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オスタリー・パークとハウス

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ロンドンの地下鉄ピカデリーラインに飛び乗り、ヒースロー空港駅の5つ前の駅、オスタリーで下車。駅のすぐ前は、車が多い広い道路。ちょっとさびれた雰囲気だな・・・と思いつつ、オスタリー・パークの道しるべを頼りに、途中、コインランドリーなども立つ道を、徒歩10分。駅周辺の風景からは別世界のオスタリー・パーク&ハウス(Osterley Park and House)にたどり着くのであります。 それは見事なたたずまいのオスタリー・ハウス。西側はすぐ、ヒースロー空港であるため、飛行機が、まるで邸宅の屋根に激突するように、角度を落としていきます。 エリザベス女王の金融アドバイザーで、大変な富と権力を誇ったトーマス・グレシャムによって建てられた館を土台に、18世紀に大幅に改築されたものが現在のオスタリー・ハウスです。1773年に、この館を訪れたホレス・ウォルポール(イギリス初代首相ロバート・ウォルポールの息子、政治家、文筆家)は、「金曜日に、我々は、ああ・・・宮殿中の宮殿とでも言える様なすばらしい館を見に行った。サー・トーマス・グレシャムが建てた古い館を何度か見たが、これが、すばらしく改善され、美しくなっていた・・・」との印象を記しています。たしかに、三角屋根の白いポルティコがどーんと正面で出迎えるこの建物、ロンドン内で見たいわゆる昔の大邸宅の中では、ぴか一の威厳です。 ロンドンはシティーのビショップスゲイトにタウンハウスを構えていたトーマス・グレシャムは、オスタリーに農家を有していました。やがて、シティーと、その中で時に蔓延する黒死病の災いから離れたこの地に、レンガ作りの館を建築。周辺の土地の囲い込みも行っています。イギリスの「囲い込み」というと、18~19世紀のものが有名ですが、すでに、それ以前から始まっていた現象です。エリザベス女王は、このオスタリーのグレシャム邸宅に、少なくとも2回訪れ、お泊りをしたという記録が残っています。この女王のお泊りの際に、グレシャムが行った囲い込みに対するプロテストとして、女性が2人、敷地の周りの塀の一部を焼き落としたという事件もありました。 トーマス・グレシャムの死後、館は、数人の手を経て、やがて、1726年に銀行家フランシス・チャイルドの所有となります。彼は、自分自身はこの館に住むことなく、この館の購入理由は、銀行の預金を...

ハム・ハウス

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リッチモンド駅から、テムズ川沿いに歩くこと約20~30分のところに、ハム・ハウス(Ham House)はあります。(この館へ辿りつくまでの道中の風景は、 前回の記事 をご覧下さい。) ハム・ハウスは、ジェームズ1世の時代の1610年、王室の高官であったトマス・ヴァーヴァサーにより建設された館。1637年に、ウィリアム・マリー(第一代ダイサート伯)が住むようになってから、約300年間、ナショナル・トラスト所有となるまで、ダイサート伯爵家の人々の住処となります。庭園を含め、内部も、大幅な改造を受けることなく、比較的17世紀の雰囲気をそのままに残す事で知られている館です。 このウィリアム・マリーという人物は、子供の頃、ジェームズ一世の息子、チャールズ(後のチャールズ1世)のウィッピング・ボーイだったそうです。ウィッピング・ボーイなるものは、王子様が悪さをした際や、まじめにお勉強しない時などに、当の本人に代わっておしおきを受けるという、なんともいたたまれない役割の子供の事ですが、その甲斐あって、チャールズ1世との絆は深く、こんな立派なお屋敷も住まわせてもらえた上、ダイサート伯爵号も獲得。現在では、当然ウィッピング・ボーイのような習慣はなくなっていますから、自分の息子を、ウィリアム王子とキャサリン妃の王子様、ジョージのウィッピング・ボーイにして、後々は立派なお屋敷を手に入れさせようなんて企んでも無駄です。また、もともと、ウィッピング・ボーイも、貴族の息子が選ばれていたようなので、一般庶民の子供が選ばれる事もなかったわけですし。 ウィリアムの死後は、ウィリアムの一人娘のエリザベスがダイサート女伯爵号を受け、また自分の息子に伯爵号を世襲させる権利を獲得。当然、王党派であったため、ピューリタン革命とその後の共和政時代、エリザベスは、細心の注意を払ってサバイバルするのです。オリバー・クロムウェルを巧みにかわしながら、王党派と王政復古のための、スパイまがいの闇の努力も行うという、かなり肝の座った女性で、機知に富むとの評判もあったようです。彼女の2度目のだんなとなるローダデイル公も、共和政時代は、監禁状態となったものの、王政復古で、チャールズ2世が王座に着くや、政治的にパワフルな人物として返り咲き。この二人が結婚した1672年、夫婦は、自分達の身分にふさわしく、ハム・ハウ...

