イギリスのローマ時代

コルチェスター城内にあるローマ時代のモザイク
イギリスでのローマ帝国の支配が始まるのは、皇帝クラウディウス(Claudius)の軍が現ケント州のリッチバラ近郊に上陸した43年。どもりで、びっこあったとして知られるクラウディウスは、軍人として知られてはおらず、自分の皇帝としての立場と評判の確立のため、遠征軍を送り、イギリス侵略を執り行なったとされます。イギリス海峡を渡る前のローマ兵の中には、海を渡ってまで、得体のしれない辺境の地へ行くのに不信を示した人間も多かったようですが。ちなみに、この時のイギリスへの遠征軍には、後の皇帝となる若き日のウェスパシアヌス(Vespasian)も参加しています。

この時から遡る事、約1世紀前の、紀元前55年と54年に、やはりケント州、ディール付近の海岸線に降り立ったのはジュリアス・シーザー。栄光を求め、また、金銀が取れるなどと言う噂もあって、辺境の地イギリス(この後はブリテンBritainと呼ぶことにします)にやって来たシーザーは、ブリテンを植民地とするでもなく、金銀を掘り上げることもなく、再び海峡を渡ってフランスに戻っています。ですから、クラウディウス帝としては、なおさら、ブリテン征服は、偉大なるシーザーですら成しえなかった快挙という頭もあったのでしょう。

ローマ以前のブリテンは、各地に多くの原住部族が、小国を打ち立てていた社会。言葉も、部族や場所によって、かなりのバリエーションがあったようです。常に部族間の領土争い、小競り合いがあり、ブリテンというひとつの国に属するという感覚は皆無。よって、外敵が上陸しても、一致団結して敵に立ち向かうという状況ではなかったのです。一説によれば、シーザーも、クラウディウスのローマ遠征軍も、敵部族をやっつけるため、ブリテン内の部族のひとつに招かれたという話もあります。

同時代に、ブリテンのローマ時代について書かれた記録は非常に少なく、実際どこで何が起こったか、どういう社会であったかなどは、その数少ない記録をよりどころにしながらも、あとは、各地の発掘による考古学に頼るのがほとんどです。

とりあえずは、ローマ軍は、ケント州リッチバラ付近に上陸したのではないかとされ、ケント州北部を流れるメドウェイ川で、原住部族のひとつと戦い、勝利し、更にテムズ川へと進み、テムズ川で更なる戦い。その後、テムズの川幅が比較的狭く渡りやすい部分から北岸へ渡り、そこに仮の陣を建てる・・・この場所が、現在のロンドンの金融の中心地シティー。そのころのロンドンは、町や村はおろか、特に確立した集落があったわけでもなく、ロンドンは、ローマ人が築いた町という事になります。ここで、おうちに留まっていたクラウディウス帝に、「もう大丈夫だから、来てください」とメッセージが送られ、クラウディウスは、海を渡り、ブリテンへやって来る。この際、ブリテンの野蛮人たちをびっくりさせるため、象なども連れて来たといいます。

クラウディウスが、最終目的地として向かったのは、当時、何もなかったロンドンと違い、ブリテン内、最も重要な場所とされ、かつては威勢を放ったトリノヴァンテ族の首都であった、現エセックス州のコルチェスター(当時の名前はCamulodunumカミュロドゥナム)。ロンドンは、ケント海岸線とコルチェスターへの中継地にあり、コルチェスターへ向かう足場として、便利な場所にあったのです。クラウディウス帝は、自分は何もしなかったものの、英雄さながら、鳴り物入りで、軍を引き連れコルチェスター入りし、そこで、ブリテンはローマ帝国の一部であると宣言。クラウディウスは、ブリテン制覇を誇りに思ったか、自分の息子をブリタ二クス(Britannicus)と命名しています。もっとも、哀れブリタ二クスは、後に、若くして、クラウディウスの4番目の妻(小アグリッピナ)の連れ子で、養子のネロに暗殺されてしまうのですが。こうして、コルチェスターは、一時的に初期ローマ帝国時代のブリテンの、事実上の首都となります。クラウディウスは神として祀られるようになり、コルチェスターにも、立派なクラウディウスの神殿が建設されます。クラウディウスは、ブリテン征服の8年後に死亡。これは、妻、小アグリッピナによる毒殺であったという説もあります。次の皇帝は、ネロ。

