オーストラリア初のイギリス植民地

1788年1月25日午後、11隻のイギリスからの船が、オーストラリアの、現ニューサウルウェールズ州シドニー湾内、シドニー・コーブに碇を降ろす。総司令官アーサー・フィリップ(Arthur Philip)によって率いられたこの艦隊は、俗にファースト・フリート(The First Fleet)と呼ばれ、歴史に名を残しています。ファースト・フリートは、総計1300人を乗せ、前年5月にイギリスを出発。1300人の面子は、海軍兵と、公務員、島流しの刑にあった囚人たち。囚人の数は総計の半分近く。目的は、オーストラリアに罪人を送るためのイギリス植民地を確立する事。

1614年から1775年までの間は、イギリスの罪人は、北アメリカのイギリス植民地に送られていたものの、アメリカの独立戦争が勃発(1775年)、更には、アメリカ独立宣言(1776年)後は、それもできなくなり、新しく罪人を送れる場所を求めていたイギリス。前回の記事に書いたよう、キャプテン・クックが、オーストラリア東岸のボタニー湾に到着したのは、1770年。クックの第一回航海へ同行したジョゼフ・バンクスは、牢獄の混雑状態の解決策として、自分たちが訪れたオーストラリア東海岸のボタニーベイはどうか、という意見を、国会に提出。「自分たちが滞在している際に、原住民はあまり見かけず、おそらくあの周辺には50人くらいしかいないであろうし、気温は、南フランスのような温暖さ。土地は、豊穣ではないが、まあ十分。みずみずしい草が生えているので、イギリスから羊や牛を連れて行けば、よく飼育できるであろう。云々。」やがて、当時の内務大臣(Home Secretary)であった、シドニー子爵(トマス・タウンゼント)が、囚人たちを乗せたファースト・フリートをオーストラリアへと送ることとなるのです。

なんでも、このアーサー・フィリップによるファースト・フリートから、最後の罪人を乗せた船がオーストラリアに到着する1868年1月までの約80年間に、オーストラリアへ流された罪人たちの総計は、16万2千人を超すと言います。

アーサー・フィリップは、最初は、ボタニーベイに植民地を設立すべく降り立ったものの、飲み水が少なく、地質が不適当と判断し、少々、北上し、シドニー・コーブに到着。シドニーと言う地名は、上述の時の内務大臣、シドニー子爵から取った名です。

1788年1月26日、上陸後イギリスの旗を掲げるアーサー・フィリップ
シドニー・コーブに碇を降ろした翌日、1月26日の朝、アーサー・フィリップに率いられた海軍兵と囚人たちは、シドニーに降り立ち、アーサー・フィリップは、ニューサウスウェールズ初の総督となります。よって、1月26日は、オーストラリアの日として、今でも式典が行われます。このオーストラリアの日は、メルボルンで開かれる、テニスのグランドスラム4大大会のひとつ、全豪オープンの最中にあたるので、いつも、試合を中断してまで、花火が打ちあがる様子などを見せています。このオーストラリアの日を、輝ける建国の記念日と見るか、白人による侵略の日と見るかは、当然、自分のご先祖様が誰かによって見解が違ってくるわけで、現オーストラリアでは、議論を巻き起こす話題の様です。

人間の他に、羊数十匹、牝牛数頭、牡牛1頭、そして、アーサー・フィリップの犬も、ファースト・フリートに乗って、海を渡ってシドニーにやって来ます。一行は、周辺の土地を開拓し、まずは必要な建物、鍛冶屋、病院、総督の館、男子囚人、女子囚人を別に収容する建物等を建設。

イギリスが勝手に、増えすぎた囚人を送り込むのはいいですが、オーストラリアは、大昔から、各地に原住のアボリジニーの部族が生活をしていたわけです。シドニー湾周辺にも、エオラ(Eora)と言う部族が住んでいた。アーサー・フィリップは、原住部族と友好関係を築くために、最初は努力をしたようです。特に、部族の一人、べノロング(Bennelong)を、総督の館に連れてきて、住まわせ、通訳及び、部族の習慣などを彼から学びます。