リッチモンドでテムズ川沿い散歩(リッチモンド・ブリッジからハム・ハウスへ)

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イギリスにリッチモンドと呼ばれる場所はいくつかあります。「強固な丘」を意味する、「Riche Mount」 がその名の由来ですが、イギリスで一番古いリッチモンドと呼ばれる場所は、北ヨークシャー州、スウェール川沿いのリッチモンドで、これは、11世紀、ノルマン朝のウィリアム1世時代に遡る町。もともとは、フランスの地名を取って命名されたようです。このヨークシャーのリッチモンドの強固な丘の上には、ノルマン時代のお城がどっしりと立って町を見下ろしています。ヨークに住んでいる際に、2,3回訪れた、好きな町です。 一方、一番有名で外国人も知っているリッチモンドは、キュー・ガーデンからもほど遠からぬ、ロンドンのリッチモンド・アポン・テムズでしょう。荘園といくつかの漁師のコテージの集落で、当時はまだSheneと呼ばれていたこの土地に、エドワード3世が館を建てた事から、この土地と王室の関係が始まります。エドワード3世が、この館で息を引き取った後、召使いたちが指輪等を抜き取って盗んだと言うエピソードが残っています。 この地がリッチモンドと呼ばれるようになるのは、更に時が経ち、ヘンリー7世の時代。チューダー朝創始者であるヘンリー7世は、数ある王室の館のなかでも、こよなく愛したこの地をリッチモンドと呼ぶようになり、アーサー、ヘンリー(後の8世)の二人の息子達は、ここで育てられます。火事で一部焼けた後、館は再建され、これが、パレス(宮殿)と呼ばれるようになり、ヘンリー7世が当時ヨークシャーのリッチモンドを有していた事から、その宮殿と周辺の地がリッチモンドと呼ばれるようになるのです。こうして、リッチモンド宮殿は、チューダー朝の君主達のお気に入りとなります。ヘンリー7世とエリザベス女王も、この宮殿にて死去。残念な事に、共和制オリバー・クロムウェルの政権下、チャールズ1世が処刑された後、宮殿は破壊されてしまいます。それでも、後の王者達もこの土地を愛し、また、多くの富裕者、有力者達、画家文化人がここへ居を構えるのです。 というわけで、現在でも城が幅を利かせているヨークシャーのリッチモンドと違い、リッチモンド・オン・テムズの名声は、城や宮殿によるものではなく、ロンドンのみならず、英国内の町の公園としては最大のリッチモンド・パークと、丘の高台からテムズ川を臨む景観によるところ大きく、過去の...