ブリテンでのローマ軍はそれからも、更に西へ北へと進み、年を経るとともに領土を広げ、最終的には、スコットランドを除く、ブリテン島のすべてはローマ支配下にはいります。ローマに対する原住部族の反応は、まちまちで、戦い続けた部族もあれば、ローマの保護下にある従属王国として存在を続けた部族もあり。ローマ支配が始まってまだ間もない60年に起こったイーストアングリア地方を拠点とするイケ二族ブーディカによる反乱は、従属王国であったイケ二族に対するローマの傲慢な扱いを引き金としています。(詳しくは過去の記事「ブーディカ」を参照ください。)ブーディカは、まずは、コルチェスターで、トリノヴァンテ族と組して、ローマ市民をほぼすべて虐殺、町を焼き払う。一部逃れてクラウディウスの神殿に立てこもった人々も、神殿と共に燃えて土となり。ブーディカの軍は、更にこのあと、便の良さを利用した市場の町(マーケット・タウン)として形作られていたロンドン(当時の名はLondiniumロンディニアム)を焼き払い、セント・オールバンズを焼き払い。ロンドン、シティー内の過去の発掘で現在の目抜き通りの下に、ブーディカの反乱の際の焼け跡として、赤土の層が発見されています。

ブーディカの反乱後、ロンドンがコルチェスターより重要性を持った町として浮上し、瞬く間に、再建が開始。再建のための材料などを船で運び込むのに必要な、港、船着き場の建設は、反乱直後に始まり、防衛強化のための駐屯地も設置され、75年までには、フォルム(公共広場)、バシリカ(行政所、裁判所)が、現レドンホール・マーケットのある場所に確立、公共浴場、現ギルドホールのある場所には、アリーナ(amphitheatre、円形競技場)も建築されます。

85年から2世紀初頭にかけては、更なるロンドンの拡大が続き、特に、テムズ川を渡る唯一の橋であったロンドン橋が建設されたのち、主要なる貿易の場所としてのロンドンの地位は跳ね上がります。

ローマ時代のロンドンは壁に囲まれていたことで知られ、今も、その壁の一部を見れる場所がありますが、このロンドンをくるりと囲んだ壁が建設されるのは、ローマ時代も中盤に入った、200年ころの事。この時は、川に臨む部分は壁の建設はされず、北と東西の3方のみの壁でしたが、275年ころにかけて、アングロサクソン族などの、テムズ川からの侵入なども時に起こるようになり、川沿いの防御も必要となり、川沿いにも壁が建てられます。川沿いの壁は、時と共にテムズ川に流されてしまったようですが。350年ころからは、他にも、本格的な侵入に対する防御が強化されています。

すでに3世紀半ばの250年あたりから、徐々にローマが確立したブリテン内の町も縮小し始め、公共物の建設修繕もとどこおり、これ以後の建物は、以前の建物に使用した材料の使いまわしなどで済まされるようになっていきます。410年までには、ブリテンのみならず、ローマ帝国各地で、侵入してくる他民族による問題が悪化。よって、西ローマ皇帝ホノリウスは、僻地のブリテンにおけるこうした侵入者に対して、直接ローマからの公的な援助を行う事を拒否。このため、名目上、ブリテンにおけるローマの支配が終わったのは、ホノリウス帝がブリテンに対する責任を放棄した、410年とされています。

もっとも、ローマ支配がブリテンから一夜にして消え失せたわけではなく、この後、徐々に徐々に消えていったというのが実情。西ローマ帝国最後の皇帝が退位となるのが476年。5世紀に入ってから、ローマの統制力が徐々になくなり、ロンドンなどのローマが打ち立てた町も、段々とぼろくなるに任せ、外からの侵略に対する防御も維持できなくなり、依然と同じような経済活動が不可能になるに至り、ロンドンなどの町からも住民が散っていった・・・。

