘を後にし、師の後を付いて行く。年老いたアドソは、自分のその時の決断を後悔する事は無いものの、今でも、地上での唯一の愛の対象であった彼女の顔が心から消えないと言う、名前すら知らなかった少女なのにと。

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ウィリアムが修道院にやって来たのは、もともとキリスト教教義の討論のためで、ウィリアムの他にもフランシスコ派の修道士たち、そして教皇の代弁者たちが、修道院に集まり、「教会は貧しくあるべきか」どうかの議論が戦われる場面があります。フランシスコ会は、裕福になりすぎた教会や修道院に反して、キリストは貧しかったのであるから、その教えを追う者も質素でシンプルな生活を送るべきだという、創始者アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)の信条をモットーとする集団。貧しい者の事を絶えず忘れないように、そして本人もできるだけ質素な生活を送るような態度を見せている現在のローマ教皇が、このアッシジの聖フランシスコの名前を選び、フランシスコ1世となったのも、これが理由でしょう。ちなみに、聖フランシスコは、フランスで生まれたため、この名がついたのだそうです。

創始者聖フランシスコの時代は、本を所有する事も物欲と見なされ、聖書以外のものの知識や学問の習得は、虚栄に繋がるとしていたそうです。この、学問に対するやや強硬な態度は、後に徐々に改まっていくようですが、知的好奇心旺盛で理論的なウィリアムが、他のフランシスコ会の仲間達から、「知的プライドが強すぎる」「ウィリアムはいつでも正しい」などと、少々なじられるのも、フランシスコ会のこうした一面の描写かもしれません。

また、伝統的なベネディクト会と相対して、フランシスコ会が、笑いや喜びと言うものを大切にするという違いが、笑いを嫌う長老と、笑いは良いものとするウィリアムの間での会話に現れています。

Laughter is a devilish wind which deforms, uh, the lineaments of the face and makes men look like monkeys.

Monkeys do not laugh. Laughter is particular to men

長老:笑いは人間の形相を乱し、サルの様な顔に変形させる悪魔が送り込む風じゃ。

ウィリアム:サルは笑いません。笑いは、人類独特なものです。

こんな台詞をはく長老の顔が、非常に薄気味悪く醜いところが皮肉です。

キャロルを歌う習慣や、キリストの死のイースターばかりでなく、キリストの誕生を祝うクリスマスを称える習慣も、フランシスコ会に負うところが多いようです。また、彼らは、グレー・フライヤーズ(灰色の修道士)と呼ばれていたのですが、実際に着ていた衣の色は茶色だったという話を聞いたことがあります。

ギリシャ(マケドニア)の哲学者で、プラトンの弟子であったアリストテレスの「詩学」は主に悲劇に関して書かれたものですが、喜劇に関して書いた第2巻も存在するのではないか、という噂は実際にあったようです。紀元前4世紀に書かれた「詩学」が、ラテン語に訳され読まれるようになるのは、実に15世紀になってからのことだそうで、アラビア語訳の方がずっと早く出回ったのです。それというのも、中世の教会では、科学的考え方を多く含むギリシャの哲学者の思想を、この映画の長老の様に異端視する傾向が強かったため。特にアリストテレスは、「世界は永遠に存在していた」という事も説いてたため、キリスト教の「神が世界を創造した」とする考えとは相容れないものがありましたし。やがては、こうした古典の再発見と見直し、ラテン語への翻訳が、ヨーロッパのルネサンス文化へと繋がっていくのです。アリストテレスの時代から、なんと2000年近くたってから・・・。

「このままでは、異端審問(Inquisition)を呼ばねば。」と修道院長がもらした時、横に座って一緒に見ていただんなは、私の方を向いて「Inquisition?Inquisition?(異端審問?異端審問だって?)」と、薄笑いを浮かべて言うのです。次に、だんなの口から何が出てくるか察したので、その後、二人で一緒に「Nobody expects the Spanish inquisition ! (誰もスペインの異端審問が来るなんて予期していない!)」と声を大にして言って、爆笑しました。「Inquisition」という言葉を聞くと、条件反射のパブロフの犬のように、よだれのかわりに、このモンティ・パイソンの台詞が出てくるイギリス人、山といるでしょうね。日本では、このモンディ・パイソンの台詞、「まさかのときのスペイン宗教裁判」と訳すのがもっぱらのようですが、キャッチフレーズ風に訳すなら、私なら「おどろき、もものき、スペイン宗教裁判登場!」といきたいところです。このフレーズ、グウィネス・パルトロー主演の映画「スライディング・ドアー」内で、何度も使われていましたっけ。たしか、映画の最後の台詞もこれでした。

視覚的に、薄気味悪い中世の修道院の雰囲気が非常によく描いてありましたが、特に図書館は、オランダの版画家マウリッツ・エッシャーの絵さながら、上へ下へと入り乱れる階段が、いくつもの小さい部屋を結ぶ迷宮のようで、美しかったです。

原題:The Name of the Rose (イタリア語Il nome della rosa)
監督:Jean-Jacques Annaud
言語:英語
1986年

「薔薇の名前」を見直した後、かなり前、新聞のおまけに、「神の道化師、フランチェスコ」というロベルト・ロッセリーニ監督の映画のDVDが付いてきて、なんだか、説教臭そうでつまらなそうだ・・・と見ないままになっていたのを思い出しました。そこで、これを期に、これをDVDプレーヤーに突っ込みました。

13世紀前半、フランチェスコが同志達と共に、ローマで教皇イノケンティウス3世より宗派としての活動を許させて、希望いっぱい、喜びいさんで道を行く場面から始まります。しばし、アッシジ近郊のほったて小屋に住み、外を回り、托鉢修道士として教えを説く、初期フランチェスコ会の生活ぶりを、いくつかのエピソードに区切って描いています。最後は、一同、アッシジを離れ、其々、布教の旅に出るところで終わり。「どこへ行けばいいのか?」という問いに、フランチェスコは、目をつぶって倒れるまでぐるぐる回るよう命じ、みなが地べたに倒れた後、其々の頭が向いている方角へ進むように、と告げ、皆、散っていくのです。

俳優たちはアマチュアで、中には本当のフランシスコ会の僧が含まれているということです。野原をうれしそうに駆け回る坊さん達の様子が妙にかわいらしく、なかなか面白く見ました。

原題:Francesco giullare di Dio (英語 The Flowers of St. Francis)
監督:Roberto Rosselini
言語:イタリア語
1950年

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