イギリス人たちが移植してきて約1年後には、原住民の間で、いままで無かった病気、天然痘が流行し、かなりの人数の原住民がこれで命を落とし、恐れた者たちが、土地を去り別の場所に移ることで、天然痘は、他の場所にも広がっていったそうです。

それでも、原住民の中には、イギリス植民地の内部に入って生活をするものなども出てきて、一応は、温厚な関係は続いていたのですが、やはり、心の中では、いきなり自分たちの土地に現れ、好きなように、土地を開拓し、全く別の生活を展開していくよそ者を、快く思っていない者もいたのでしょう。まあ、それは当然。1790年の12月、イギリス人の一人が、ある原住民部族のリーダー格、ぺムルウイ(Pemulwuy)に槍で刺され死亡するという事件が発生。植民地のやりくり、食べ物不足などで、多大なストレスの下にあったアーサー・フィリップは、この事件に、ぶっち切れてしまい、報復のために、軍を挙げてこの部族の狩り出しを命じるのですが、らちがあかず。

べノロング
アーサー・フィリップは、この後、健康状態を理由に辞任し、なんとか軌道に乗って来た植民地を後に、1792年後半、イギリスへの帰途に着き、翌年5月にイギリスへ無事到着。この際、彼はベノロングと、もう一人の原住民エマルワ二(Yemmerrawanye)を共に連れて行くのです。ロンドンに着いた2人は、西洋風の衣装とマナーを身に着け、しばらくの間は、物珍しさから、社交界でもてはやされるのですが、やがて、徐々に忘れられ、エマルワには到着して2年後に、故郷へ帰ることを夢見ながら死亡。19歳だったそうです。

一方、サウスウェールズ植民地では、ペルムウイ率いる一部原住民による、イギリスからの定住者の農産物を焼く、家畜を殺す、時に襲撃をかけるなどの抵抗が続いており、これは、ペルムウイが1802年に殺されるまで続きます。なんでも、この際、ぺルムウイの頭は切り取られ、アルコール漬けの瓶詰めにされ、原住民たちからの、彼の頭を返してほしいという懇願は無視され、瓶詰め頭は、イギリスに送られたそうですが、今は、どこへ行ってしまった不明とのこと。やがてアボリジニーたちは、イギリス人が持ち込んだラム酒などを多量に飲むようになり、常時よっばらい状態のような者たちも出てきたようです。

しばらく、ロンドンで時を過ごしたペノロングは、やはり体調を崩し、シドニーに戻り、しばらくは総督官邸に滞在したようですが、やがて、彼は、西洋風文化に背を向け、ぴらぴらの洋服を脱ぎ捨て、昔ながらの、自然の中での部族の生活に帰り、1813年に死亡。これには、イギリスの新聞などが、せっかく文化的な生活を伝授したのに、野蛮人として死んだ・・・などと報道されたようですが、こんな驕った西洋人達も、初めて日本に上陸した時、日本人から、お風呂にも定期的にはいらない、毛がもじゃもじゃの野蛮人などと思われたのが、考えてみれば愉快です。

いずれにせよ、以前、ローラ・インガルス・ワイルダー作の「大草原の小さな家」で書いた様、北米の原住インディアンたちが、土地を所有し利用する事を重視した西洋の移民者たち、そして最終的には合衆国政府によって、長く生活してきた土地を追われて行ったのと、ほぼ同じような状態が、オーストラリアでも、この後、繰り広げられていくわけです。

オーストラリアのアウトバックに置き去りにされた子供たち(白人の姉弟)が、アボリジニーの青年に巡り合い、しばし、天然生活を送りながら、アウトバックでサバイバルする姿を描いた、「美しき冒険旅行」(Walkabout)という映画がありました。2つの文化の遭遇と食い違いが、大きな景色の中で描かれていた良い映画でした。

さて、アーサー・フィリップの話に戻りますが、彼は、ロンドンはシティー内の目抜き通りチープサイド周辺、セント・ポール寺院もほど近い場所で生まれているため、セント・ポール寺院から東へ少し歩いたところに、彼の記念碑があります。なんだか、おでこの大きな人です。

また、彼の別の胸像は、チープサイドにある有名な教会、セント・メアリー・ボウ教会内部にもあります。当教会では、オーストラリア・デイには、特別な式典も行われているという事です。

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