それにしても、ブリテンのローマ時代は、後半はたとえ、多少のガタが出始めたとはいえ、400年も続いたのです。今は、瓦礫の下に埋もれてしまった文化ではありますが、その間、ブリテン島は、他の広大なローマ帝国の領土の住民たちと同じく、オリーブ油、フィッシュ・オイル、ワイン、皿や器などを輸入し消費し、金属や羊毛、そして奴隷などを輸出することにより、ローマの巨大ネットワークのひとつとして繋がれていたわけです。ローマ市民の間では帝国共通の言葉ラテン語が話され。帝国内の色々な場所からやって来た人々が交わる、人種のるつぼでもあり。

ドーバー城内のローマの灯台
こうしたローマ時代の経済、貿易の柱となったのは、ブリテンにおけるローマの海軍にあたる「クラシス・ブリタニカ、Classis Britannica」で、彼らは、現ケント州やサセックス州における鉄の精錬、港の建設に携わる他、大陸とブリテン間を行き来する輸出入も執り行い、手紙、書簡などもこのクラシス・ブリタニカによって、海峡間を行ったり来たりしたようです。クラシス・ブリタニカの重要な拠点があったとされるドーバーには、今でもローマ時代に建てられた灯台が見られます。この灯台は、港を見下ろす丘の上の、ドーバー城内にありますが、かつては、この灯台の上に火が燃され、もうひとつ、港を挟むようにして隔てた向かいの丘の上にもあったとされる別の灯台と2基で、出入りする船の手助けをしていたようです。更には、ドーバーの対岸に位置する、フランスのブローニュ・シュル・メール(Boulogne-sur-Mer)にも、やはりクラシス・ブリタニカの拠点があったとされます。

この間の、原住民族の経験は、まちまちで、ローマ風の良い生活を成しえた人物もいれば、奴隷同様の生活をした人物もおり、昔の習慣をひきずりながら半分ローマ風なんて人物もいたでしょうし。上記の通り、文献が少ないので、確実に、こうであったという結論を出すのは難しいようです。

ローマの後、洗練されたローマの公共建築物が朽ちていく中、侵入してきたアングロ・サクソン民族が、ブリテンに新しい社会組織と違った文化、経済活動を持ち込むこととなります。

ついでながら、英作家ロバート・グレイブスの作品に、「この私、クラウディウス」(I, Claudius)という小説があり、1976年に、BBCがこの小説をもとに、同名のドラマシリーズを作っています。日本でも見ることができれば、このドラマシリーズは、とても面白く、おすすめです。セットやエキストラなどにはほとんど金がかかっておらず、メイクなども粗悪で、ごてっとしているところが、かなり昔の作品だな・・・と感じずにはいられませんが、その分、役者たちの演技は良く、シナリオと演技のすばらしさだけで見せているような立派なシリーズです。作家の自由な解釈と想像がが加わっていますが、初代皇帝アウグストゥスから始まり、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロまで続いたユリウス・クラウディウス朝のおどろおどろしい権力闘争の内幕も、追うことができます。ブリテンへの遠征の話、クラウディウスの神殿がコルチェスターに建設される話なども、当然出てきますし。

生まれながらにして、どもりで、ティックのために動きのコントロールができず、びっこをひきながら、頭を常時ぎくしゃくと動かしているデレック・ジャコビ扮するクラウディウス。実は有能であるに関わらず、そうした身体的欠陥から、周りから馬鹿と呼ばれ、お人よしの、箸にも棒にも掛からぬ無害な人物と思われていたのが、勿怪の幸いとなり、親族間にうずまく、暗殺と陰謀を生き抜いて、思いがけなく皇帝の座につく様子が描かれています。

実際、クラウディウス帝がいなかったら、今のロンドンという町は存在しなかったかもしれませんしね。

コメント

  1. デレク・ジャコビ、懐かしい!若いですね!
    「修道士カドフェル」が好きでNHKで放送された時には見ていました。
    この方は今でも活躍されていますか?

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    1. 41年前のものですから、若いですよね。彼は、今でも現役で、舞台もテレビもぼちぼちやっているようです。薄気味悪いカリグラ役をやっていたジョン・ハートは、今年の頭に亡くなってしまいましたが。

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