北から眺めるロンドン・スカイライン今昔

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ロンドンのプリムローズ・ヒル(Primrose Hill)は、 リージェンツ・パーク のすぐ北にある公園。中世の時代は、鹿やイノシシもいた森であったのを、エリザベス朝に木々が取り除かれ牧草地となります。プリムローズ・ヒルという名前は、かつて、この地一面に咲いていたプリムローズからきたもの。 他の有名なロンドンの公園に比べると比較的小さめですが、この63メートルの丘の上から、南斜面を臨んだ地平線には、遮るもの無く、ロンドンのスカイラインが一面に広がります。私が前回ここに立った時は、当然 シャード なども無く、地平線から突き出す建物の数はもっと少なかったはずです。そして、時代をもっと戻せば、木々のかなたに望めるのは、セント・ポール寺院のドームと、今は高層ビルの陰に潜む多くの教会の尖塔だけだったのでしょう。 セント・ポールのあるシティー西側は、寺院のドームの眺めの阻害にならないように、高層ビルの建設には規制がかけられているようですので、昨今の新しい高層ビル建設は、主にシティーの東側に集中します。どれだけ奇抜な形のビルを作れるか・・・の競争のような感じで、次から次へと、妙な建物がにょきにょきと地平線から生えてくる感じです。今話題の新しいビルは、地階に比べ、上階が外に突き出している、頭でっかちのビル・・・人呼んでウォーキートーキー(トランシーバーの意)。上の写真の左手のものです。今年の夏のとある暑い日、このウォーキートーキーの上階のガラスに、お日様がぎらぎらと照りつけ、その反射した日差しで、ビルの下にとまっていた高級車の一部が溶けてしまった、というお笑いの様なニュースがありました。虫眼鏡で日の光を集め、紙に焼き穴を開けた、子供時代の化学の実験を思い出した次第。 1964年に完成したテレコムタワー(上の写真右)は、建設当時はロンドンで一番高い建物でしたが、今やご老公様で、「最近の若い者は背が高いのう。」というところでしょう。ちなみに、一番上の写真でテレコムタワーが、一番背が高く見えるのは、距離が他の高層より近いためですので、あらかじめ。 上の絵は、18世紀後半に描かれた、風刺画家アイザック・クルックシャンクによる「パスタイム・オブ・プリムローズ・ヒル(プリムローズ・ヒルでの余暇)」。すでにこの頃から、ロンドンの景色を楽しむ丘として、この絵の様に、...

キーツ・ハウス

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ロンドン北部の一大緑地ハムステッド・ヒースのすぐ南、キーツ・グローブにある白い館がキーツ・ハウス。1816年に、この館が建設された当初は、外観は一軒家であるように見せながら、内部は2世帯がすめるように真ん中で区切ってあった、こちらでいうセミ・デタッチトの家でした。 詩人ジョン・キーツは、1818年から1820年にかけての17ヶ月間、この館の、区切られた小さいほうの片側に友人チャールズ・ブラウンと共に住み、療養のため(死ぬため)に、イタリアへと出発するのもこの館から。館の残りの片側に住んだのは、キーツの愛情の対象で、婚約者であったファニー・ブローンとその家族(ファニーの母、妹、弟)。 *キーツの生涯の簡単な説明は、 前回の投稿 をご参照ください。 近郊に住む友人を訪ねて、キーツがハムステッドへ足を運ぶようになったのは、1816年のこと。1817年には、弟のトムと共に、ハムステッドのウェル・ウォークという通り(上の写真)で下宿を始めます。 1818年終わりに、弟のトムに結核で死なれ、意気消沈したキーツに、チャールズ・ブラウンが自分の下宿をシェアするように誘いかけ、キーツは、この館へ移り住むのです。翌1819年は、キーツの創作能力のピークだったようで、彼の有名なオード(特定の物、人物に捧げる形式の叙情詩)のほとんどが、この館で書かれたと言います。お隣さんに住む愛するファニー・ブローンは、キーツにインスピレーションを与えながらも、一説によると、お洒落が大好きの、チャランチャランとした性格の人で、彼の悩みの原因ともなったなどと言われます。キーツは、人の背丈が現代より低かった当時でも、かなり背の低い人だったそうで、「ファニーは僕と同じくらいの背丈」という記述が彼の手紙に残っています。もっとも病気になる前は、殴り合いの喧嘩をしたり、スコットランドを足で歩いて回ったりと、いわゆる、なよっとした貧弱な体質ではなかったようですが。 1820年の2月の寒い夜、外出したキーツは、帰り、馬車の料金節約のため、中ではなく、外に座って戻り、すでに兆しが見え隠れしていた結核の症状が悪化。その夜、ベッドで吐血。その際、自分の吐いた血の色を見ようと、キーツはブラウンにろうそくを持ってきてくれるよう頼み、まじまじと手のひらの血を眺めてから、落ち着いた面持ちで、ブラウンに「...

