不満の冬

Now is the winter of our discontent
Made glorious summer by this sun of York;
And all the clounds that lour'd upon our house
In the deep bosom of the ocean burried.

不満の冬は
今や、我らヨーク家の陽光により輝かしき夏となり
我家を覆っていた雲は全て
深い海の底に沈む

リチャード3世、第一幕、第一場 (ウィリアム・シェークスピア)

これは、薔薇戦争の終結を描いた芝居、「リチャード3世」での、ヨーク家のせむし男リチャードの最初の台詞です。宿敵ランカスター家をくだし、リチャードの兄が、エドワード4世として王座につき、権力を求める血みどろの戦いは、ヨーク家の勝利により、無事終わったかに見えた・・・が・・・。と、芝居と中世の歴史の話は、いつかまた別の機会に書くこととして、場面を、早送りで、20世紀へ移します。

この、シェークスピアの台詞からとった「winter of discontent」(不満の冬)というフレーズは、1978・79年のイギリスの冬を指して、良く使われます。この冬に繰り広げられた悲喜劇の主人公は、時の労働党の首相ジェームズ・キャラハン。サニー・ジム(陽気なジム、ジムはジェームズの愛称)とニックネームされた比較的人気だったキャラハン首相と労働党内閣が、政治的致命傷を受ける冬と化します。


1973年10月の第4次中東戦争(ヨム・キプル戦争)を原因として起こったオイル・ショックの影響と、賃金の上昇で、イギリスのインフレは、以前に増して、歯止めが利かぬものとなり。1970年代を通してのインフレ平均年間上昇率は13%、1975年には、これが25%に達します。政府は、インフレの更なる悪化抑制のため、公共サービス労働者(パブリック・セクター)の給与上昇率を5%までと制限し、その他一般職(プライベート・セクター)の給与もそれに見習うものとする苦肉の対策にでるのです。

が・・・政府にとって頭が痛かったのは、当時の労働組合が非常に強力であったこと。ストライキを規制する法もなく、労組は、比較的安易に、ストライキを起こすことができたこと。戦後の50年代から、労組は、国の財政状況がどうであれ、ストライキに次ぐ、ストライキを繰り返し、イギリス産業の効率は海外との競争についていけずに、下がる一方。国の再建にむけ、多少の辛抱と勤勉で勢いをつけていったドイツや日本とは対照的。

そんなイギリスの労組が、政府の給与上昇率上限5%の規制に、大人しく対応するわけもなく。1978年秋、イギリスのフォード社において、労組が、30%の給与上昇を要求して、ストライキを起こし、最終的に17%上昇を獲得。ひとつの機関が、5%以上の賃金上昇交渉に成功すると、あとは、「我も我も」・・・というやつで、次々と、高賃金を要求してのストライキはプライベート・セクターから、パブリック・セクターへ、そしてイギリス全国的にに広がり、国は膠着状態。

当時を知る人にとって、この「不満の冬」を代表するイメージは、ロンドンをはじめとする大都市で、ごみ収集人のストライキにより、高く積まれたままのごみの山が、道端で異臭を放ち腐っていく光景のようです。(上の写真は、当時のロンドン、レスタースクエアの様子。イブニングスタンダード紙のサイトより拝借。)このゴミの山シーンは、映画、「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」にも登場します。

ストライキで、通常生活に支障がでる上、非常に寒い冬だったということで、一般市民は、更に惨めな気分。この事態の最中に、キャラハン首相は、カリビアンで行われた国際サミットに出席。サミットからもどり、ヒースローに降り立った際、レポーターに、今イギリスが直面しつつある緊急事態にについてどう思うか、の質問を受け、首相いわく「海外の人間は、現在、わが国が、混沌に陥っているなどと思っていないようだ」・・・この答えが、タブロイド紙(大衆紙)のサンとデイリー・メイルによって、首相は、「Crisis? What crisis?」(緊急事態だって?何が緊急事態なのかね?)と言ったと報道されてしまい、市民の、政府に対する怒りと不満に拍車がかかるのです。タブロイド紙が、事実をセンセーショナルに、多少曲げて報道する、というのは、良くある話ではありますが。

やがて、2月14日に、政府と労組間の、「聖バレンタインデーの協定」(St Valentines Day Concordat)において、政府の5%制限は、事実上失敗に終わった形となります。 バレンタインデーの協定後、ストライキは3月までには、ほぼ収まることとなりますが、この不満の冬が災いし、1979年5月に行われた総選挙で、キャラハン政権は、マーガレット・サッチャー率いる保守党に敗北。労組との本格的バトルは、こうして、サッチャー女史にバトンタッチされることとなります。そして、その後、しばらく、党内、真っ二つに割れて、いさかいを続ける労働党が、イメージを一新し、「ニュー・レーバー」と銘打って、トニー・ブレアの下、再び政権へ返り咲くのは、なんと18年後の、1997年5月の総選挙まで、おあづけとなるのです。

キャラハン首相は、戦後作られたイギリス福祉社会の大盤振る舞いに、このままではいかん、と歯止めをかけ始め、サッチャー女史の功績となっている様な事を、彼が徐々にすでに始めていたわけです。そして、サッチャーの幸運の女神は、何と言っても北海油田からの営利。キャラハン時代には、まだ北海油田の恩恵が、さほど出始めていなかったのです。政治も、運ですね。この冬に、この大掛かりなストライキがなかったら、それまで人気だったキャラハン政権は生き延びて、現在のイギリス社会は、もっと違ったものになっていたかもしれない。(話は脱線しますが、北海油田と言えば、スコットランドがさかんに英国からの独立を叫べるようになったのも、油田は自分達スコットランドのもの・・・という頭があってのものです。)

何でも、キャラハン内閣の時代は、貧富の差が狭まり、イギリスが過去の歴史上、社会的に一番平等な時代だったなどと今になってから言われています。また、下の階層から、個人の努力で上へ這い上がるソーシャル・モビリティーも、一番高い時代であったと。労組は、欲を出しすぎて、更なる賃金値上げを求め、キャラハン内閣を潰す結果となり、この不満の冬は、サッチャー時代を招き入れるという労組の自殺行為となったわけです。

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うちのだんなは、当時、朝、学校へ行く前に、新聞配達をしていたそうですが、この冬は、特に寒かったのを良く覚えているようです。雪の日も多く、吹雪の中を、ガシガシ歩いて新聞を配り、during the atrocious weather conditions in the winter of 1979(1979年の、非常な悪天候の期間)に、果敢に新聞配達を続けた功労に、賞状をもらい、今でもこの小さな賞状は、額縁に入れて、居間に飾ってあります。歴史的「不満の冬」のちょっとした記念品です。

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