ジョン・キーツの「秋によせて」

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Season of mists and mellow fruitfulness うす霧とやわらかなる豊穣の季節 この季節になると、時折ラジオなどで引用されるのをよく耳にするこのフレーズは、イギリスの詩人ジョン・キーツの「To Autumn」(秋によせて)の冒頭の部分です。つい先週も、「朝もやは、10時頃まで消えません。」という天気予報の後、「Season of mists and mellow fruitfulness」だからね・・・などとニュースリーダーがコメントをしていました。 収穫の終わった、丸めた干草が転がる田畑や、色がかわりつつある木の葉がやわらかな光に包まれる風景の中を車で横切るときに、毎年の様に、まったく文学っ気のないうちのだんなの口からも、「Season of mists and mellow fruitfulness」とこぼれ落ちるくらいです。ただし、数年前、私に「誰の引用?」と聞かれて調べるまで、うちのだんなは、シェイクスピアからの引用だと思っていたようですが。もっとも、普段、詩にはほとんど興味の無い私も、それまでは、「秋によせて」を読んだことがなかったので、えらそうな事は言えません。キーツは、シェイクスピアから多大な影響を受けたようなので、シェイクスピアからの引用、と思っていたのも、それほどはずれた推測ではないでしょう。 ジョン・キーツ(1795-1821年)は、26歳にして夭折したイギリスの詩人。実際に、彼が、詩人として活動したのはわずか3年。 ロンドン、シティー内で馬屋を経営していた父のもとに生まれ、8歳の時に父を事故で、14歳で、母を結核で亡くします。溺愛した母が病の床についてからは、それは良く看護をしたという話です。 最初は、医者になるべく、地方の医師のもとに奉公へ。余暇のほとんどは読書に費やしたといいます。のち、テムズ南岸にあるロンドンのセント・トマス病院、ガイズ病院で学んだものの、自分の人生は詩にあると、医師としてのキャリアを断念。上の写真は、キーツが医学生の時代に住んでいた、ガイズ病院付近の建物です。 初の詩集を発表するのは1817年。1818年に、友人のチャールズ・ブラウンと、スコットランドを歩いて旅をした後から、結核の兆候として、時折、のどの痛みを訴えるようになります。旅行の直後、弟のトム...

保険のロイズ・ビル

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17世紀後半、イギリスに紹介された新しい飲み物、コーヒー。その人気のたかまりと共に、ロンドンのシティー内に、次々と店を開いていく コーヒー・ハウス の数々。1688年に、エドワード・ロイドが開いたコーヒー・ハウス、「ロイズ」(Lloyd’s)もそのひとつです。このロイズ・コーヒー・ハウスの開店が、保険市場として世界的に有名なロイズ・オブ・ロンドンの歴史の幕開けとなります。 海上保険なるものは、中世ロンドンの金融を牛耳っていたイタリアのロンバルディアの銀行家達がイギリスに導入したものとされます。海上保険以前の海外貿易は、それこそ、「ヴェニスの商人」の題材になるような、危なっかしいものであったでしょう。 エドワード・ロイドのコーヒー・ハウスが船長、船主、貿易商たちが集まり、航海の情報を交換、収集ができる場所として評判となると、やがては、ロイズで、適当な海上保険を探し、かける場所としても定着していきます。1713年のエドワード・ロイドの死後も、海洋国としての勢力を伸ばしていたイギリスにおける海上保険の重要性から、ロイズ・コーヒー・ハウスは、海と貿易関係の顧客とそれに関わる取引の場として、繁盛を続けます。世界初の新聞などと称されることもある、ロイズ・リストも発行され。 1771年には、新しい建物へ移るべく、79人の商人、船主、海上保険業者、ブローカーたちが集まり、資金を出し合うのですが、これが、ロイズが一人の経営者から複数の人間により管理経営される保険市場としての第1歩となります。1774年から、現在のバンク駅正面、イングランド銀行のむかいに位置する、ロイヤル・エクスチェンジ内に居を構え、19世紀後半より、海上のみならず、他の保険の取引も開始されます。 1928年には、新しくロイズ専門のビルが建築されます。ライム・ストリート1番にある、現在の、缶詰のようなロイズの建物は、リチャード・ロジャースにより設計、再建され1986年にオープン。(上の写真は現ロイズ・ビルの小型模型です。) 内部を広々としたオープンスペースとするために、エレベーター、トイレ、ごみ捨て、エアコン、下水管、電気回線の類を全て建物の外側に設置。コーヒー・ハウス時代も、ロイズは何度か場所を変えていますが、これは、ロイズの8番目の住処です。 これが、建物の外側にあるエレベー...